夏の日差しと二つの雫

 蒸し暑い日が続くと何もかもが億劫になる。


 額には汗が浮かび、雫が垂れ落ちては肌を伝って下着を濡らす。じわりと広がった染みは肌に纏わり付いて離れようとしない。シャツと肌の間に指先をそっと伸ばし、ぱたぱたと仰いでみたところで快適とは程遠い。


 茹だるような暑さは思考を曖昧にし、ありとあらゆる境目を取っ払っていく。夢。現実。男。女。気にしなくてはいけないものも、気にしてしまうものも。頭が回らなくなる代わりに、人々のもつ垣根を壊して透明になれる。否、無垢になる。


 こんな日は思い出す。幼い頃の、ほんの些細な出来事を。


        *


 ――夏休みを迎えた当時の僕は、ひどく荒れていた。


 手当たり次第に殴りかかり、校舎に落書きをし、警察の厄介にもなっていた……というのは嘘で、そんな行為は一切していない。そういった面で言えば僕は真面目だった。素行は良かった。そうではなくて、僕は精神的に荒れていたのだ。


 あれは小学校の教室。古臭い木造校舎からは木の温もりも大して感じられない。それどころか雨に濡れたまま放置されていた壁からはカビの臭いがする。誰もが鼻を摘まむ窓際の席で空を眺め、僕は一人で汗を掻いていた。


 汗を掻きたいのではない。これには理由があった。


 夏を迎える前に親友が引っ越してしまい、新しいクラスに友人は一人も居ないという状況を迎えてしまったのだ。隣のクラスに行けば他の友人と会話もできたが、休み時間の度に他のクラスへ足を運ぶのは不可能だった。


 時間は幾らでも作れた。プライドが許せなかったのだ。


 親友と友人が居ない寂しい僕。そんな風に見られたくないという一心で、僕は薄っぺらいプライドで壁を作っていた。時々その壁を叩くお人好しも居たが、何を思ったのか僕は耳を傾けなかった。いつの間にか意地になっていたのだろう。


「まーた無視かよ。ヘンなやつ」


 本当は喜んでいた。声を掛けてくれた友人に感謝していた。しかしその想いは言葉にはならず、代わりに素っ気ない態度を示すのが癖になっていた。そんな日々の繰り返しが続くと、当然ながら僕に声を掛けてくる者は居なくなってしまう。


 しかし、中には僕と同じような変わり者も居る。


「意地っ張り」


 床が擦れる音に合わせて椅子が揺れる。睨み付けるようにして背後へ目をやると、髪の短い少女が笑っている。椅子を蹴り上げたまま伸ばした足はすらりと長く、足の付け根とスカートの隙間からは僅かに白い布地が見えていた。


「いい加減蹴るのやめてくんない?」


「いい加減意地を張るのやめてくんない?」


 自身の下着には無頓着なのか、少女は足を伸ばしたまま反抗的な態度を取る。……今になって思えば反抗的なのは僕だけだが、当時の僕からすれば彼女がそうだった。僕が何かをする度に彼女が口を挟み、僕を苛立たせる。もはや天敵そのものだ。


「別に……意地張ってねーし」


 僕は言い返せなかった。席を立ち、彼女に背を向けて廊下へと歩く。ぎこちない足取りでトイレに向かい、個室に入ってため息を吐く。それから深呼吸を繰り返し――


「……誰か使った後かよ」


 ――鼻が曲がりそうな悪臭で気分を悪くした。



 教室に戻ると、そこに彼女の姿は無かった。僕はほっとしながらも、かび臭い席に戻るのも嫌だからと踵を返した。トイレはもう行きたくない。かといって他の場所も知らない。廊下を歩いていたら誰かに会えるかもしれない。でも会いたくない。


 誰も居ない静かな場所に行きたかった。それで僕は屋上へと向かう階段まで歩いた。窓から差す日光に夏の暑さを感じながら、ぽたぽたと廊下に汗を垂らして。蝉の耳障りな鳴き声は、廊下を踏み締める僕を苛立たせるには効果的だった。


「――あれ? 珍しいね」


 むしゃくしゃしていた僕の前に広がっていたのは屋上ではなかった。屋上へと繋がる階段。その階段に座り込んで鉄製の扉に背中を押しつけて涼む彼女。会いたくもない彼女が居て、そこは静けさとも無縁の場所だった。


