ロードサイド・ウォリアーと土曜の夜の獣たち
都市と自意識
第0話 フヒトベ・イロハは継承させる
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〈屋上理髪師〉に関するうわさを最初に耳にしたのは、確かフヒトベ先輩からだった。
「知ってる?」
と彼女は僕に尋ねたけれど、僕は当時知らなかったので「え、はあ……いえ」と答えるほかなかった。
「屋上……にいるんですか」
「そうだよ」と彼女は眼鏡の奥の瞳を輝かせる。「屋上で髪を切るの」
「それは、つまり……え? なんですか?」
「屋上で髪を切るんだよ」
「屋上で?」
「そう」
「髪が風で飛びそうっすね……。髪、切ったやつが。そこいらに」
「〈屋上理髪師〉はふしぎな力を持っていて、周囲に風が吹かないんだって」
「それどこ情報すか」
「わたし」
「は?」
「わたし」
そういうと先輩は若干眉をひそめてすこし不機嫌そうな表情になり、「ん」と喉の奥を鳴らして前髪を指差した。そういえばたしかに、先週会ったときより前髪が切り揃えられている。
僕とフヒトベ先輩は同じ図書委員会に所属している。僕と先輩の当番が被るのは、週に一回だけだ。
ふしぎなことに、先輩と一緒になったときは、ただでさえ少ない図書室利用者がいつもより格段に減る。ときには僕ら二人以外だれもいないことも。
なので、そういったときはこうして他愛のない会話をしていた。
「えっと、髪、切られました……か?」
「切ったね」
「似合ってますよ」
「ま、週一だし気づかないか」
「すみません」
「ありがと」
「……で、その屋上なんとかっていうのは、うちの生徒なんですか?」
そう訊くと、先輩は困ったような顔をする。
「それがね、どうにもウチらんとこの子じゃあないんだよなあ」
「え、不法侵入インシデントすか」
「着てる制服も違うし、そうなるね」
「近隣の……」
「いや、全然違う。全然知らないところのだ。まあ、調べりゃ引っかかると思うけどさ」
先輩がスマホを取り出して適当にググりはじめた。
そこで僕は、あることに気がついた。
「先輩」
「なあに」
「屋上って、一般生徒、立入禁止ですよね」
「……」
「どうやって先輩は入ったんですか?」
先輩はゆっくりとスマートフォンから視線を上げる。眼鏡のレンズに、液晶画面から発せられる光が映り込む。
「まあ、卒業も近いし、秘密を教えてあげよう」
先輩はやたら静かな口調で思わせぶりに言うと、突然、柏手を打った。ぱんという乾いた音が、静かな図書室に反響する。
彼女は手のひらを差し出す。そこには何もない。僕のものより小さな、女の子の手があるだけだ。細い指があるだけだ。
「お手」と先輩は唐突に発した。
僕はよくわからないまま先輩の手のひらに自分の手のひらを被せようとする――が、さっきまで返却本等の整理をしていたことを思い出し、あといくら親しいといっても男子から触れられるのは気持ち悪いだろうから、スラックスの側面で手のひらを一旦ふいてから、お手をした。
「……」
「……」
先輩のすべすべとした肌の感触が指全体に広がるだけで、なにかが起きた様子はない。
「あの、先輩――」
「指の感覚に集中してみて」
僕の言葉を遮り、先輩は言う。言葉どおり指に感覚を集中させると、違和感があった。
なにか、ひんやりとしていて、硬く冷たい感覚。明らかに、さっきまでの人肌のそれじゃあない。
僕はこわごわと指を曲げていき、それをつまみ上げた。
「――ん?」
それは鍵だった。銀色の、どこにでも使われていそうな、ありふれたつくりの鍵。
僕はまじまじとその鍵を眺めたり触ってみたりする。そしてそのあと、まだ差し出されたままの、彼女の手のひらに視線を落とした。
僕がお手をするまえも、したあとも、ずっと僕の視線は手のひらに注がれていたし、先輩が隙を見て鍵を間に挟む余地もなかったはずだ。
「先輩って凄い特技あったんすね」などと言おうと思ったが、手品の類ってこんな魔法みたいなもんなんだろうかと疑問に思って口をつぐんだ。
僕が静かに混乱していると、先輩は手をくるりとまわして今度は手の甲を見せる。そしてまた手のひらを見せると、そこにはまた鍵があった。袖に仕込んでいたものを出しているわけでもなさそうだ。
「ええ~……」僕はあまりにも間抜けな声を出していた。「ええ~、先輩、ええ~……」
「ま、これは単なる演出だから、あまり気にしないで」
「気にしますよ。めちゃくちゃ気になりますよ」
「気にするべきは――それでしょ」
――と、先輩は僕が指先で挟んだ鍵を指差す。
「いつの代の誰がつくったのかはわからないけど、それは屋上の鍵のスペア。全校生徒のなかで、誰かひとりが持つことを許されている」
誰かひとりって。
「まあ、そういうごっこ遊びみたいなものだよ」
「というと、先輩は〈継承者〉なんですか」
「まあね」
「……で、これで屋上に入れるんですね」
