暗闇に潜む

連海里 宙太朗

第1話 心に潜む不安

 浅い眠りから目を覚ますと、部屋はまだ暗闇に満ちていた。

 夜中に目が覚めてしまったようだ。何気なく顔を触ると指先にぬるり、と嫌な感触がした。


「やだ……また……?」


 智子は隣に寝ている娘の紗智を起こさないように、静かに布団から出て洗面所の扉を開けた。

 洗面台の鏡に映る智子は、驚いた表情をしながら鼻血を流していた。指で触れてしまった為、口から頬の辺りまで筆でなぞったように血にまみれていた。無意識に口元を舐めてしまい、生臭い匂いと、血液特有の嫌な味が口に広がる。

 智子は顔を洗い、常備してあった清潔なガーゼを鼻に詰めた。


 このところ毎日だ。


 いくつかの病院で精密検査を受けたが、特に異常は見られなかった。医者は「ストレスでしょう」と言い放った。腑には落ちないが、他に体の異常が無いことを考えると、現代の医学と医者の言葉を信じるほかなさそうだ。

 ストレス。確かにそうなのかもしれない。


 離婚しシングルマザーとなってからというもの、胃の痛くなる毎日を送っている。五才になる娘の幼稚園への送り迎え。安い時給で働かされるパート。日々の生活。智子の両親はすでに他界している為、援助も受けることができない。さらには過去の夫との生活を夢で見ることがある。悪夢だ。何度か夜中に飛び起きることがあり、それもストレスに拍車をかけているのかもしれない。

 洗面台に手をかけ、大きくため息をついた。


「ママ。大丈夫?」


 その時、娘の紗智が心配そうな声を出し、智子の顔を見上げていた。

 智子はしゃがんで紗智の頭を優しく撫でた。


「ごめんね。起こしちゃった。ママ大丈夫だからね」


 そう言うと、紗智はすぐに踵を返しリビングへと入っていた。何かをひっくり返すような音が聞こえたかと思うとすぐに戻ってきた。小さな手にはおもちゃの聴診器。

 紗智はしゃがんだままの智子の鼻におもちゃの聴診器をあてる。


「痛いの痛いのとんでけー」


 医者の真似事だろう。


 この時期の子供はいろいろなものを見て学習する。娘の成長を見られるだけでこれ以上の喜びは無いはずだが、様々な不安は拭えない。

 自分がしっかりしなければいけない。智子は紗智を優しく抱きながらそう思った。





 見上げると、暗く厚い雲が空を覆っていた。天気予報では晴れだった為、洗濯物をベランダに干したが、取り込んだほうがいいのかもしれない。どんよりとした空色も相まって気分も落ち込んでくる。

 どうしようかと悩んでいると、リビングの方から紗智の声が聞こえてきた。おもちゃの聴診器を手に持ち、お医者さんごっこをしているようだ。


「今日はどうされましたか? いっぱい血が出ていますね。どれどれ……。痛いの痛いのとんでけー」


 普通一人でごっこ遊びをするときは、ぬいぐるみや人形を相手にするのではないだろうか? 紗智は何もいない空間に話しかけている。しかし、紗智はまるで誰かがそこに存在するかのように、聴診器を空に掲げている。紗智はぬいぐるみや人形を持っていないわけではない。うさぎやくまのぬいぐるみ。可愛らしいブロンドの髪の人形。そういったものはいくつも持っている。少し心配だ。

 些細なことに不安を覚える。これも日頃のストレスのせいだろうか?


 智子はどんよりとした雲を眺め呆けた。


 築四十年ほど経っているアパートの二階から見る町並みは、学生の頃からほとんど変わってはいない。一カ月前に離婚をして十五年ぶりにこの町に戻ってきたが、両親とともに過ごした家はすでに処分していた為、少し寂しい気分になった。それでもこの町に戻ってきたのは、学生時代の友人がいると思ったからだ。しかし、その友人たちも結婚して地元を離れて、連絡が取れなかったりと、見知った顔はどこにもいなかった。


