第4話 擦れ違い

 彼方の様子が少しおかしかった日から、彼方を見ることが減ったと椿は思う。それまで彼方は自室にこもりきりであったから、会いに行けばほぼ確実に会うことができた。それが今は椿が会いに行っても部屋には誰もいないことが多い。

「避けられているねえ、完全に」

「煩い黙れ千夜どこから入ってきやがった」

 後ろからひょこりと顔を覗かせてきた千夜に椿が一息で言い切る。

 千夜は頬を膨らませるが、椿の反応は予想の範疇なようで雨も降らないのにさしている番傘をくるくると手持ち無沙汰に遊んでみせた。

「僕がどこから入ったかなんてどうでもいいでしょ。それより、彼方に避けられるなんて一体何したのさ」

「まだ避けられてるって決まったわけじゃ」

 現実を受け入れたくないように椿が口の中でボソボソと呟く。

「だって僕一人の時は普通に会ってくれるもん」

「何!?」

 必死に現実から目を背ける椿を千夜がぴしゃりと斬り捨てた。

「僕が会いに行って椿がいないから珍しいなぁとは思っていたけどさ、避けられていたんだ」

「う」

 千夜の言葉がぶすぶすと椿に突き刺さる。普段の千夜の皮肉や嫌味は気にならないのに、事実を淡々と並べられるとこれがなかなかに辛い。

「心当たりは?」

「ない……けど、ある、ような」

「はっきりしないなぁ」

 特別嫌われるような行為をした心当たりはない。けれど


 ――椿殿は、嘘つきです。


 自分にもたれて悲鳴を漏らした彼方。彼方に何かあったのは確かだろう。けれど、それがどうして自分が避けられることに繋がるのかはわからなかった。

「僕と一緒にいるときね。彼方、いつもと何も変わらなかったよ」

 落ち込む椿に千夜がぽつぽつと語り出す。

「椿がいないだけ。他には何も変わらなかった。僕はそれに、とても苛立った。嫌で嫌でたまらなかった。どうしてだかわかるかい?」

「……いや」

 椿がぽつりと答えると、千夜の顔に目に見えて怒りが浮かんだ。呆気にとられる椿の頭を、閉じた傘で殴りつける。

「ぃでっっ」

 細い千夜の腕とは言え、全力だったのだろう。勢いよく振り抜かれた一撃は椿の脳を揺らした。

「何すんだっ」

 いつもの調子で掴みかかろうとした椿は、ぴたりとその動きを止めた。

 目の前で、千夜が泣いていた。

 今し方椿を殴った傘を細い手で強く握りしめ、薄い唇に歯をたてて食いしばり、夜と同じ黒色の瞳からボロボロと涙を流している。

「ち、や?」

「どうして……わからないんだよ……。椿は、彼方のことが好きなんだろ?なのにッ」

 両の頬に涙を伝わせながら千夜が続けた。

「引き下がろうとした僕が、バカみたいじゃないか!椿は、君は……ッ。彼方のことをその程度にしか思っていなかったんだな!僕でもわかったのに!!」

「ッ。待て!」

 べしべしと椿を傘で叩き続けてきた千夜の手を椿が掴んだ。千夜の手首をゆうゆうと掴む椿の手の大きさに、千夜がぎりりと歯を鳴らす。

「わかったってなんだよ。彼方がどうして俺を避けるのかわかったのか?教えてくれ!どうして彼方は」

「知るか!馬鹿!!」

 椿の声を遮って千夜が大きく身をよじる。椿の手が離れた瞬間、再び強く傘を振り抜いた。衝撃で千夜の手から傘が抜け落ちる。それを拾おうともせず、千夜は走り去っていった。

 一人残された椿は

「どういうことだよ……」

と、呆然と呟いた。

 落ちている傘を拾い上げる。黒いその番傘を、千夜は初めて会った時から持っていた。晴れの日も雨の日も、屋外にいるときはいつもそうだ。

 届けてやるべきだ、とは思う。

 けれど、不可能だ。

 だって椿はこの家の敷地内から出ることができないのだから。

 椿はこの家から出ることができない。それ故に、同じく家から出られない彼方と会えないなんて偶然が続くはずがないのだ。

 彼方が椿を避けている。全てを見通す天眼を持つ彼方ならそれも可能だろう。

 でも、どうして?

 あの悲鳴の原因は、まさか椿にあったのだろうか。

「俺が、何かした、のか?」

 誰かが答えてくれるはずもないのに、思わず問いかけてしまう。

 しかし、本当に椿に心当たりはないのだ。何か大きな事件が2人の間で起こったわけでもない。ただただ、いつものように彼方を訪ね、なんともないことを彼方が呼び出されるまで語り合う日が続いていただけだ。

「寝静まった頃にでも、また行ってみるか」

 いくら彼方が椿の位置を把握できるとはいえ、流石に四六時中椿を見続けるわけにはいかない。

 眠っている彼方のもとを訪ねるのは気が引けるが、この際仕方が無いだろう。彼方がどうして椿を避けるのかを知らなければ、次に千夜に合わせる顔もないのだ。

 と、椿が心を決めたその時だった。

「――え」

 ぴんと、引っ張られるような感覚に、椿は思わず知らず声を落とした。

 引かれる。

 手がぴりぴりと震えて、全身の肌が粟立つ。

 それを実感した時には、椿は小屋に向かって走り出していた。開きっぱなしになっていた扉から中に飛び込み、まっすぐに奥を目指す。

 はたしてそこに、椿が求めていたものはなかった。

「どう、して?」

 何年、いや、何十年と、使われることなんてなかったのに。

 動揺と恐怖が椿を包み込む。しかし、それと同時に全身の血が沸き立つような興奮を椿は感じていた。

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