仁義なきロシア革命

edo

第1話 レーニンの帰還

1917年4月16日

 ペトログラードのフィンランド駅に、ひとりの極道が降り立った。祖国ロシアの地は10年ぶりだった。名前はウラジーミル・レーニン。ロシア共産主義ヤクザの武闘派組織ボルシェヴィキ組の組長だった。

「どうもどうもレーニンの親分さん」

出迎えたのは、メンシェヴィキ組の幹部チヘイゼであった。

「レーニンの親分さん、ようきてくれたのう。なんといっても革命が起きたんじゃ。これからは昔のことは水に流してのう、マルクスの大親分の教えを守り、新しいロシアをつくっていこうじゃない? のう?」

 チヘイゼはニコニコと愛想よく挨拶をした。チヘイゼは共産主義ヤクザの連合組織であるソヴィエト連合会会長におさまっていた。

 皇帝ニコライ二世の退位後、ロシアにはふたつの勢力があった。ざっくりいうと、金持ちのグループと貧乏人のグループである。現職の国会議員を中心に立ち上げられた臨時政府には、金持ちがバックについていた。共産主義やくざはそれに対抗し、農民、労働者、兵士たちの貧乏人たちとソヴィエト連合会を設立していた。

 ふたつのグループは協力して、新しいロシアをつくろうとしていた。どちらも他方を圧倒するほどの力を持つことができなかったからである。レーニンの配下にあるボルシェヴィキ組もソヴィエト連合会に属し、臨時政府に協力しようとしていた。

 しかし、チヘイゼがニコニコと話している時、レーニンは相槌さえ打たなかった。チヘイゼの挨拶が終わると、レーニンは、聴衆に向かって言った。

「おどれら、ご苦労さんじゃったのう。じゃが、なに臨時政府にケツをかかれとんの? はよ、あいつらのタマをとったらんかい! ロシアの喧嘩はとるか、とられるか、ふたつの道しかあらせんので」

と叫んだ。熱狂するボルシェビキ組組員に囲まれ、車に乗り込むレーニンをチヘイゼは呆然と見送った。チヘイゼはかつてのボルシェヴィキ組とメンシェヴィキ組の抗争のことを思い出していた。ボルシェヴィキ組とメンシェヴィキ組。ロシア共産主義ヤクザは二つのグループに分裂し、抗争を繰り広げてきた。革命になれば、過去の分裂も水に流してくれるだろう。チヘイゼはそう考えていた。しかし、その考えが甘かったことを思い知らされたのだった。


 さかのぼること十数年前、1903年の出来事である。

「わしらもよう、いつまでもバラバラにやっておらんと、一個組をつくってひとつにまとまったらどうかと思うんじゃが、どうない?」

長老プレハーノフ、女傑ザスリーチ、アクセリロード、レーニンの兄弟分マルトフなどロシア共産主義ヤクザたちのまえでレーニンは言った。

「おう、そうじゃ。いまあ、農民にシマをもっとるエスエル組が学生にも手を伸ばしてるけえ。はやいところ組作らんと、ロシアにわしらの居場所はのうなるわい」と長老プレハーノフが言った。

 当時、農民の支持を集めていたエスエル組が、閣僚を暗殺するなど過激なテロ活動をおこない、学生たちのあいだで人気となっていた。労働者を基盤とするロシア共産主義ヤクザは、一致団結した党をつくりあげる必要があったのである。

「しかしよう、レーニンの兄貴、組をつくるいうても、まずなにをしたらええんじゃのう」とマルコフが聞いた。

「そうじゃのう。まずは組の綱領が必要じゃ」

「そんなら、ここは長老であるプレハーノフの親分さんにお任せしようじゃないか」

「そうじゃ、そうじゃそれがええ」

一同が賛成し、綱領はプレハーノフが書くことになった。プレハーノフはロシアにマルクス主義を紹介した第一人者であった。

 党の綱領の執筆にプレハーノフは一年を費やした。その綱領の発表会の席上、レーニンはあろうことかその草稿をビリビリに引き裂いてしまったのである。

「なんじゃ、この腑抜けたチンポみたいな綱領は? わしがいうとったプロレタリアート独裁が入ってへんやんけ」

プレハーノフの案は、ブルジョワジーや小金持ちと良好な関係を築こうというもので、武闘派だったレーニンにとって、我慢ならないものだったのである。

「なにをしようんなら、レーニン!」

「あんた、ブルジョワジーと一緒に皇帝を倒す倒すと書いているけど、わしらブルジョワジーと話をつけようとした瞬間、すぐに寝首を掻かれとるじゃないの。革命に必要なのは暴力じゃ。暴力でブルジョワジーども一掃したらんかい!」

この過激なレーニン案は、共産主義ヤクザたちの支持を集めた。そして、レーニンの兄弟分であったマルトフたちも、プレハーノフを「老害」呼ばわりした。結局、プレハーノフはレーニンに押され、綱領に「プロレタリア独裁」を書き入れることになったのである。できあがった綱領はレーニンの草案のかたちだった。

 しかし、別の問題がすぐに起きた

「レーニンの兄貴、兄貴は組入るもんは、組の活動だけせにゃならんと書いていますが、それはちょっと厳しすぎるんじゃないかのう。わしは、共産主義という理念に賛同するもん、わしらに協力しようと思ってくれるもんはみんな組の一員として認めたほうがええんじゃないか、と思うんじゃ。これからは労働者の時代じゃ、組の人間が多いことに越したことはないけえ」

 しかし、レーニンの考えは少数精鋭の組員が、組の活動だけをするといういわゆる「職業革命家」として考えていた。いたずらな組の拡大は、組の規則は雰囲気をぬるくすると考えていた。

「マルコフよ、組員を増やすだけで組がやっていけると思うとるんか。何よりも大事なのは、鉄の規律じゃ。組のもん全員がピシッと一致団結することが何より大事じゃ。組員を増やすと、その規律が緩まるんぞ」

「じゃあ、決をとって決めようかのう。これだったら組の規則に則ったもんじゃし、兄貴も文句はなかろう」

「そらかまわんよ」

 共産主義ヤクザによる投票の結果、マルトフの組構成を支持するものが多く出たのである。投票に負けたレーニンは激怒した。

「ええように話し合って、おまえらの好きなようにせえ。わしはもうここには用はないけん。勝手にやらしてもらう」

こうして、ロシア共産主義ヤクザには二つのグループ、レーニンのボルシェヴィキ組、マルトフのメンシェヴィキ組ができたのである。

 ちなみに、ボルシェヴィキという名前はロシア語で「多数派」、メンシェヴィキは「少数派」である。読者はお分かりの通り、レーニンたちのほうが少数派であった。これは、大会中、一部の組員が退席し、両者の数字が逆転したことを見計らって、レーニンが強行採決をしてしまったためである。

「おっしゃいまから決をとるで、いち、に、さん、し……どうやら、わしらのほうが多数派で、おまえらのほうが少数派のようじゃのう」。

「(ええー)」と一同思ったにちがいない。

このような大会中の人数工作、票操作はレーニンの得意とするところであった。

 これ以来、ボルシェヴィキ組、メンシェヴィキ組は対立をし続けていた。

1917年のロシア革命は、この両者が一致団結し、ソヴィエト連合会を結成したが、レーニンの帰還によって一変するのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仁義なきロシア革命 edo @edoneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