「ありふれた風景」を更新するジュブナイル・ファンタジー

国道沿い。チェーン店舗の順列・組み合わせが微妙に違うだけの、いつかどこかでも見たような均質化した街並み・・・。2018年映画化された山内マリコの小説が「ここは退屈」とバッサリ切り捨てた没個性的な郊外の風景は、しかし本当にそれだけのものだろうか? そんな固定観念を、『ロードサイド・ウォリアーと土曜の夜の獣たち』は二つの手段で覆そうとしている。

一つ目に、ファンタジーを物語ることによって。「王さま」と呼ばれる異能を持った登場人物たちは、あらゆる時空間上の屋上や国道、チェーン店を自由に移動することができる。そうして現実から解き放たれた都市空間は機能を大きく変え、「王さま」たちに特別な試練を与える。読み手にとって見飽きるほど馴染み深い生活圏の風景からダイナミックに逸脱してゆく超展開が痛快だ。

二つ目に、相反するようだが、ありのままの郊外で営まれる日常を、丁寧な筆致で描くことによって。もはや偏愛的と言っていい位、『ロードサイド・ウォリアー』には日常目にする大量の固有名詞と、それらを消費する登場人物の描写が溢れている。ヴィレヴァンで売っているような極彩色の昆虫グミやら電子タバコに淫する優等生、TACO BELLのハードシェルタコスを一口も零さず平らげて得意気なギャル、無印良品のビーズソファに埋もれてはしゃぐ少年少女・・・。あたかも「退屈」という刷毛の一振りで後塗りされ、忘却されてしまうことから逃れるように、ありふれた日常風景を事細かく記述する姿勢はまるで祈りのようである。何のための祈り? 

キルシもヱイラもトォタリも、狂騒的なファンタジーの世界と恒常的な現実を行き来する中で、彼/彼女らは皆結局「いま・ここ」に躍動する自身の生を刻み付けたいと祈っているのではないだろうか。そうそれはきっと、自分も退屈な風景の一部だと思っている読み手の祈りと重なり合う。突破口のヒントはこの小説の中にあるかもしれない。