読めないヤドカリ

s286

第0話

 その日、ヤドカリは高揚と多幸感に満たされて夜の散歩を楽しんでいた。なぜならようやく自分の理想とピタリ合致する空き家を浜辺で見つけたからだ。

 フラフラと通り過ぎるふうで物件を何度も確認し、半日待っていよいよ空き家であると確信したので住み心地を確かめると自分のためにしつらえたかのような心地よさに彼は夢ではなかろうかと自分の頬をつねったりもした。

「私もようやっと人に自慢できる城のあるじになれたぞ」

 ヤドカリは幼い頃から自分の身体の成長に合わせて色々なお宿やどを借り替えてきた。

 そんな彼だから成長期を終えた頃からこれぞと思う物件を夢見てきたのだ。自分の想い描く理想の家を手に入れたらそこで優雅ゆうがに読書がしたい……大人になってからの彼はそんなことばかり考えていた。

 彼は、思う……本は素晴らしい。自分の知らぬ、いまだ観ぬ景色を文字を通して作者が描き見せてくれる。自分の観たもの聞いたもののほかを知ることができるのだ。

 順序は入れ違い、家より先に読みたい本の方が彼の元へとやってきていた。一冊手に入れると別の一冊も欲しくなり四季別、月別と本は見る間に増えていったが、彼は理想の家が見つかってからの楽しみにすると決め、果ては置き場に困った自慢の蔵書を収納するための秘密の岩場まで探さなくてはならなかった。

 よるも更けた頃、ヤドカリは秘密の岩場にたどりついた。もちろん本を読むために。けれど自分にとってあれだけ焦がれた本への情熱が、なぜか今日は湧き上がってこないのだ。

「あぁ、今日は首尾よく家がみつかったのではしゃぎ過ぎたのかもしれない」

 彼はそのまま岩場に腰を下ろし寝る仕度を始めた。

「フフフ……明日からは読書三昧だ。その前に少し食べ物を準備しないと」

 彼は、満天の星空を見上げ、波の音聞きながら明日から始まる生活を想い描いて深い眠りへと誘われた……。

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