第2話 静子

 深い闇の中にいた。どうやら壁に背を預け座り込んでいるようだ。後ろに回されている腕を動かそうとするが、何かで縛られているらしく動かす事が出来ない。硬い縄のようなものが手首に食い込み痛みが走る。

 周りを見渡してみると、うっすらと部屋の輪郭が見えてきた。風呂場のようだ。洗面台の下にある扉の取っ手で、手首を縛られているようだった。

 自分はなぜこんなことになっているのだろう。紗智は? 紗智はどこに?


「助けて!」と声を出そうとしてみるが、なぜか声が出てこない。歯がカチカチと鳴り、体の奥底から恐ろしい程の寒気が襲ってくる。


 強盗だろうか? 夜中、寝ている間に侵入されて縛られてしまったのだろうか。

ふと視線を下に落とすと、花柄のスカートが目に入った。暗くてよくわからないが、上は暗めの地味なトレーナー。いつも智子が寝るときはパジャマのはずだ。それにこんな洋服は持っていない。何が何だかわからない。

 泣いていいのか、叫んでいいのかわからずにいると、隣の部屋から誰かが動き回っているような足音が聞こえてきた。

 紗智のような軽い足音ではない。誰かが隣の部屋にいる。


 紗智は……!


声を出そうとしても、まるで喉に栓をされてしまったかのように、音を発することができない。

 すると、床を踏み鳴らしながら風呂場へと何者かが入ってきた。暗くて顔は良くわからなかったが、体は大きく男のようだった。


「……っ! ……!」


 声にならない叫び声をあげると、男は真っ直ぐにこちらを見据えた。次の瞬間、顔にすさまじい衝撃が走った。

 男は手を痛そうに振っていた。殴られたのだ。

 顔全体が電流を流されたようにしびれている。しびれは次第に顔の中心に集まり、痛みへと変わっていく。暖かい何かが鼻を伝い、口を通り顎から垂れている。

 男は怒りに体を震わせ、何かをわめき散らしている。しかし、男の声はこちらには届いていない。

 男はズボンのポケットから取り出したものを智子の首筋にあてた。冷たい感触が肌を刺激する。小さいがナイフのようだ。男はにやついた表情で、智子の頬にペタペタとあてる。


 怖い。


 男は躊躇いもしないまま、智子の太ももにナイフを突き立てた。焼けた鉄の棒を突き立てられたようだ。体が反射的に跳ねる。それを見た男が大きく口を開け笑った。

 体が尋常じゃないくらいに震える。顔から流れる液体が床を濡らす。既に、血なのか涙なのかわからない。

 男は暴れ回る智子の頭を床に押し付けた。縛られている手足が妙な方向にねじ曲がり、激痛が走る。再び男は智子の首筋にナイフを押し付けた。そのまま力を込め――。




「きゃああぁぁあ!」


 起き上がると自分の部屋だった。まだ夜中のようだ。肩で息をしながら暗闇を見つめていると、次第に頭が働いてきた。

 離婚をし、夫の暴力から逃れたと思っていても、こうして悪夢となり智子を精神的に追い詰める。

 それにしても今日の悪夢は強烈だった。

 いつも見る悪夢は、精々、夫に平手で顔を打たれる程度だった。さすがの夫も刃物を持ち出す事は無かった。

 一つ、大きくため息を漏らした。少しでも温もりを得ようと、隣に寝ている紗智に手を伸ばした。

 しかし、そこにいるはずの紗智に触れることは無かった。


「紗智?」


 照明を点けるが、部屋の中に紗智はいなかった。


 ――トイレだろうか?


