第13話 朴念仁ここに極まれり

「さて」

 視界の端で揺れる二本の縄のようなものがなんとも疎ましく、いったい誰がそんな悪戯をしているのだろうと思って睨みつけると、なんということはない、それは自分の尾であった。緊張に耐えきれず、変化が解けていたわけである。ひとを小馬鹿にしたようににょろにょろ動くそれを、今日子は慌てて消した。

 だが無理もなかろう、と誰にともない言い訳を頭の中で組み上げる。この緊張感溢れる状況で完璧な変化をできるとしたら、それは余程の妖力持ちか、さもなければ余程の自己中心的人物だ。

「理由を、聞かせてもらおうか」

 パシ、パシと響く軽い音は、琥珀が右手に握った扇子せんすを左手のひらに打ち付ける音である。言葉の一語一語を浴びせられるたび、まるで辛子でも塗られたように肌がぴりぴり痛みを感じるのは決して錯覚ではない。それほどに、目の前の妖は怒りを隠せずにいるのだ。

 なぜ僕までこんな目に。ため息をつくと同時に緩みそうになった涙腺を何とか留めた。

 ――琥珀の言葉を受け、百花がのんびりと顔を上げる。これだけの緊迫した雰囲気の中だというのに、いつも通りその表情に真剣みは欠片もない。何を言い出すのかと一瞬肝が冷えたが、

「うん。これに関しては、私もすまなかったと思っているよ」

 珍しくも素直に謝罪の念を口にしたのだから、驚いた。「本当にそう思っていると、信じてくれるかどうかはわからないけれど」と付け加えるが、口先だけでも謝るなどというのは、百花にしては稀なことだ。

 明日は槍でも降るかと思わせるような殊勝な様子に、琥珀の方も拍子抜けをしたようだった。腕組みをしたまま、身を少し引く。困惑の色を隠さないままに、一つ頷いた。

「そ、そうか。解っているのなら、構わないのだ」

「うん。……けれどね、珀さんも、良くなかったと思うよ」

「そうだろうか」

 心当たりがないのだろう、首を傾げる。自身の記憶を穿ほじくり返し穿り返し、原因となりそうなことを考えて、「いや、確かに、理由も聞かず説教をしようとしたのは――」しかし百花は言葉を遮り、「そうではないよ」と首を振る。では百花が言う彼の失態とは何だろう。今日子も考えてみるがどうにも思い当たらず――琥珀と今日子の視線を受けながら、彼女が告げる答えとは。

「珀さんも金平糖が食べたかったのなら先に言っておいてくれれば」

「誰がそんな話をしている!」

 座卓が激しい音を立てた。琥珀が両手を叩きつけたのだ。その勢いに今日子は思わず肩を竦めた。が百花の方は、それに驚くどころかきょとんと意外そうな顔をした。

「違うのかい」

「多少は反省しているのかと思えばそもそも話の根本を理解していないのか、お前は! 何の連絡もなく突然晴さんをうちに連れてきた、その理由を聞いているのだろうが!」

「あァ」

 怒鳴りつけられても彼女は全く動じない。どころか耳を掻き、正座を崩しながらほとほと呆れたといった様子で呟いた。

「何だそっちか」

「何ッ――」

 百花の物言いに、琥珀が怒りを超え絶句する。やがて頬が引き攣り目が潤み、唇が震え――やがて琥珀の力の制御が難しくなってきたのか、部屋の障子がカタカタ鳴り始めた。

 これはまずい。今日子は慌てて二人の間に割って入った。

「ぼ、僕らはね、晴さんのおぬのことを聞きたくてやって来たんだ!」

 琥珀の視線が、眼光が、獣のそれに戻っているような気がするのは錯覚か。目を合わせてしまえば何もできなくなってしまうのがわかっていたから、今日子は彼の頭部斜め上辺りを見つめながら、咄嗟に組み上げた言い訳を一息に吐き出した。

