第5話 椿
”椿”と名付けられたのは、初めての戦場でのことだ。
その日は雪が降っていて、地面には薄い絹が幾重にも重ねて敷き詰められていた。その上に、屠った相手の首がぼとりと落ちる。
雪に隠れる白刃が振るわれる度、ぼとりぼとりと首が転がる。
その様が、まるで雪の上に落ちた椿の花のようだからと。
だから、”椿”が名前になった。
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小屋を飛び出した椿は屋敷の庭へ走っていた。
椿にとって自分は戦のための道具だった。1度振るえば1人の首が落ちる。そう謳われた椿は、戦の中で常に重宝がられていたからだ。
だから、すっかりと忘れていた。
何十年と平和な世が続き、椿のように名の売れた道具はもはや権力者の間を移り渡るお飾り品となっていたから。
椿は戦のための道具でありながら戦だけの道具ではなかった。椿は、首を斬り落とす道具であった。
だから、戦でなくとも良いのだ。ただ、首を斬る相手がそこにいるならば。
首を斬りたい相手が、そこにいるならば。
「彼方ッ」
彼方の瞳は全てを見通す天眼。利用価値はいくらでもある。だから、彼方は死ぬまで使い古されるのだと思っていた。権力者によって、死なない程度に飼い殺されるのだろうと。
ああ、でも、わかっていたはずじゃないか。知っていたはずじゃないか。
いつだって人間が、異端の存在にすることと言えば。
利用か、排除。
彼方は常に利用され続けていた。もし、それがほんの少しずれたとしたら。彼方の強さを知っているからこそ、彼方が他者の手に渡ることを、恐れたとしたら。
「彼方!!」
椿は庭に飛び出した。
主人が、この家の重鎮達が囲っている。中心には白布が敷かれており、その上で彼方が後ろ手に縛られ膝をつかされていた。
真っ白な髪、真っ白な肌、真っ白な服、真っ白な布。そして、目隠しの布で隠されていない、真っ白な瞳。
上から下まで、雪のように真っ白だ。
椿の初陣の時と同じ。あの時も、降り注ぐ雪と積もり重なる雪が全てを白く染め上げていた。そして、一振りの後に落ちる赤。
「彼方!!」
もう一度、椿が彼方の名を叫ぶ。他の誰もが気がつかない中、彼方だけが顔をあげた。途端、唇を噛みしめ泣きそうな表情をする。
ああ、このためか。
唐突に椿は気づいた。
このために、彼方は椿を避けていたのだと。椿がこの光景を見ないですむために。椿が知るときには、全てが終わっているようにするために。
彼方の後ろに1人の男が立った。清廉な身なりの男が、先ほど小屋から持ってきたそれを――椿を――振り上げる。
「何か、言い残すことはあるか?」
主人が重々しく口を開いた。
「いいえ」
「我が家に仇なす化け物め。せめてもの慈悲として、お前が気に入っていたこの名刀、椿で首を斬ってやることを光栄に思え!」
「やめろ!!」
椿が声を張り上げる。
けれど、その声は誰にも届かない。ただ1人、その声が見える彼方だけが、椿の目を見て口を動かした。――ごめんなさい。
「俺で!彼方を斬るな!!」
彼方に向かって手を伸ばす。けれどその手は、彼方の体を通り抜けて宙をかいた。彼方と目が合う。2人の顔は、数センチと離れていない。これほど近くで彼方の目を見たのは初めてだと、椿は思った。
真っ白な瞳に、椿の赤色が映っている。
なんて、美しい瞳だろうと。
そして一閃。
それまで椿の目の前にあった彼方の顔が、椿をまっすぐに見ていた彼方の瞳が、重力に従ってぼとりと落ちた。
髪を、肌を、瞳を、赤に染め上げて。白布に、赤が染み広がっていく。
まるで、椿の花が落ちたように。
「ああ……」
真っ白の瞳が椿を見ていた。その瞳に映る赤は、椿の色だろうか、それとも彼方自身の血だろうか。
転がる首を持ち上げようと伸ばした椿の手が、首を通り抜ける。
この身はこの世のものではない。天眼という類い希なる霊視能力を持つ彼方だけが、現世から離れすぎた彼方だけが、触れる意思を持つことで椿に触れることができたのだ。
先ほどは、触れることを拒否された。振り下ろされる直前、彼方の引き寄せようとした手は、通り抜けて空しく宙をかいた。彼方が椿に触れることを、助けられることを拒否したのだ。
なら、今は?
