【番外編】モテる男の想い人

 私、美藤みふじ涼香すずかはこの度、普通科から特別化学科へ編入することになった。


 薬品化学の教授をしている母はまだしも、その仕事をあまりよく思っていないサラリーマンの父は反対すると思っていた。ところが逆、反対したのは母で、賛成したのは父だった。母曰く、「こういうのはモテないからやめなさい!」とのこと。でも別にモテたくて専攻するわけじゃない。父曰く、「やりたいことを我慢するのは犯罪の次に悪いことだ。」とのこと。その意見はちょっと突飛だと思う。



 *



「なんで美藤みふじは化学専攻なの?」

 七光ななひかりは母がまだシングルマザーだった頃、クラスに転校してきた男の子だった。整った顔立ちのくせに大人しく、時々苦しそうな顔をするのが印象的だった。その後、彼は何度目かの転校をし、私も母の再婚で転校し姓が変わった。

「なんでって、興味があることをしちゃだめなの?」

 コアラのマーチを食べながら単語帳をめくった。単語帳は英単語ではなく、化学単語だ。

 だらだらと日誌を書く七光ななひかりのペンケースの脇にはコーラがあった。水を滴らせながら陽光を反射している。

「明日から夏休みかー、実感わかない。」

 言葉に出したことと同じことを、日誌の最後に走り書いた。「おわったー!」と伸びをしたけれど、それは時間かけすぎなだけだと思う。


「まだ終わらないの?」

「全然。」

 一緒に帰ろうと誘ってきた彼に対し、勉強にがあるからと一蹴したが、日誌書くからと待っているのだ。

 本当はずっと前に終わってる。本当は私の方が待ってる。

 あと3枚で単語帳が終わる。ちょうど2周目が終わる。


 そんなこと、言えるわけないけど。


 好きなのかどうかと聞かれると、正直わからない。それさえもうまく伝えられずにいると、七光ななひかりは返事を聞かなくなった。それは安心と同時に不安も生んだ。


 私はどちらかというと美人な方だが、如何せん表情が乏しい。おまけにちょっとだけ口が悪い。そのため恋なんて甘酸っぱいものはどこか遠いもので、経験はゼロに等しい。


 初めは久しぶりに整った顔を見たくらいにしか思ってなかったのに。

 ヘタレで根性なしで私にいじられてばっかりだったのに。


 いつの間に、この男はこんなに挑戦的な視線を送ってくるようになったのだろう?

 今ならきっと女の子なんて選びたい放題だ。なにもこんな愛想もへったくれも無いようなのを好きになる必要なんてないのに。


美藤みふじー、まだー?」

「も、もうすこし」

 化学とはかけ離れた考えからふと現実に引き戻されて慌てて返答する。

「……ていうか、“美藤みふじ”って呼び捨てにしないで」

 真顔で彼をじと目で見ると、彼はばつの悪そうな顔をしたあと、思い立ったように笑顔になった。

「じゃぁ、“涼香すずか”って呼ぶことにする!」

「はあ!?」

 冗談じゃない、男子に名前で呼ばれるなんて、恋愛経験のない私からしたら大事件だ。

「真っ赤じゃん」

 お前のせいだよ!

 いつの間にか七光ななひかりのほうが赤い顔になっている。いや、お前が照れんなよ。

「…もう、帰ろ!」

 単語帳を鞄に入れて立ち上がる。

「え、帰る?待って、コーラ」

 いそいそと片付けをする彼を余所に教室を出る。もう校内には誰もいないんじゃないかってくらい静かだ。グラウンドから運動部の掛け声が重なってこだまする。きれいな夏空の下、対称的にあの夜のことを思い出す。



美藤みふじのことが好きだ”



「……ばか。」

 響きやすい廊下でさえも拾えないくらいの声量で囁き、表情が和らぐことを自ら感じていた。

美藤みふじ~!待ってくれよ少しくらい!」

 遠くからバタバタと走ってくるのは、いつか私を落としてくれる恋人候補。でも簡単に好きだなんて言ってあげない。

 きっと鞄のなかでばちゃばちゃと揺れ、膨張しているであろう二酸化炭素の蓋を開けてやらんばかりに私は口角をあげた。


「ばーか!」


 今年の夏は3センチくらいのヒールのサンダルを履こう。




「……そういう顔はずるいと思うよ。」


 結局きみは、ずるい人、素敵な人、モテる人。もうわかってる、想い人。

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モテる男の心得50 わたなべひとひら @eigou

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