「智子さん。どうしたの? 浮かない顔して」


 と、妙に明るい声が智子の耳に入った。

 隣に住む高橋里美だ。このアパートは一階に三戸。二階に三戸の計六戸の部屋がある。二階には智子と里美。一階には小林さんと言う年配の女性が住んでいる。

 里美はベランダの柵に手をかけ、こちらを覗きこんでいる。

 茶系の明るい髪色に、くりくりとした大きな瞳。智子と同い年ながらやたらと幼く見える。


「ん……そう見える?」


「うん。見えるよ。なんだか疲れている感じ。今日、日曜だからパートお休みでしょ? 紗智ちゃん連れてこっちでお茶でもしない?」


 確かに、このどんよりとした気分で折角の日曜日を台無しにするのはもったいない。おしゃべりでもしていれば少しは気分も晴れるかもしれない。


「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」


 智子は急いでベランダの洗濯物を取り込み、風呂場の物干しざおにかけた。

「紗智。里美さんの家に遊びに行くから、お片づけしなさい」

 居間にいる紗智に声をかけた。紗智は智子の声が聞こえていないかのように、誰もいない空間に話しかけていた。




 雨粒が安アパートの屋根をしきりに叩いている。洗濯物を取り込んでおいて正解だった。

 紗智は同じく五歳になる里美の娘――舞とお人形遊びに興じている。


「やっぱり考え過ぎじゃない? 子供の一人遊びだもの。そういうこともあるわよ」


 里美が仲良く遊ぶ子供たちに視線を向けながら言った。


「私もそう思うけど……」


「小さい頃って空想上の友達っていなかった? ぬいぐるみじゃなくて自分の頭の中だけの存在。私はいたわよ。お金持ちでイケメンの男の子」


 智子は思わず吹き出してしまう。


「まあ、子供は大人には理解できないことをいろいろやるものよ。そんな心配しなくてもいいんじゃない? ……私はそれより智子さんの方が心配なんだけど」


 里美は机に頬杖をつき、智子の顔を覗き込んだ。


「なんかやつれてない? 初めて会った時も相当参ってたみたいだったけど、今はそれ以上よ」


「そ、そう?」


 自分の顔を触ってみるが、いまいちよくわからない。


「まあ、離婚して小さな子供抱えてるわけだから不安になるのも分かるけど……。何かあったら私が相談に乗るから! あ、お金以外の事でね」


 満面の笑みで里美が答える。


 智子は本当に里美と出会えて幸運だと思った。身寄りが誰もいない智子にとって、里美は唯一ともいえる友人だ。もし、里美に出会うことができなかったら、自分は壊れていたかもしれない。


「あーあ。どっかにいい男ころがってないかな。お金持ちのイケメンで絶対に浮気しない男」


 里美もシングルマザーだ。舞がお腹にいる頃に浮気され別れたそうだ。両親とは仲が悪いらしく、離婚後、一人で出産し、舞を育てているのだと言う。いつも明るく頼りになる里美だったが、壮絶な苦労をしてきたのだと思う。

 弱音を吐いてはいられない。

 そんな時、何気なくつけていたテレビから、神妙な面持ちのアナウンサーの声が流れてきた。


「――昨夜未明。○○公園敷地内にて、胴体の一部とみられる遺体が発見されました。損傷が激しく、性別、年齢などは分かっていませんが――」


 その後もアナウンサーは、事件の詳細を視聴者に向けて語っていた。


「いやだ……この近くじゃない」


 アナウンサーによると、まだ犯人は見つかっていないそうだ。また一つ不安の種が出来てしまった。母一人、子一人の今の状況では家にいるのも不安だ。こんな時、頼れる男性がいれば……とは思うが、男と暮らすなど二度とごめんだった。


「そういえば……」


 ふと、思い出したように里美が話し出した。


「下の階の小林さんから聞いたんだけどね。昔、この辺りでもバラバラ殺人があったみたいよ。腕、腰、足……バラバラにされてこの辺り一帯に隠されていたんだって」


「……っ」


 喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。猟奇的な内容に反し、部屋の中は子供たちの楽しそうな声で満ちていた。妙に不釣り合いな雰囲気に不気味さを覚える。


「すぐに犯人は見つかって、切断された体も探したんだけど……頭部だけはどうしても見つからなかったんだって」


「でも、犯人が隠したんじゃ……」


「その犯人も捕まってすぐに死んじゃったらしいわよ。それで、警察もずいぶん捜査したらしいんだけどね……」


「いやだ……」


「まあ、このアパートが建設中の時の話らしいし……。小林さん、人を驚かすのが好きだから、話をでっちあげてるだけかもしれないしね」


 このアパートの建設中の凄惨な事件。四十年ほど前の話だ。そんな事件があったなど知らなかった。

 里美が「しまった」という表情をして智子を見た。血の気が引いている智子を見て察したのだろう。


「ごめん! 智子さん。こんな話するんじゃなかったわ。テレビも消しましょう。もっと楽しい話しましょうよ」


 里美はそそくさと立ち上がり、冷蔵庫からプリンを取り出した。ポットでお湯を沸かし、紅茶も用意している。

 子供たちはプリンとみると、急にそわそわしだし、テーブルの前に集まりだした。

 紅茶のさわやかな香りが不安で凍った心を少しだけ溶かしてくれる。外の雨はいよいよ本降りになりだした。

 この雨が自分の心の不安も洗い流してくれたらいいのに……と思いながら、智子は子供たちの笑顔を眺めていた。

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