「予告もなく来てしまって申し訳なかったと思っているよ、けれどね! 百花が、晴さんの脇に隠がいるというものだからその、心配になってしまって! ……えェと、僕は隠とはよく知らないが、確か、良くないものであるのだろう? 僕等の知っている中で晴さんのことを相談出来る、隠の見られる存在と言ったら琥珀くらいしかいなかったし、確かに先だって連絡をするのが筋であるのは道理であったとは思うけれど、もし手をこまねいていて取り替えしのつかないことになってしまったらと考えたらいてもたってもいられなくて――だから、その、えェと」

「……成る程」

 捲し立てられた今日子の言葉に、琥珀から掛けられたのは、落ち着いた、呆れたような声であった。恐る恐る彼を見る。と、琥珀は俯いて、ゆるゆると首を左右に振った。

「そういうことなら、早く言いなさい」

「それじゃ」

「私も先ほど見たよ。確かに晴さんの脇には隠がいた」

 あっさりと肯定されて、今日子は思わず息を呑んだ。肩に力が入り、自然と表情が強張る。けれど琥珀の方は、それほど緊迫した様子を見せなかった。背筋を伸ばし、扇子を握ったまま腕組みをする琥珀のその様子は、教師のそれによく似ていた。

「しかしだ、隠を飼わぬ人など、殆どいないに等しいのだよ、今日子。どういった人の腹にも、恨みねたみ、そういったものが多少なりと存在する。……あァ、誤解をしてほしくはないのだが、それは決して悪いことではないよ。なぜなら、人というのはそういう存在だからだ。恨みやねたみ――言い換えれば、感情。そういったものを欠片も持たぬ存在など、人とは言えなかろう」

 例えそう在れるとしたら、それは獣か妖だけだと、子供に言い聞かすような口調で語る。――けれど、それに今日子はまた別の疑問を抱いた。

 隠を持たぬ人は人ではないと、彼は言った。だとすれば。今日子は更に質問を重ねようとする。

 しかしそれを遮り彼を呼ぶ声があった。百花だ。

「けれど珀さん」

「うん?」

 琥珀の首が百花を向いた。彼女を映す瞳にも怒りはなく、彼の思考回路は本格的に、説教から対話に移行したらしい。百花もまた、緊張感ある表情で彼に尋ねた。

「あれが、晴さんの生み出したものでないとしたらどうする」

 百花は、他の誰かが晴へ良くないものを差し向けているのではないかと案じているのだ。しかし琥珀は肩を竦めるだけだ。それもまた然したる問題ではない、といったように。

「だとしても、あの程度の大きさではそれほどの悪さをする、出来るようなものではあるまい。いずれにせよ我々は、まだ様子見といったところだ。わざわざ口を挟んで、朔が下手に迷走しても諸々面白くはあるまい」

 それに百花は、ふうむ、と腕を組んで俯いた。その瞳はどこか遠く、そういうときの百花の面持ちは、彼女の親や先代、先々代によく似ている。祓い屋の面持ち。

 祓い屋。――けれど彼女もまた、れっきとした人の血を持つ子である。今日子は恐る恐る、尋ねた。

「琥珀。その隠というものは……百花にも、いるのかい」

 今日子の目には見えぬ、恐ろしいもの。そんなものが、百花の側にもいるのだろうか。

 しかし琥珀は、かぶりを振った。

「わからない」

「えっ?」

「これは祓い屋だ。祓い屋の血を持つ娘だ。いないのか見せないのかは私も知らないが、少なくとも、私には見えない。これの弱みは、私たち妖にはわからない。そういう血をしているのだ」

「そんなこと言っちゃってェ」

 そこに割って入ったのは、百花だった。どういうことかと問い返す間もなく、彼女はうふふ、と笑う。そして続けた言葉は、彼女らしいと言うか、酷く恐いもの知らずの文句であった。

「珀さんって実はたいした力ないんじゃないの?」

「も、百花! なんてことを」

「ていうかさ、実はもともと隠なんて見えていないのを、そうやって誤魔化しているとか。ねェ珀さん、怒らないから言って御覧よ、実際のところはどうなんだい?」

 どれもこれも、仮にも祠付きの妖に言っていい言葉ではない!

