#08
「あたし、ノアっていうんだけど……」
彼女の赤い瞳が。ルビーのような輝きを放つ虹彩が。
ただただ、そこで静かに揺れている。暗闇の中で灯る蝋燭のように。
――私は、どこかで、彼女と。
だから、ひとかけらの懐かしさがどこかで光っていればと、積もり積もった記憶の黒泥へ目を向けた。それを探そうと手を伸ばした。
けど、どこにも見えない。見つからない。掴めない。かすりさえしない。
なら、彼女の問いに対する答えは『いいえ』ではなく……。
しかし、だからといって、『はい』と言い切れるはずもなかった。私は、たくさんの要らないものを必要なものとしてインストールしすぎたから。たくさんの大切なものを不必要なものとしてゴミ箱に捨てすぎたから。
じゃあ、もしかしたら、本当は――。
そんな調子で、あるかどうかも、あったかどうかもわからないファイルメモリーを検索しては堂々巡りする私をよそに、物取りの女の子ことノアさんは。
「んー……ま、いいや。あたしの勘違いってことで」
めんどくさくなったのか、あっさりばっさりと一方的に話を締めくくった。あまり深くは考えないタイプらしい。
本気で悩んだ私の時間……と不服に思う部分がある一方、そういうふうに切り替えられるところが羨ましく思えたりなんかもして。
と、そこでなぜか、彼女はふっと優しげな吐息を漏らした。
「なんだ、ちゃんと笑えるじゃんか」
「え……?」
「ヴィオラ、ずっとぼへーってカンジの顔してたからさ。笑えないのかと思ってた」
……ぼへーって感じの顔……。
地味に密かに傷ついていたら、頭にふわり、帽子が載せられた感触。
「今は仕方ないかもしれないけど、大丈夫、これからだよ。……ね?」
続けざまに届いたのは、ご主人さまの柔らかな声音だった。
まるで物心ついたばかりの子供に教え諭し聞かせているような口調が、無性にむず痒くて。なんだか落ち着かなくて。
私は顔を隠すように、帽子の端を指先でつまみ引く。
「ふーん……」
と、そこで女の子が、含みのある相槌を吐息交じりに一つ。
「貴族らしくないこと言うんだな、貴族のくせに」
「おあいにくさま、僕は貴族であって貴族もどきみたいなものだからね」
「……はあ?」
ノアさんは何が言いたいとばかりに目つきを再びきつくさせる。……まぁ、あんな言い方されたら、わからなくもないけど。
ただ、彼女にとっては苛立ちを煽るだけの、釈然としない言葉でも。ご主人さまの人となりを少し……ほんの少しでも知った私には、貴族もどきという表現がなんだか妙にしっくりきてしまった。
そして、アーガスさんもまた、私と似たことを思ったみたいで。
「……お前はからかわれてるとしか思えねぇだろうが、そいつの言ってること、俺からすりゃあながち間違いではねぇぜ。たぶん嬢ちゃんからしても同じだろうよ」
女の子を一瞥した後、アーガスさんは私に表情だけで問うてくる。それに対して頷きを返すと、近くにいたご主人さまがあははと自嘲気味に軽く笑った。
「まぁ、どう解釈するかは君に任せるよ」
「……とりあえず、お前があいつらと違うってことはなんとなくわかったよ。変なやつだけど……」
ノアさんがはぁとため息を吐く。どうやら毒気を抜かれたらしい。
……と、思ったら。
彼女はすぐにまた目つきをきつくして、ご主人さまをずびしと指差しつつ。
「でもお前を信用したってわけじゃないからな! そこんとこ勘違いすんなよ!」
がるるるる……なんて擬音が漂ってきそうな態度は変わらないものの、彼女の中にあるご主人さまの人物像は多少プラスの方向に更新されたみたいだ。
……よかった、悪いほうにいかなくて。内心ひっそり安堵する。
「あ、そだヴィオラ、話のついでにもひとつ聞いてもいい?」
しかし、それも束の間のこと。会話の矢印は円卓を一巡したかのようにまた私へ。
「なんでしょうか……?」
「せっかく自由になれたのに、なんでまた貴族みたいなのと一緒にいるんだ?」
「……それ、は……」
不発弾めいた問いかけに言葉が詰まる。先を語れず言葉に困る。
過去形じゃないから。だった、じゃないから。その事実を口にすることは簡単だけど、口にしてしまえば――せっかくの約束をふいにしてしまう。
「………………ごめんなさい、言えません」
だから、答えるけど、応えられない。
そんな私を見て、彼女は何かを察したように、ゆっくり目を閉じた。
「……そっか」
「本当にごめんなさい……」
「いや、あたしこそごめん、無神経だった。……色々あって当たり前だよな」
彼女の添え句に小さく頷く。
色々。……そう、色々。私にすらそれがあるのだから、当然、ノアさんにもそれはあるのだろう。多かれ少なかれ、大なり小なり。
