第3話 暗闇に潜む
夕食を終え、湯船にゆっくりと浸かりながら智子は今日、小林さんから聞いた話を思い出していた。
夫からの暴力を受け、無残にもバラバラにされ殺された静子。女性として幸せにもなれず、しっかりと供養もされなかった静子の事を思うと、目頭が熱くなってくる。
智子も女性としての幸せを成就出来ているとは言い難いが、紗智もいるし、里美と言う友人もいる。
一人寂しく殺され、四十年間この世をさ迷っているのだろうか。あの悪夢や連日続く鼻血なども静子からのメッセージなのかもしれない。
少し、静子に同情してしまう。
しかし、幽霊などと言う非科学的なものを簡単に信じることはできない。悪夢も鼻血もただのストレスによるものと考えた方が現実的だ。
「痛いの痛いのとんでけー」
紗智の無邪気な声が風呂場にまで届いてきた。
「紗智ー。ちゃんとパジャマ着たの?」
返事が無い。
風呂嫌いの紗智は、湯船に入ることを嫌いそそくさと出て行ってしまった。着替えなさい、とは言ったものの、本当にパジャマを着ているのだろうか。
「もうっ」
智子は湯船から出て、バスタオルだけを体に巻き洗面台へと出た。
「……あそこから出たいの? いいよ。ママに言ってきてあげるね」
そんな紗智の声が聞こえたかと思うと、リビングへ続く扉が開いた。目の前には裸の紗智。
「紗智! 裸のままじゃない。それに、ちゃんと体も拭かないで……。風邪ひいちゃ……」
智子の苦言が全く耳に届いていないかのように言葉を続ける。
「ねぇママ。静子ちゃんのこと出してあげて」
静子。
「ね、ねえ。紗智? し、静子って一体誰?」
昼間の小林さんとの会話は紗智には話していない。静子という名前は知る由も無いはずだ。
「ママ。変なの。だって、このおうちに来てからずっと一緒にいるよ」
途端、部屋の雰囲気が異質なものに変わった気がした。
「そ、そんな人はママ知らないよ。この部屋の中には紗智とママだけだ……よね……?」
「んーん。違うよ。いるよ」
「ど、どこに?」
「ここだよ」
紗智は洗面台を指さした。洗面台には、恐怖と驚きが混じった表情の智子と、紗智の頭が映っている。
「オネガイ。ダシテ」
「紗――」
瞬間、部屋中の照明が落ちた。一瞬で明かりは削り取られ、辺りには暗闇が満ちる。明るさに慣れた智子の眼は暗闇の中、何も捕えることはできなかった。
「紗智……紗智……」
それでも智子は腕を伸ばし紗智を抱きかかえようとする。とにかくここから逃げ出したかった。少しでも静子に同情した自分が楽観的だった。
このような状況になれば、恐怖が体を支配し逃げ出すことしかできない。
智子は紗智を抱きかかえようとするが、まるで紗智の足から地に根が張ったようになり動かす事が出来ない。
「ダシテダシテダシテ」
「紗智ぃ……ううう」
出して、と懇願しているのは紗智ではないのだろう。静子が紗智に乗り移っているとしか思えない。
紗智を置いて逃げ出すなんて出来るはずがない。どうすれば良いのか分からない。
「ダシテダシテダシテ」
うっすらと暗闇に目が慣れてきた。紗智は相変わらず洗面台の鏡を指さし呻いている。
洗面台の鏡。ここには一体何が……。
洗面台の鏡は観音開きになっている。ドライヤーや歯ブラシ、歯磨き粉などが収納できるようになっている。毎日開けているが、特に変わったものは見られない。
智子は恐怖にかられながらも鏡を見据える。紗智を正気に戻す為には、開けなければならないのだろうか。涙と恐怖でぐちゃぐちゃになった智子の顔が映った。酷い顔だ。智子は腕を伸ばし、鏡を開けようとする。
その時、鏡に映る智子の顔がひどく歪んだ。鼻はひしゃげ、頬骨は陥没し、目は潰されている。顔中から赤黒い血液が流れ出し、人とは思えない顔になっている。
