サイソウ

ソラノリル

サイソウ

 夜明け前の静寂を、彼女の歌が包んでいく。

 音は本来、空気を震わせるものであるはずなのに、透き通った彼女の声は、夜の名残に宿る静けさを際立たせこそすれ、鉱石のように静止した薄明の時間に、けっして波長のひびを入れることはない。

 夜のシフトを勤め終え、駅へと向かう帰路の途中、鉄橋を渡る刹那せつなに、私は彼女の歌に触れる。対岸にコンビナートを望む古い堤防のまんなかで、彼女は、ひとり、たたずんでいる。

 細い背中を流れる、まっすぐな長い黒髪。紺色のえりに水色のタイを合わせたセーラー服は、私もいつかそでを通していた県立高校の夏服だ。

 静謐せいひつな夜明け前の薄闇をまとい、彼女は、うたう。

 私はノイズの混じった常夜灯の光を浴びながら、鉄橋の上から彼女を見下ろす。

 彼女の名前を私は知らない。出会って数週間が経つけれど、私は彼女と言葉を交わしたことがなかった。彼女はただ、ここに揺蕩たゆたう静寂の狭間はざまに私が踏み入ることを許してくれて、彼女の歌に触れることをこばまないでいてくれるだけ。彼女は毎日ここで歌い、夜が完全に明けきる前に、私とは逆の方向へ帰っていく。

 ふっと、影にとけるように、彼女の歌が止んだ。ちょうど一曲、歌い終えたところだった。

 さらり。彼女の髪がゆれる。こちらに向けられるおもて。白い頬に映える漆黒の瞳が、まっすぐに私を見上げる。私を、とらえる。

 そこに宿るのは完全な無音。唇を引き結び、私はゆっくりと彼女のもとへ下りていく。ノイズを生まないように、足音をひそめて。

 コンクリートの割れ目から、雑草がもがくように葉を広げていた。汽水域特有の水の匂いに混じって、濃いみどりの香りが立ち込めている。とろりと甘い、初夏の香りだ。

 たたずむ彼女の傍には、川面に続く階段がある。私がそこに座るのを待って、彼女は再び歌いはじめる。



     星の中 夢をみようとして

     宝石をもたない体で

     磨きつづけていたのは硝子 指を蝕むだけ



 対岸に灯るコンビナートの光が、じわりと闇ににじみ、彼女の輪郭を縁取っている。ここには、私たち以外に、誰もいない。

「いつから、ここで歌っているの?」

 歌い終えた彼女に、私は初めて尋ねた。

「あなたが私を見つけたときから」

 長いまつげで瞬きをひとつ数えて、彼女は静かにそう答えた。歌声よりも少し低い、おとなびた顔立ちに合う、落ち着いた声だった。

「きれいな声だね」

「そう?」

「自分で、そう思わない?」

「自分に聞こえている声と、他人が聞いている声は違うから」

「自信もって良いと思うな。駅前とか、そういう、人のいるところでは歌わないの?」

「今は、まだ、伴奏がないから。バイト代が貯まったら、ギターを買うつもり」

 私の無粋な問いのひとつひとつに、彼女は淡々と答えてくれた。

 けれど、

「プロを目指してるの?」

 その問いが私の唇から放たれたとき、彼女は、ほんの一瞬だけ、いだ表情をわずかに波立たせた。沈黙。彼女の黒い瞳が、ふっと伏せられる。白い頬に、長いまつげの影が落ちる。

「あなたが、それを、きくの?」

「え……?」

「それは、とても残酷な質問」


「答えれば、私はあなたを汚してしまう」


 ふわり。彼女の黒髪が、私の傍を流れた。堤防を上がっていく、華奢な脚。歩調はゆるやかだった。けれど、

「……それは、どういう……?」

 立ち尽くしたまま、私は彼女を呼び止めることができなかった。

 見透かされていたのだ。

 彼女が私の問いかけに首を横に振っても、うなずいても、私の心が呪いを生んでしまうことを。

 いや、すでに生みはじめていたのだ。

 羨ましくて。

 妬ましくて。


 ――美しくて。


 私には奏でられない、透き通った声。

 私には叶えられない、未来を望める器。


 ――夢ヲ追ウ、ナンテ、無責任ナコト、ダカラ。


 どくり。心臓が、いやな跳ね方をする。背中を冷たい汗が伝う。

 ドロドロとにごった黒い衝動が、私の喉をふさいでいく。


 ――売レナカッタラ、自分ノ才能ノナサト心中スルノ?

 ――子ドモニハ、年老イタ親ヲ養ウ義務ガアルノニ?