「まだ、俺に、触れられたく、ねーの?」
髪を撫でようとしても、頬に触れようとしても、椿の手は通り抜ける。
「かな、た……」
――とても、美しいですね。
初めて彼方と出会った時、彼方は静かに微笑んでいた。
化け物が屋敷にやってきたという話は、聞いていた。けれどさしたる興味もなく、小屋の中でぼんやりと日を過ごしていた時のことだ。珍しく小屋の扉が開いたと思うと、全身真っ白の子供が入ってきたことには驚いた。目元を布で隠した子供は、何にぶつかることもなく物と物の間を器用に通り抜けていく。
(変なガキだな)
目を見張るほどに白くて、驚くほどに美しいこの子供は、新しく雇った奉公人ではないだろう。では、やんごとない筋の隠し子か何かだろうか。暇つぶしに観察していると、子供の顔がぐるんと椿の方を見た。
子供の目元は見えないが、はっきりと目が合った気がする。
いやいやまさか、自分の姿が人の子に見えるはずがない。もしかしたら霊感の強い子で、気配くらい感じたのかもしれない。
椿がそう考えていると、子供の方が口を開いた。
――とても、美しいですね。これ、貴方でしょう?
子供が指さしていたのは、まさしく椿自身だった。刀箪笥に収められた一振りの刀。それを指さして、子供は真っ直ぐに椿を見ていた。
――え、アンタ、俺が見えるの?
――はい。
驚く椿に、子供はこともなさげに頷いた。椿が近寄りじろじろと眺めても、子供は口元に笑みをたたえて立っている。
――あの、触れてみてもいいですか?
――あ、ああ。
慌てる椿とは反対に子供は落ち着いていた。
戸惑いつつも椿は頷いた。仮にも名刀と呼ばれた椿である。触れられることも鑑賞されることも慣れている。
けれどその子供は、伸ばした手で椿の髪に触れた。紅の髪を一房手に絡めて微笑む。
――やはり、とても美しいですね。
己の髪に触れる手に、椿は驚いた。人の形をしていても、椿はこの世のものではない。ふわりふわりと浮かぶその体は、それなりに立ったり座ったりとすることはできるが、人に触れることなどできないはずなのに。
人の子だと思っていたのに、目の前の子供も物の怪の類だったのだろうかと混乱する椿に子供はくすりくすりと笑った。
――私は人間ですよ。ただ、人のものではない目を持って産まれてきてしまったらしく、この体は半分ほどそちらの世に脚を踏み入れてしまっているようなのです。
髪に触れる手の細さに、優しさに、心を読まれたと気づくことに時間がかかった。
――それにしても、本当に美しい。髪も瞳も、ほんの少しの曇りもない赤色ですね。
――人の血の色だ。綺麗なもんか。人の命を刈り取る、忌み嫌われた武器だ。
――そうですね。鮮やかなだけではない、恐ろしさも感じる赤です。
――……ああ。
――けれど、貴方たちのような付喪神は関わった人の感情が体に影響すると言います。ただ忌み嫌われてきた武器ならば、このように美しい姿なはずがありません。貴方を打ち、貴方を振るった人々は、貴方を愛していたのでしょう。私も、できるなら貴方のような刀で斬られて死にたいものです。
――縁起でも無いこと言うなよ……。
刀身を眺め美しいと誉めそやされたことは数え切れないほどある。けれど目を見て美しいと言われたのは初めてだった。
――俺も、触れてみていいか?いや、そもそも俺から触れるのか?
――ええ。私が心の底から拒否でもしないかぎり。気を抜いて山に入ると、山の精に上から下まで囲まれてしまいます。
それは大丈夫なのかと心配になりつつ、恐る恐る子供の頬に手を伸ばした。
震える指に、ふにりと柔らかい感触が伝わる。本当に人の肌なのかと疑うほどに、柔らかく、押すと弾力があり、撫でると滑らかだ。頬から少しずつ、その手を首へ滑らせる。折れそうなほどに細い首筋に触れると、どくりどくりと脈打っているのが指先から伝わってきた。心臓の音が椿の中にも広がって、まるで椿にも心臓があるような気分になる。
――生きている、音がする。
――はい。
その音を、今まで斬り落としてきたのだと思うと、何故か、怖くなってきた。
椿は、命を奪うための道具として作り出されたというのに。
人を殺すために生まれてきた。
人を殺す事が仕事だった。
初めて殺したくない程美しい人間に出会った。
初めて、恋をした。
――これからも、こうして触れてもいいか?
――もちろんです。これから同じ家で暮らす家族ですから。私は彼方と言います。よろしくお願いしますね、椿殿。
布で隠されていて、直接彼方の目を見ることができなかった。けれどいつか、その瞳に映りたいと、椿は望んだ。
望んだことは、ただそれだけだったのに。
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