 なんとか百花を擁護しなければ、でなければ叱責しなければと思うが、真っ白になった頭の中で正しい言葉は思い浮かばず、ただ彼女の肩を掴んで振ることしかできない。百花の頭ががくがく揺れるがその生意気な笑顔は途切れることはなく。如何したものかと混乱していると、座卓の向かいで抑揚のない声がした。

「そうか、そうか」

 声音に怒りの色はなく、それが逆に怖かった。

 琥珀がゆらり、と立ち上がる。

「こ、琥珀……」

「百花、お前の考えはよくわかった。……以前からお前には一度、私の力を嫌という程見せてやる必要があるのでは、と思っていたのだ」

 これには流石の彼女もすくみ上るか、と思ったがそうではなく。

 どころか百花は目を輝かせて手を打ち合わせると、酷く嬉しそうな声を上げた。

「手合せをしてくれるのかい! やったァ、一度珀さんには本気で稽古をつけてもらいたいと思っていたのだ! ――今日子、私のつるぎを出しておくれ!」

「百花!」

 先ほどからのやる気ない返答と態度はそれが目的だったのだと、今更気づくが時既に遅く。

 制止の方向を変えてみるかと琥珀の方を伺うも、既に怒り心頭の彼は「そうか、ならお前が泣いて許しを請うまで稽古をつけてやろう」などと言い出している始末で。

 琥珀の扇子から、彼の力がほろほろと溢れ零れるのが見て取れる。

「良くないよ、百花も、琥珀も、やめておくれよ」

 縋り、間を取り持とうとするが、勿論のこと二人とも聞こうとはしない。机を挟み、一触即発の睨み合い――

 ――しかしそのとき幸運にも、それを打ち消す声があった。

「ただいまァ」

 ガラガラと響いた玄関の開く音と、どこか間の抜けた帰宅の挨拶。

 廊下を歩く音がして、やがて襖が開く。そこに立っていたのはやはり、先ほど晴を送りに出て行った昼行燈の姿であった。若干湿り気を帯びた肩に右手で触れながら、苦笑を浮かべている。

「いやァ、降られた降られた。暫くは止みそうにないな、晴が向こうに着くころには止んでいればいいのだけれど……うん、どうした、二人とも」

 室内のただならぬ雰囲気を察し、不思議そうに瞬きをする。それに二人は、

「ううん、何でもないよ、朔さん。お帰りなさい」

「たいしたことじゃない」

 片方は笑顔で右手を振り、片方は朔に背を向け腕を組んだ。

 そういえば、晴の隠に関するあれこれを朔に知らせるのは避けたいという思惑だけは、二人とも合致していたのだった。彼が帰ってきてしまえば、それに関する争いを続けることはできない。

 言われた朔はやはり怪訝そうにしていたが、机の上の金平糖の缶を見ると、何を思い出したのか「そうだ」と言った。

「どうかしたのかい」

 今日子が尋ねると、彼はにっこりと笑った。そして、こんなことを答える。

「今度、晴と遊びに出かけることになったんだ」

「へェ」

 二人の争いの脅威が去ったからだろうか、素直に喜び、驚くことができた。

 またその気持ちは百花も同様だったらしい。それを聞いた彼女はぱっと笑顔を浮かべる。胸の前で手を打ち合わせ、

「そうなのかい、朔さん! いやァおめでとう、それで、どこへ?」

「まだ決めていないんだ。晴の試験が終わったら、という約束になっていて。それで、出来れば、女の子が楽しめる場所っていうのを百花と今日子に考えてもらおうかと思ったんだが。おれは女の子どころか、人の娯楽施設にもとんと疎いから、そういうのは良くわからなくて。悪いけれど、頼まれてくれるかい」