智子の中の何かが壊れた。
伸ばした腕は、力を失いだらりと下ろされた。足腰はがくがくと震え、立っていることができない。智子は力なく尻もちをついた。
「ごっ……! ごめん、なさい! 私、ムリっ! あなたを助けることは、できないっ! ごめんなさい。許して!」
智子は力の限り叫んだ。このどこかに居るのかもしれない静子に向かって。
「……シテ」
今まで虚ろに呟いていた紗智が力なく床に倒れた。
「紗智っ!」
智子は乱れたバスタオルを巻きなおし、紗智を抱え玄関に走り出した。浅い呼吸しかできずに息が苦しくなるが、かまってはいられない。
裸の紗智を抱え、玄関を出た後、里美の家のチャイムを鳴らした。
「お願いっ! 入れてっ!」
迷惑とかそうういった感情は残っていなかった。とにかくあそこではない違う場所へ逃げたかった。
部屋の中から、激しく床を踏み鳴らす音が聞こえたかと思うと、すぐに鍵を外す音が聞こえた。わずかに開いた隙間に指を入れ込み、智子は玄関を開けた。滑り込むようにして里美の家に入った。
驚愕の表情を浮かべる里美に説明する間もなく智子は気を失った。
「里美さん。今まで本当にお世話になりました」
智子が深くお辞儀をする。紗智がそれに習いたどたどしくお辞儀をした。
「うん。なんか大変だったわね。でも部屋が決まってよかった」
「本当に……一月も居候してしまいごめんなさい」
あの後、智子と紗智は警察の護衛の元、救急車で病院に運ばれたらしい。里美にとってみれば強盗に押し入られ、命からがら逃げてきたように見えたからだ。しばらくアパートの周りは騒然としていたものの、強盗ではないことが分かるといつもの静けさを取り戻していった。
外傷はなかったため、翌日には返されてしまったが、智子はあの部屋に帰る気にはならなかった。
智子は半ばパニックになりながら、しばらく里美の部屋に住まわせてくれと懇願した。最初は戸惑っていた里美だったが、智子のあまりの剣幕に了承した。
「あ、ごめんね。変な意味に取らないでね。最初は戸惑ったけど、何だかルームメイトみたいで楽しかったしね」
「うん。私も」
紗智と舞も子供同士、なかなか上手くやっていたようだ。
最初はまた鼻血が出たり、夜中に妙な現象が起こるのではないかと恐れていたが、ぱったりとそういった現象は起こらなかった。
やはりあの部屋に静子はいたのだろう。私は何もできなかった。何か出来なかったのかと考えるが、思い出すだけで体が震え動けなくなってしまう。
「私もね、引っ越そうと思うんだ」
「え?」
「智子さんのあの剣幕見ちゃったら、私もちょっと怖くなってきちゃって……今、他の部屋探してるの」
「そう……」
「これからはお隣さんじゃなくなっちゃうけど、いつでも連絡して。またお茶しましょうね」
「ええ。いろいろありがとう」
引っ越し業者のトラックがアパートの外で待っている。名残惜しいが、そろそろ行かねばならない。小林さんとも別れのあいさつを交わし、紗智と一緒にトラックへと乗り込む。
里美がいなくなれば、二階は誰もいない空間になる。あの部屋にいるのかもしれない静子は、だれかあの部屋に入居するまで一人ぼっちで待ち続けるのだろう。たった一人で。
静子を救うのは智子ではなかった。ただそれだけだった。
雲の切れ間から、光が差し込み街全体を包み込む。
トラックが走り出すと、アパートはどんどん小さくなって行った。
暗闇に潜む 連海里 宙太朗 @taka27fc
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます