第1話 屋上の姫は〈星のカーテン〉を欲する
1-1
先輩――
いまは梅雨が明けたころで、もうすこしで夏休みがはじまろうとしていた。
炊井戸先輩が本来通っている高校でも夏服切り替えの時期だというのに、彼女は未だに長袖の黒いセーラー服を着ていて、更に黒いストッキングに黒いハイネックの長袖インナーを着用していた。
やたら暑そうな恰好をしている彼女だが、いま僕たちがいる屋上はそれほど気温の高い場所じゃない。むしろ、半袖のワイシャツを着た僕のほうがやや肌寒く感じるくらいだ。
こうやって、暑い季節のときは時空線を自由に行き来して涼しい場所に行けるのも、僕たち〈王さま〉の特権だ。
僕は〈国道の王さま〉だけれど、炊井戸ヱイラという少女――と形容するにはやたら大人びている――は〈屋上の王さま〉だった。彼女は全時空の屋上を行き来し、気まぐれに支配し、また、そんな屋上を付け狙う外敵から守っていた。
そんな王さまである彼女はいま、〈星のカーテン〉を所望していた。
殺風景な屋上に彩りを与えてやりたい。きみもそう思うだろう。
――と彼女に同意を求められたが、この屋上は既に彼女の管理下にある。テントが置かれ、天体望遠鏡が置かれ、小さいカセットコンロ、小さいブラウン管テレビも置いてある。一般的な学校の屋上からは、既にかけ離れているし、彩りがあるように思えた。
僕が「はあ」と生返事をすると、先輩は耳かきを操る指先に力を込めた。耳かきの匙が耳穴内をかたくこすり、腰から背筋にかけて甘い痺れが走る。「いぎっ」と僕は小さく呻いた。
先輩が姿勢をなおすためか、お尻を軽く浮かし足を動かす。プリーツスカート越しではあるけれど、右頬に感じる柔らかな太もものことを意識せざるを得ない。
週に一度、僕はこうして先輩に耳かきをされている。言い出したのは先輩のほう。それをふたつ返事で快諾したのが僕のほう。修行と
「星……柄? のカーテンですか。いいんじゃないでしょうか」
適当に話を合わせると、先輩は耳かきを持っていない方の手でぼくの耳介をそっと触り、ふにふにと軽く揉みはじめた。
「〈星のカーテン〉さ。〈星のカーテン〉だよ、きみ」楽しそうに先輩はつづける。
「……はあ」と僕は再び適当な返事をする。
「素敵なものだそうだ」
「素敵なもの、ですか」
「曖昧な返事だね」
「そりゃ、いきなりですから」
細い指先が、耳介の溝をつつつ――と焦らすように這う。
先輩はこうやって唐突に話を振ってくることがある。自分が理解できて咀嚼しきれているものを、他人も理解しているものだと思っているフシが、たまにある。
経験上わかりきっていたことだが、試しに訊いてみる。
「そのカーテンを獲ってこいってことですか?」
「もっちろん」
落ち着いた彼女の声色が少し弾む。先輩は一見クールというか理知的というか不良っぽいというか、そんな感じで近寄りづらい雰囲気だけれど、話してみると案外気さくだし、感情は素直に表現するほうだった。
「はあ……まあ、断っても無駄なんでしょうけれど……」
「わかってきたじゃあないか。それにやぶさかでもないんだろう」
「先輩が頼むってことは、たぶん僕にしか行けないってことですから。行ける
それに、先輩からの好感も得られるし。
「そ。きみは更に〈果て〉へと近づく。そしてぼくからの好感も得られる。良いことづくめじゃあないか」
「……先輩、自分からそういうこと言うのやめたほうがいいですよ」
「やめないね。ぼくはぼくのことを好いてくれる人が好きだ」
僕の不満気な声に先輩は「ひひひ」と気持ち悪い笑い声で応答し、耳かきをひねったりして、いろいろなことをはぐらかした。
陽が傾きかけていた。うろこ雲が橙色に照らされ、陰影がくっきりと現れている。オレンジ、青、白、黒。横からみるとまるで巨大な織物のようで、僕はそこに飛び込んでみたいとさえ思った。だが、いまは先輩の膝枕が心地よい。
「さ、左耳は終わりだ」耳かきを引き抜くと、先輩が太ももをもぞりと動かす。「まあ、週一だからこんなもんか。見てみるかい?」
先輩はウェットティッシュで耳かきの匙を拭きつつ、僕に尋ねる。僕は今更ながら恥ずかしくなって「別にいいです」と答えた。
「きみの左耳の耳垢はほどよく湿っていて実にとりがいがある――いや、この場合かきがいかな? まあ、右耳のほうはかなり乾燥していてちょっと厄介だが」
それもそれで、かきがいがある。ふふんと笑うと、先輩は唇を耳もとに近づけ、ふうっと息を吹きかけてきた。
僕は全身にはしる快感をなんとか我慢しつつ「まっ、まじかんべんしてください」と抗議の声をあげるのがやっとだった。もちろん、本当はやめてほしいなんてこれっぽっちも思ってはいない。
「ひひひ」と先輩はまた笑い、なにかを思いついたのかぽんと手のひらを打ち合わせ「そうだ。右耳はきみが〈星のカーテン〉を無事獲ってきたらにしよう」と言いだした。
「またそういうのですか」