「そうかい、そうかい。そういうことなら私たちに任せておくれ。ねェ、今日子?」

「そうだね。僕もあまり人の娯楽には詳しくはないけれど、出来るだけ協力するよ」

 人と妖。決して結ばれぬ仲と言えど、共に生きる時を楽しむ権利はあるはずだ。

 しかし琥珀はどう思っているのだろう――見やると彼は、苦笑いを浮かべていた。仕方のない奴だとでも思っているのかもしれない。琥珀は何かと厳しい性格をしているが、どことなく朔には甘い節がある。人をそれほど良く思ってはいないと言えど、やはり育ての親として、思うところはあるのだろう。すっかり機嫌は直ったようだ。

「朔さんとしては、何か希望はあるかい? 遠くないところがいいとか」

「いいや。二人の行きたいところでいいよ」

「そうかい、わかった。私たちの――」

 ふと。

 今日子はその言葉に違和感を覚えた。

 何故だろうと思ったが、少し考えれば違和感の根源はすぐに知れた。百花も同じように思ったようで、言葉を切る。琥珀もまた嫌な予感を覚えたようで、眉間に皺を寄せていた。

 朔を覗く三人が、顔を見合わせる。やがて代表して訪ねたのは、琥珀だった。

「朔。どのような物事も、認識の違いがあるというのは良くない」

「うん、まァ、そうだな」

「だからこそ、一応、確認の意を込めて聞いておくが。……その『遊びに出かける』というのは、お前とこの二人と晴さんの四人で、ということか」

「あァ、すまない。良かったら琥珀もどうだ」

「そうではない」

「そこでなくてね」

「そこじゃないよ朔さん」

 思いがけず、三者の指摘が重なった。

 フゥ――と長く細く、息を吐く音。琥珀が深くため息をついていた。

「朔。どういう流れでそういう話になったのか、聞いてもいいだろうか」

「流れ? そうだなァ……今度、晴の受けている補修の試験があるそうなのだ。で、その試験で良い成績を修められたら、褒美にどこか遊びに連れて行ってはくれないかと頼まれて。ただおれは人の娯楽に疎いから、女の子が好きそうな場所を二人に考えてほしい、と、思ったのだが……どうかしたのか、三人とも」

 絶句する相手方を流石の朔も不思議に思ったのだろう。首を傾げ尋ねてくるが、この男はどうしてこうも。

 百花と琥珀を伺うと、二人とも、言いたいことは多々あるが上手いこと纏まらないようで、非常に曖昧な表情をしていた。だからまずは代表して、今日子が尋ねる。

「朔。その流れで、何で僕と百花が一緒に行くことになるんだい?」

「何でって……」

 まず以てその質問の意味が解らないらしく、彼はいたく怪訝そうに眉を寄せた。流石というべきかこの朴念仁は、面白いほど何も気づいていない。

 言葉を失った今日子の代わりに、次は百花が尋ねた。

「朔さん。私と今日子が一緒だと聞いて、晴さんはなんて言っていた?」

「うん? 特には。楽しみだと言ってにこにこ笑っていたよ」

 喜んでいたようでおれも嬉しかった、と笑う。対照的に、百花の眉根に刻まれた皺が深くなった。

「朔。お前はそれでいいのか」

「うん? まァ、悪くはないのでないかな」

 最後の琥珀の問いかけにも、どこに不都合があるのかわからない、といった様子。

「そうか。それならその、いいんだ」

「珀さん。常々思っていたけれどね、珀さんは朔さんを甘やかし過ぎだ」

 純粋に笑う朔の様子にそれ以上追及できず矛を収めた琥珀を、横目で見て、百花が言う。と琥珀は酷く困った様子で「仕方なかろう」と呟いた。

「こいつはそういう方面に於いては昔からことごとくばかなのだ。諦めるしかなかろう」

「……ともかく良かったね、朔。晴さんが楽しめるよう、僕らも頑張って行き先を考えるから、その日を存分に楽しみにしておいで」

 今日子は何とか呆れを隠し、言われ放題の朔に笑いかける。

 隠など見えぬ、何も知らぬ狐は、まるで子供のように無邪気な表情で「ありがとう」と言った。

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あやかしと、雨に 七十三 @nar_nar_nar

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