「なんで居るんだよ」


 当然、僕は苛立っていた。


「それは私が聞きたいよ。ね、どうしたの?」


 当時の僕は、親友も友人も居なくて。


「お前には関係ないだろ、ブス」


 それで毎日のように苛立っていて、勝手に敵を作って。


「ブスって……酷いよ。そんなんじゃずっと友達できないよ」


「だから関係ねえって言ってんだろ!」


 外に何があるのかも見えない程に、僕の壁は大きくなっていた。


「……関係ないのはそうだけど。でも、毎日泣きそうな顔見るのイヤだから」


「嘘言うな」


「嘘じゃないよ。今だって……」


「うるさい!」


「ほら、泣いてる」


 僕の額に浮かんでいた汗は、頬を伝って床へと落ちた。ぽたぽたと。何度も。視界はぼんやりとしていて、雫が垂れ落ちる量が増えて……口に入ったそれは妙にしょっぱかった。僕は泣いているのを認めたくなかった。プライドがまだ邪魔をしていた。


「君はさ、君が思うよりもずっとさみしがり屋なんだよ。それに泣き虫だし、もっと素直になったらいいのに。遊ぼうって言われたら、うんって言えばいいんだよ」


 耳元で聞こえた声。そっと顔を上げると、すぐに柔らかい感触に包まれた。じっとりと肌に纏わり付く下着。汗に混じって漂う彼女の匂い。彼女に抱きしめられているのだと気付いた僕は、どんどん心臓の鼓動を早めていった。


「あー……やっぱり暑いね。君が泣き止むかと思ってやったんだけど、夏にこういうのってダメだよ。なんかどきどきしちゃって、恥ずかしくもなっちゃうし」


「じゃ、じゃあ……止めたらいいだろ」


「うん。そうする」


「あ……」


 彼女は僕から離れると、再び階段を上って扉に背中を押しつけた。そのまま、少しだけ涼しそうな顔で彼女は手招きをした。その時の僕は、もう彼女に対する壁を無くしていた。みっともなく泣いてしまった後でどれだけ格好付けようと無駄なのだ。


「ね。ひんやりしてて気持ちいいでしょ」


「……うん」


 彼女と隣り合って座り、扉から伝わるひんやりとした感覚を背中から味わう。ふと彼女のことが気に掛かった僕は、目線だけをずらしていく。正面に広がる壁。真下に広がる階段。それから彼女の足。そして彼女の胸元までいったところで――


「素直になったらいいって言ったけど……そういうのは違うと思う」


 ――彼女が胸元を手で隠した。


「ご、ごめん。そんなつもりはなくて……」


「……ふふ。いいよ、謝らなくて。男の子って女の子の下着に興味あるんでしょ」


「違う……って言いたい、けど……」


「うん、分かってる。悪気は無いんだよね。あの時だって、私が椅子を蹴ったせいだし。蹴ってごめんね。暑くて、私もちょっといらいらしてたのかも」


「……気付いてたの?」


「何の話?」


 十分に涼んだのか、彼女はゆっくりと立ち上がった。背中にはうっすらと汗の染みができていたものの、僕はそれを見ても暑苦しいだの不愉快だのといった気分にはならなかった。相変わらず日差しは強く、その時も蒸し暑い時間帯だったというのに。


「また君がうじうじしてたら、やっぱり蹴っちゃうかも。私も我慢するけど、やっぱり暑いから。ちゃんと考えられなくなって、つい足が……ぽーんって」


「イヤだよ。もう蹴らないで」


「本当に蹴らないで欲しい?」


「……うん」


「そっか……じゃあ頑張ってみる。でも、ダメだったらごめんね。また蹴ったらごめんね。今も暑くて、なんか頭がうまく動かなくて。エアコンが欲しいなんて、そんなことばっかり考えちゃってて。あれ? 私何言ってんだろ」


 あの日はやっぱり蒸し暑くて。


「――あ、そうだ。でも言っておかないと!」


 座ってぼーっとしているだけでも汗を掻くような日々で。


「またごめんねって言うの?」


 それでもその日は、何故だか清々しい気持ちで。


「今度はパンツ、覗かないでね」


「の、覗いてない!」


 蒸し暑い日。汗を掻く度に、あの頃の懐かしい思い出が蘇ってくるのだ。

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