 しかし、五歳になっても紗智はまだ一人ではトイレに行けない。暗闇を怖がるので、いつも智子が付き添っている。


「紗智? どこなの」


 トイレを見てみるが、誰もいない。


「紗智!」


 声が震えているのがわかる。こんな夜中にどこかへ行ってしまうのは考えにくいが、妙に心にざわめきを覚える。

 不安に心を押しつぶされそうになりながら、洗面台の扉を開けた。


 そこに紗智はいた。


 暗闇にまみれながらも、紗智はただ立ちつくしている。


「紗智? どうしたのこんな所で……」


 何も反応が無い。洗面台の照明を点けても紗智はなんの反応も示さない。

 紗智は子供らしからぬ無表情で、智子の方を見ずに洗面台の鏡を指し示している。


「出してほしいんだって」


「え?」


「寂しいんだって。暗いんだって。出して欲しいって言ってるよ」


「っ……! 何を言ってるの?」


 紗智は顔だけをこちらに向けた。


「ネェ。オネガイ。ダシテ。オネガイ。ダシテ」


 抑揚のない声で、智子に懇願する。


「さ、紗智っ! 一体どうしたの?」


 娘の明らかに異様な様子に困惑し肩に手をかける。紗智は感情の無い瞳で智子を見据えた。

 突然、紗智の黒目が瞼の裏へと消えた。白目の血管が寄生虫のように蠢いている。


「ネェ。オネガイ。ダシテ。オネガイ。ダシテ」


 紗智の口からはドロドロとした黒い液体が流れ出した。目、鼻からも流れ出たそれは、次第に床を覆い、智子を求めるように、足の指先に絡みついてくる。


「紗智! いやぁっ! 紗智っ!」





「紗智!」


 朝日が差し込み、目覚めたばかりの智子の瞳を刺激している。外からは雀の鳴き声が聞こえ、新聞配達のバイクの音が遠ざかって行った。

 夢うつつなままの頭で、隣を見てみると紗智が可愛らしい寝息を立てていた。智子は紗智の顔を確かめたが、特に血が流れている様子は無かった。


「また……夢……」


 智子は布団に倒れ込んだ。丁度視線が洗面台の扉を捕える。智子の背中に冷たいものが走った。





 太陽が真上よりも少し、東側に傾いている。今日のパートは午前中までだ。紗智のお迎えまでしばらく時間がある。

智子は妙に心に引っかかることがあり、アパートの下の階の小林さんの部屋に訪れていた。

 小林さんとは何度かゴミ出しの際、話したことがある。印象としては話好きなおばちゃんと言った感じだ。七十を超えているらしいが、全くと言っていい程衰えは見られない。

 手土産を持って訪れると、嫌な顔一つせず招き入れてくれた。旦那さんを早くに亡くし、子供もいないため暇を持て余しているそうだ。


 小林さんが里美に話したという、アパートの建設中に起きたバラバラ殺人事件。見つからない頭部。

 その事件を自分の悪夢に結び付けるのは少々無理やりな気がするが、何かが引っ掛かる。このところ不安も多く、些細なことでも気になってしまうのは自分でもばかげていると思う。

 小林さんは智子が持ってきた手土産のショートケーキを皿に載せ持ってきてくれた。紅茶のカップを智子に差し出しと、小林さんはうきうきとした笑顔で対面に座った。


「今日はどうしたんだい? 聞きたいことがあるって」


 妙にうきうきとした表情だ。おしゃべりできることが嬉しいのだろう。智子も心配事を抱えていなければ、おしゃべりに付き合っても良かったが、今はとにかくバラバラ殺人事件の事を聞いておきたい。


「あの……少し気になっていることがありまして。四十年前。このアパートの建設中に起きた殺人事件の事をお聞きしたいのですが」


 紅茶を飲む小林さんの手が止まった。そのまま、静かにカップを下ろした。


「ああ、その事かい? かなり昔の事だけどしっかりと覚えているよ」


 そう言うと、小林さんは古いアルバムを持ってきた。開いて一枚の写真を指し示す。


「ほら、この人。静子さんって言うんだけどね。この人が殺されちゃったのよ」


 写真には四人の男女が映っていた。後ろには基礎と骨組しかできていない建物が映っていた。当時、まだ建設中だったこのアパートだろう。写真の人物は随分と若いが、そのうち一人は小林さんだということが分かった。その隣には、優しそうな男性。この人が若いころに亡くなった小林さんの旦那だろう。静子の隣には、大柄で気難しそうな男性が映っている。

 大柄な男性の顔を見ていると、智子の鼻の辺りがツン、と痛んだ。


 小林さんは、ススと大柄な男性の方に指を滑らせた。


「この男が静子さんを殺したのよ」


「え……」


「当時私たち夫婦は、結婚したばかりでね。新築のこのアパートに住む計画を立てていたの。見学に立ち寄った際に、同じくこのアパートに引っ越してこようとした静子さん達夫婦に出会ったのよ。同じ新婚同士だったものだから、記念で建設中のアパートを背に写真を撮ろうということになってね。その後すぐだったかな? バラバラにされた遺体が建設中のこのアパートに捨てられていたのよ」


 智子の喉に酸っぱいものがこみ上げる。


「こんな幸せそう見えるのに……なんで」


「幸せそうに見える?」


「え?」


「少なくとも私は幸せそうには見えなかったね。写真からは分からないだろうけど、顔には青あざや何かをぶつけた様な跡があったし、腕にもタバコを押し付けられた様なやけどがあったから」


「まさか、夫から暴力を?」


 智子の胸が重苦しくなる。この静子と言う人も夫から暴力を受けていたのだろうか。


「そうだろうねぇ。私も夫も変だとは思ったけど、会ったのはこの一回きりだし、変に人さまの家庭に茶々いれるのもどうかと思ったし……。でもあの時、警察にでも連絡を入れていれば静子さんも殺されなくて済んだかもしれないね」


 小林さんは眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしている。目がしらを揉み一つ大きく息を吐いた。

 再び、智子は写真に映る静子に目を落とした。柔和な笑顔と落ち着いた雰囲気を醸し出した女性だ。じっと静子の表情をみる。

 ――静子が履いているスカート。


 花柄のスカートだった。


 先日、夢を見た際に智子が履いていたスカートは花柄だった。花柄はあまり好みではない為、洋服も含め花柄は持ってはいなかった。偶然だろうか?


「せめて体が全部見つかっていれば、しっかりと供養できたのにねぇ。ひょっとしたら、まだこのアパートのどこかでさまよっているのかもしれないね」

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