 夜が明ける。朝の光が、優しい薄闇を切り裂いてくる。いやだ。やめて。暴かないで。私をさらさないで。

 夢中で堤防を駆け上がった。叫び出したい衝動をこらえて。まばゆい光から逃れるように。




           ♪♪




     知っていたの? その組成を

     わずかでも輝いていられたのは

     私が高価だったからじゃなくて

     まわりに散らばるダイヤモンドが

     原石のままだったからだと



 次の日も、彼女は変わらずに歌っていた。彼女の歌には、どこか懐かしい響きを感じる。

 ゆっくりと明滅するコンビナートの光が、夜明け前の薄闇の中、私たちの姿を可視化していく。

 すらりとした彼女の体。

 背が低く何度もダイエットに失敗した私の体。

 いつも落ち着いている、冷静な彼女。

 すぐにどぎまぎしてしまう、人見知りのなおらない私。

 歌だけじゃない。私にないものを、彼女は全てもっている。

「私を沈めたい?」

 彼女が振り返って、私を見つめる。彼女の後ろには、彼女の瞳と同じ、光を吸いこむ黒い河が横たわっている。

「私が沈みたい」

 少し笑って、私は答える。

「考えてたの。夢を追う権利と、家族を養う義務について」

 立てた膝の上に両腕を交差させて、私は呟くように言った。

「権利を選んだら、義務を選んだ人たちから、無責任だって、ののしられる。義務を選んだら、夢を選んだ人たちから、臆病者だって、さげすまれる」

 そうして私は、夢を殺して。

 夢を失くした私の体は空っぽで。

 義務を果たすためだけに日々を消化していく抜け殻でしかなくなって。

「後悔しているの?」

 彼女が問う。夜風が流れる。川面を撫でる、涼やかに湿った初夏の風。

「わからない、けど、当然の判断は下せたんだって、思いたい」

 ちゃんと現実を見られたのだという評価を。

 夢と決別できたのだという自負を。

「歌って。私、あなたの歌、もっと聴きたい」

 振り切るように、私は落としていた視線を上げた。

「私の歌……?」

 いびつな私の微笑を映す彼女の瞳は、心なしか、かなしそうな色をしていた。



     海の中 期待を抱いて

     真珠をもたない喉で

     吐きつづけていたのは泡 酸素を失うだけ



 彼女は、うたう。

 柔らかな静寂を、薄い膜で包むように。

(……そうだ……)

 彼女の歌を聴きながら、私は、ふと、思う。

 胸の奥底に埋葬した記憶。

(私は、どんな歌を、うたっていたのだっけ?)




           ♪♪




 数年振りに、実家の鍵を探した。

「急に帰ってきたと思ったら、なんなの、早々に散らかして」

 押入れを漁る私に、母が小言まじりの溜息をつく。

「ちゃんと元どおりに片づけておきなさいよ。まったく、今年で二十四になるっていうのに、いつまでたっても子供なんだから」

「子供じゃないよ。ちゃんと働いてるし、仕送りだって毎月してるじゃん」

「うるさいわね。親に口ごたえするんじゃないわよ」

 そう言い捨てて、洗濯物を抱えて階段を下りていく母を後目に、私は作業を続行する。

(なんだか墓荒らしをしている気分だな)

 胸をよぎったのは、きっと正しい感覚だ。だって、これは、墓を暴いていくのと同義だから。

 押入れの最奥。古い教科書をおさめた段ボール箱の最下層。

(埋葬はできても、火葬にはできなかった)

 古びた数冊のノートを、そっと取り出す。表紙の右下に小さく記された日付のいちばん新しいものを選んで、ゆっくりとページをめくる。ひつぎふたをあけるように。

(……七年越しだったんだ)

 ノートに綴られた言葉の羅列。

 それは夢の亡骸なきがらだった。私が殺したときの姿のままで、それは変わらず、静かに、ただそこにあった。




           ♪♪




     知っていたの? 生きられることを

     わずかでも眠っていられたのは

     ここが平和だったからじゃなくて

     まわりに佇む墓標たちに

     ひとつの祈りもなかったからだと



「知ってる? ヒトの細胞って、だいたい七年経つと、全部、入れ替わっちゃうんだって」

 歌い終えた彼女に向かって、私は堤防を下りていく。微笑んだ私を黒い瞳に映し、彼女は、じっと静かに私の言葉を待っている。

「私が夢を諦めたのは、十七歳のときだった」

 きっと、あなたの姿と、同じ年。

「あなたの歌を聴いていると、不思議と懐かしい心地がしたの。どうしてだったのか、やっと、わかった」

 薄闇の中で、水面のように、向かい合う。

 風のざわめきも、水のささやきも止んだ、ふたりきりの無音。

「あなたが、ここで、うたっていた歌は」

 私に聴かせてくれていた歌は、

「私が、さいごに創った歌だった」

 誰にも聴いてもらったことなんてない。

 私しか知らないはずの、私の歌。

「あなたは……」

 私にないものを、すべてもっていた。いや、もちすぎていた。

 けれど、それは当然のことだったのだ。

「私の体に残った、さいごの夢のかけらだったんだね」

 いつか思い描いた理想の似姿で。

 殺した夢が化けて出るなんて。

「……そう」

 黒い水面を背に、彼女は立つ。薄い唇がゆるやかに科白を編む。

「もういちど、私を葬る?」

 凪いだ表情のまま、にくしみも、かなしみも、羨みも、妬みも、宿さない、澄んだ黒い瞳に私を映して。

「もういちど……」

 手を、のばした。彼女のほうへ。鏡のように、彼女も私に右手を掲げた。

 指先が触れた、瞬間。

 彼女の手が、水に溶けるように、ゆらりと消えた。

 それだけじゃない。体全体が、ゆっくりと薄闇に透けていく。

「私は……」

 喉が震える。

 音を奏でる。



     価値なんていらない 瞳を注いでくれるなら

     毒だっていい 眠る場所をくれるなら



 狂った音程。酷いノイズにまみれた声。

 美しい楽器には程遠い。至高の曲には届かない。

 それでも、私の体は、歌を吐く。



     願いは いつだって この声を嗄らすだけ

     祈りは いつだって この指を駆らすだけ



 私は、私の歌を、再奏する。

 彼女わたしを再葬するために。



     Can you look me first?

     唯一になれないなら 一番になりたかった

     Can I be your only?

     唯一になれないから 一番になろうとした



 コンビナートの向こうから、光の矢が放たれる。それは揺蕩たゆたう薄闇を砕き、私の足もとに影をちりばめていく。

 夜の膜が破れていく。朝の幕が上がっていく。

 歌って、うたって、うたいつづけて。


 彼女のいなくなった堤防を、私は音もなく蹴った。

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サイソウ ソラノリル @frosty_wing

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