第6話 汚い
宙ぶらりんの瞳に赤色が浮かぶ。
違う。違う。瞳に映りたいと願ったけど、それはこんな形で叶えてほしいわけじゃなかった。
「彼方ッ。彼方、彼方、彼方!!」
抱き上げたくとも、椿の手は彼方を通り抜けるばかり。付喪神の体は、人の身に触れることはできない。それが当たり前だったのに。わかっていたはずなのに。
出会ってから今まで、彼方が椿を拒否したことなどなかったから。いつだって触れることができて、いつだって抱きしめることができて、それが当たり前になっていた。
触れたい。
抱きしめたい。
けれど、できない。
「おい、早く片付けろ」
俯き愕然として、何も考えられない、ただむせび泣くことしかできない椿を現実に引き戻したのは、主人の軽蔑に溢れた声だった。
「こんな汚いもので、いつまでも庭を汚すな」
椿の奥で、何かがこみ上げる。
主人の言葉を皮切りに、周囲の人々も口々に何かを囁き始めた。
「死んでくれてよかったわ。監視されているようで、気味がわるかったもの」
「何もないところに向かって話しかけて、物の怪の仲間だったんだろう」
「首を落とされる間際に微笑んでいた。気狂いに違いない」
言葉の一つ一つが、椿の胸の奥に泥のようにたまっていく。
何がわかる。
彼方の何を知っている。
いつも彼方を避けてばかりで、彼方を見ようともしなかったお前らが。
彼方は、優しかった。
彼方は、明るかった。
彼方は、美しかった。
彼方は、彼方、彼方は……。
「捨ててこい。呪いでも持ち込まれたらかなわないからな」
ごろん。と、主人が彼方の首を蹴り転がした。血が足袋に付くのを嫌がったのだろう。ちょんと小突くような蹴り方だ。
髪が、乱雑に広がる。
雪のように綺麗だと笑った真っ白な髪が、ぽつりぽつりと赤色に染まっている。
雪の上に転がる首のように。椿の花が、あちらこちらに落ちて。転がって。椿の、花が――……
(ああ)
気がつけば椿は、彼方の首を斬った男が握る刀に手を伸ばしていた。
”椿”と呼ばれた刀。椿自身。
付喪神は、己の本体に触れることも動かすこともできない。彼らはその”物”が長く使われ続けた故に纏わり付いた感情の化身であり、概念的な存在である。
道具が自らの意思を持ったとして、道具が自ら動くなんてあってはならない。
本体たる”物”から離れることもできず、ただその周囲で、全てを見守るのだ。
それらの理を破れば、相応の罰を受けることになる。仮にも神の名を持つ身。化身としてのその身は不安定になり、揺れ、壊れてしまう。悪霊に、成りはてる。
彼らは道具である。
道具は、使われる存在だ。
たとえそれが、作った者の意思に反したとして。たとえそれが、壊れる道だったとして。道具である限り、付喪神はその全てを受け入れなければならない。
それが、理だ。
その理を、破ってもいいと思った。
この身が壊れていいと思った。
悪霊に堕ちてもいいと思った。
それで、こいつらを殺せるのなら。
「ッ」
掴む。
突如現れた赤を纏う青年に、周囲から驚きの声があがった。「物の怪だ!」「あやかしだ!」と、騒ぎの声と共に逃げ惑う。
けれど逃げる脚を踏み出すより早く、首切り男の首がぼとりと落ちた。
椿が刀を振るう度、ぼとりぼとりと首が落ちる。一振りで首が一つ落ちる。椿の花が落ちる、落ちる。
ハサミを持つ人を前にして、椿の花に何ができるだろう。
たとえ刃と刃に挟まれたとして、逃げることができようか。
否。
ただ、斬り落とされる時を待つのみ。
「……汚い」
白い砂利の上に、赤色が広がる。赤色が多すぎて、汚い。もはや白色はどこにも見えない。
「あの日は……雪が降っていたから、か」
降りしきる雪が、血の上に降り積もって、赤を隠していた。
だから、斑な赤が椿の花のように見えたのだろう。
雪に隠れると言われた椿の刀身も、今や赤で染まっている。それを振り払って掲げると、刀身に椿の姿が映った。
髪は振り乱れ、肌にも服にも返り血がこびりついている。
「汚い」
――とても、美しいですね。
「汚い、なぁ」
――貴方を振るった人々は、貴方を愛していたのでしょう。
「誰が、愛してくれたんだろ……」
人の命を乱雑に刈り取ることしかできないこの武器を、一体誰が愛してくれたというのだろう。
だからきっと、今の自分はこれほどに汚いに、醜いに違いない。
椿が落ちる、その前に 佐塚柚子 @satukayuzu
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