鍵をまじまじと見る。普段は職員室にでも置いてあるであろう鍵(のスペア)が、なぜかここにある。そのことに僕は、ちょっとした優越感と背徳感をおぼえていた。
「それで、屋上で会ったと」
「そう。わたしも他の子から聞いたんだよ。うわさを。で、それで確かめに行ったってわけ」
「他の子って? その他の子っていうのはどうやって屋上に入ったんですか?」
「他の子っていうのは……まあ、女子だよ。何人かのね。鍵は開いてたって。なにせ、相手は部外者なのにいきなり床屋にありそうな立派な椅子をさ――リクライニングとかできるでかいやつだよ? アレを屋上に持ち込んでいるやつだし、造作もないでしょう」
「ふうん……先輩は一回で会えたんですか?」
「え、そうだけど……なんで?」
「だって、いくら誰かが訪ねにいったとしても、その理髪師が鍵を開けてなかったら、会えないわけでしょう? 先輩が無理に鍵を開けてもいるともかぎらないじゃないですか」
そう僕が尋ねると、先輩はなるほどとすこし考えこみ、たしかにそれもそうだなと呟いた。
「ちょうど髪を切りたかったところ……だったからかな。まあ、会えたよ。一回で」
「そういうもんなんですか」
「そういうもんなんでしょう。いいんだよ、細かいことは気にしないで」
そういうと、フヒトベ先輩は「ん」と喉を鳴らしてまた手を差し出した。どうやら鍵を返せという意味らしい。僕は彼女の右手に鍵を置く。先輩はさっきやったみたいに手のひらをくるりと回転させたかと思うと、つぎは左の手から鍵を出し、また右の握りこぶしから出したり、まあとにかく手品師のようにやたら素早く手と手のあいだで鍵を行き来させてから、どこかにやってしまった。
「ま、そういうふしぎな存在がいるんだ。なかなか気さくで、かわいげがあって、かっこいいやつだったよ」
「そんでもって髪も切ってくれる、と」
「そう。ところで、人はなんで髪を切りたいと思う?」
「なんでって……ただ単に伸びて鬱陶しいとか、気分を変えたいとか?」
「ん。髪を切るってことは、ある種、精神的な――心のリフレッシュにも通じるものがある。きれいに切ってもらえるとまるで生まれ変わったかのように感じるし、逆にすこしでも失敗したら妙に落ち込んでしまう」
確かに僕も、妙に刈り上げられてなんだか納得できない、嫌な気持ちで店をあとにしたことがある。
「だからまあ、なんていうのかな、人がなにか違うものになりたいと願う限り、たぶんあの理髪師はだれのまえにも現れるだろうし、きっと――キルシくん、きみのまえにも現れるはずだ。その出会いが偶然なのか、それともさっきの〈鍵〉が導くものなのかはわからないけれど、そのときは……彼女をよろしく頼むよ」
□ □ □
「いままでありがとうね、キルシくん。……まあ、もうすこし、喋りたかったかな」
そう言って、先輩――フヒトベ・イロハ先輩は、先代から継承された〈鍵〉を僕に渡し、卒業していった。
僕としては、週一とはいえ先輩といろんな話ができて楽しかったけれど、確かに僕も彼女と同じ気持ちだった。
僕は高校一年生だったし、彼女は高校三年生だった。
図書委員の当番以外に校内で会う機会なんていくらでもあるけれど、廊下ですれ違った際に話すことなんてなかったし、一年生である僕が先輩のいる三年生の教室にわざわざ行って昼食に誘うこともなければ、そもそもそんな度胸もなかった。そして、当たり前といえばそうなんだけれど、フヒトベ先輩もフヒトベ先輩でわざわざ僕のいる教室に来るようなこともなかった。
僕たちは、それなりに気の合う先輩後輩という関係でしかなかった。もちろん、先輩のことが恋愛的な意味で気にならなかったわけじゃない。だけれども、僕たちは互いの連絡先を知りながら特に連絡をすることもなかった。なにか、委員会仕事に関する事務的な連絡をしたぐらいだ。
そういう距離感だった。
あくまでも、そんな関係。
内心、先輩ともっと積極的に話していればと思っていた。そして、そう思っていた矢先にさっきの言葉をいわれた。先輩も僕と同じ気持ちだったのだろうか。そうだったら嬉しいけれど、もう、そんなこと確認のしようがないし、確認してどうなるっていうんだろう。
こういったことを考えても仕方がないとは思いつつも、ぼくはたびたびあの言葉を思い出してしまう。バツが悪そうに、照れくさそうにすこし視線をそらした先輩の、綺麗なまつげのことを思い出してしまう。
僕はいま高校二年生で、彼女はいま大学一年生だ。
僕たちはやがて、かつて先輩と後輩だった他人同士になっていくんだと思う。
「ま、二年生になったら屋上に行きなさい。きっと、会えると思うよ」
そして、僕は出会う。フヒトベ先輩のいったとおり、彼女と。
〈屋上理髪師〉にして、全時空の屋上を守り、全時空の屋上を支配しようとする飢餓状態の〈王さま〉――
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