就業時間のそのあとも。

嘉田 まりこ

start!

question-1

 彼との『初めての夜』

 さぁ、そのタイミングの正解は?


 1、デートで気持ちが盛り上がった時。

 2、キスだけでは物足りなくなった時。

 3、『恥ずかしさ』より『もっと一緒にいたい』が勝った時。



 *answer*


 彼と想いが通じて、食事に行った和風ダイニングの個室。


『……紗良』


 他の人に見られない場所だったとはいえ、公共の場所で、しかも付き合ったその日に二度もキスをした。


 私はやらしいのかもしれない。


 二度目に彼の唇が離れたあと、次のキスを期待している自分に気がついた。


 願い通り、甘さが増した彼は何度も私の手に触れる。優しく微笑み、指を絡ませ、時におでこもくっついた。


 けれど、三度目のキスはやってこない。


『いいよ、俺に払わせて』


 お会計が終わり店を出る。

 先に暖簾をくぐった彼の背中。

 その背中に抱き付きたくて仕方なかった。


 つかまえたタクシーに私を乗せたあと『宜しくお願いします』と運転手さんに頭を下げた彼。

 閉まるドアの音と、一人で座る冷たいシート。窓越しに『また明日』と動いた彼の唇。


 動き出したタクシーと、私を見送る彼との間に距離が生まれる。


 振り返ると、最初はハッキリ見えていた彼の姿が他の人に隠されていく。どんどん見えなくなることが、堪らなく寂しかった。



『……あの!すいません!止めてください!』



 数十メートル走らされただけのタクシー。

 運転手さんは困惑していたと思う。


 車から飛び出し彼を隠した人影を一人二人とすり抜けると、すぐに、携帯に視線を落とし信号待ちをしている彼の姿が見えた。



『倉科さんっ!』



 私の声に、彼の顔が上がる。


 ゆっくりこちらを向いた彼は、私に気付き駆け寄った。


『……どした?』


 何かあったのかと、心配そうに私を覗き込むその眼差しに締め付けられる。



『……紗良?』



 私を呼ぶ声に、気持ちが疼く。



『……倉科さん』

『うん』

『……まだ一緒にいたいです』



 俯いてしまうほどに込み上げる恥ずかしさ。……でも、素直な気持ちを伝えられずに過ごす辛い時間はもういらない。



『紗良、これ見て』



 俯く私の視線の先に、彼は持っていた携帯を差し込んだ。


 開かれていた、メール作成画面。

 タイトルは『おやすみ』

 宛先は『麻生 紗良』


 そして本文は……



 ――今日は楽しかった。気をつけて帰れよ――



 ……ただ、それだけだった。



 点滅するカーソルが静寂を作り出す。



 彼は私ほどの気持ちではなかった。

 恥ずかしさよりも、ショックの方が大きくて顔を上げられない。

 落ちた髪を耳にかけたのは、表情を作るまでの単なる時間稼ぎだった。


 浮かれすぎの軽い女。


 ふと思い付いた今の自分を表す言葉。

 傷付く前に飲み込んで、必死に笑顔を作ろうとした。



 ――その時だった。



『……これ、送ろうと思ってたんだけど』



 そう言った彼は、携帯を操作してからもう一度画面をこちらに向けた。



『……本音はこっち』



 書き換えられた文章と照れくさそうに笑う彼。



 ――朝まで一緒にいてほしい――



 頷いた私の手を取り、彼は歩き出す。



『あんまり可愛いことばっか言わないで』

『カッコいい彼氏じゃいられなくなる』

『……顔緩みっぱなし』



 その夜、繋がれた手が離れることはほとんどなかった。


 タクシーの中も。

 彼が部屋の鍵をあける時も。

 三度目のキスをした時も。

 シーツの波に体を預けた時も。


 朝陽に起こされ、目を開けるまで。


 彼と初めて過ごしたその夜。

 彼の体温を感じない瞬間は一度だって来なかった。

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