「いいんだよ、いやなら自分で耳かきしたって」
「別にそういうわけでは……」
僕はもごもご言いつつ、からだを起こした。屋上に敷いているレジャーシートの安っぽいビニールの質感が、手のひらに広がる。
先輩は、耳かきのときに邪魔になるからとそこらへんに放っておいた学帽をかぶる。彼女の通う高校指定の学帽だ。本来は男子のみが着用するもので、その男子すら最近は「とてもダサい」とか「暑い」「蒸れる」「蒸れるからハゲる」とかいってかぶりたがらないとのことだけど、先輩は日常的にかぶっている。女子なのに。
男子がかぶらないことも、女子がかぶることも、別に校則違反なんかじゃないらしい。学生手帳にそんなことは書いていないそうだ。でも炊井戸先輩のことだから、校則違反であってもきっとかぶっただろう。ちなみに彼女の学校では衣替え移行期間が終わったあとに夏服を着ないで冬服を着つづけることは、立派な校則違反らしい。
黒いセーラー服と学帽という単純な組み合わせは、予想以上にかっこいいものだった。僕が学ランと組み合わせてもイモっぽくなるだけなのに(そもそも僕の学校はブレザーなんだけど)。先輩自身が中性的で容姿端麗なのがそもそもの大きな要因だとは思う。
学帽のつぎに、さまざまな種類のハサミが収められたホルスターを腰に巻く。(自称)理髪師である彼女の仕事道具だ。
先輩は立ち上がり、うろうろと歩きはじめた。腰から下げたホルスターが、ぶらりぶらりと揺れている。この屋上にはフェンスや手すりといったものがない。腰掛けるのにちょうど良さそうな、適度な段差があるだけだ。その段差だけが、屋上と外側に広がる世界をささやかに隔てている。
この校舎自体はコの字型になっている。僕たちのいる部分は、コでいうと一画目の部分――細長い区画だ。二画目の部分には時計塔がある。でもその時計塔は朽ち果て、大時計はいつごろからなのか、時を刻むのをやめていた。三角目の部分は崩落し、教室の内部を無残にもさらけ出している。乱雑に転がり、みだれ、ぐちゃぐちゃになった机や椅子は内臓のようだった。
この
そしてこの
その腐敗をとめにきたのが、先輩だった。
もしくはだらだらとした延命を終わらせにきたのかもしれない。
「先輩」屋上の縁にある段差のうえを適当に歩いて、あたりを見まわしている彼女に声をかけた。「この世界はもうすぐで攻略できるんですよね」
屋上を守るといっても、先輩に熱い正義感や強い義務感があるかどうかは怪しい。屋上に対する独占欲と、そしてなにより――これがゲームだから、彼女はそうしている。やりたいからやっている。獲りたいから獲っている。
「そうだよ」
「じゃあ、この世界が滅びかけてる理由とかも知ってるんですか」
そして、それぞれのゲームにはそれぞれのゲームにあった物語がある。彼女はその物語での己の役割を全うしようとしているに過ぎない。
「まあ、ね。でも、いつもみたいな話だよ。侵略者との戦争。設定や世界観こそ違えども、根本的なものごとはあまり変わらない」
ま、楽しいから別にいいんだけどね――と微笑みながらつけくわえる彼女は、ちょっとだけ疲れているようにも見えた。
先輩はすこし休んだほうがいいだろう。義務感でやるゲームほど、面白くないものはない。それに、これはいつでも中断できるし、いつでもやめることができるんだから。
「きみがなにをいおうとしているかはわかるよ」先輩の輪郭を、夕陽の輝きが包む。
「ま、あとちょっとでここは終わる。そうしたら、気休めにほかの屋上でも獲りに行くさ」
□ □ □
僕たちはゲームをしている。全時空規模の“場所”をめぐるゲームを。
このゲームをつくったのがだれなのか、仕組んだのがだれなのかは、わからない。
わかっているのは、僕たちが生きているこの世界や宇宙が、ふんわりとしたシステムやルールのうえで成立しているということ。
そのシステムやルールの上に僕らの世界があり、更にその上にシステムで駆動するゲームが存在しているということ。
そして、僕らの住む宇宙のほかにも、似たような世界が無数にあるということ。
人びとは現実を見ろとたまに言う。
僕は思う。こんなに無数の世界があるのに、現実なんて言葉、今更意味なんてないんじゃないか――って。
すべては現実だし、すべてのセカイは開かれている。
すべての〈王さま〉には、すべてを支配する権利が与えられている。
ぼくたちは好きな現実を、
好きな道を、
好きな屋上を、
好きな放課後を、
好きなファミレスを、
好きなゲームセンターを、
好きなファストフード店を、
好きなショッピングモールを、
そして――好きな土曜の夜を、自由に選びとることができた。
でも僕は――僕や先輩たちは、どうしたらいいのかわからない。
僕たちはどこにでも行けて、だからこそ、どこにでも行けないでいた。
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