隷属生活という希望の見えない未来。願わない永遠。その最中その隙間で、私たちのような貴族の嗜好品は、何度も問いかけては嘆くのだ。
自分の価値を。生まれた意味を。なぜ自分がと。なんでこんな目にと。そんな自問自答は傷ついた心をより膿ませるだけにしかならないのに。
そうした結果――大半のキズモノは生きていくことを放棄して、ただ死んでいないだけの存在に成り果てていく。
……なのに。
そのはずなのに。
「ん? どした?」
「……あなたにも色々あったはずなのに、すごいなって、思って……」
落ちた視線はそのままに、思ったままを伝えると。
「あたしがすごい、って……ええ? なにが? どこが?」
きょとんとした表情から一転、大量の疑問符を躍らせながら、詳しく詳しくと食いついてくるノアさん。そ、そこまで喜ばなくても……。
「なんというか……普通なら、物取りしてまで生きようなんて、思わないから」
「あー……そゆこと、ね……」
どうやら彼女が期待していた内容と違ったらしい。なんだそんなことかとでも言いたげに、ノアさんが肩を落とす。……変な地雷でも踏んでしまったのだろうか。
ただ、彼女はすぐに表情ごと切り替えて。
「ま、ヴィオラの言いたいことはわかるよ。あんなとこいたら何やっても無駄だってフツーは思っちゃうもんな」
一定の理解を示しつつも彼女はその場に座り込むと、はっと自虐的に笑う。
「でもさ、やっぱさ……フツーに笑ったり泣いたりしたいよ。フツーの女の子として生きたいよ。少なくともあたしはそうだった。……ずっとね」
抱えた膝の上、ルビーのような瞳。そこに嗜好品特有の暗さがちらつき出す。
「なのに……貴族の道具? そのために生まれてきた? ……ふざけんな。そんなの絶対認めない。絶対許さない。だから……そのためならなんだってやってやる。いつか絶対フツーの女の子に戻ってやる」
震えながらもはっきりと語った彼女のそれは、私を含めたたくさんの子が捨ててきたものだ。血の気がない掃き溜めみたいな穴ぐらで生きていくために、心を無にして放棄するしかなかったものだ。
でも、目の前の彼女は――まだ捨てていない。
血の気がない掃き溜めみたいな穴ぐらを抜けた先、もう一つの無機質な世界で、人として生きていくためにいまさら必要となる――大切なそれを。
だからこそ、それを絶やしてはいけないと思った。なんとかできないかと思った。
「……………………あの、ご主人さま」
「……まいったねえ。ヴィオラちゃんったら、そうきますか」
私の意味深な視線と声に、ご主人さまが困り顔で頬を掻く。
「まぁ、どうにかできないわけじゃないし、初めてのわがままくらい聞いてあげたいところなんだけど……でもほら僕、彼女に信用されてないから」
…………。
さっきの、実は根に持ってるのかな……。まぁ、今それはさておき……。
「……なんとかすんだったら、お前んとこよりうちに置いとくほうがいいかもな」
どう伝えるべきか悩みうめいていたら、まさかの方向から援護射撃が。
そして、これにはご主人さまも予想外だったらしい。いつものように茶化すことはなく、神妙な面持ちで提案者に意図を問う。
「アーガス、どういうことだい?」
「そこの悪ガキ、普通の女として生きたいっつってたろ? なら、ただ漠然と過ごさせるよりはここの仕事手伝わせてたほうがそれっぽくなんじゃねぇかなと」
「……ああ、なるほど。百理ある」
「ちょ、ちょっと待てよ、なに勝手に決めてんだよ……」
と、そこでノアさんが困惑した様子で立ち上がる。
「そもそもあたし、やるなんて一言も……」
「働いたぶんは払ってやる。寝床も貸してやる。飯もまぁ……しばらくは食わせてやるよ。……どうだ悪ガキ、物取りでやってくよりはマシな生活送れるぞ」
「い、いや……確かにそうかもしれないけどさ……」
「君、さっき、なんだってやってやるって言ったよね?」
「う……」
一度二度と反論したものの、アーガスさんとご主人さまに揃って畳みかけられ、しまいには言質引用までされたノアさんは。
「……ほんと、なんなんだよお前ら。どんだけバカなんだよ。こんなやつの面倒なんか見たって何の得にもならないのに……」
やがて、観念したように一際大きなため息を吐くと。
ふてくされた子供みたいな言い方で。けど、どこか嬉しそうにも思える声音で。
「あーもーわかったよ……やればいいんだろ」
最後にぼそり、か細い声で呟いた。
私と、ご主人さまと。 あきさん @Atelier_Z44
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