眠れる。

糸乃 空

1話完結 聞こえた。

 右を見ても左を見ても天井を見ても、一向に眠りがおとずれない。


 こうすると眠れますよと、言う方法はあらかた試してみた。

 睡眠を誘発してくれるというレタス料理、ホットミルク、ヒーリングミュージック、明りを落とし、眠る時間に合わせて体温が下がるよう風呂も入った。

 枕もとには分厚い広辞苑。眠りを誘うにはうってつけだと思ったからだ。

 だが、ページを開く度、明日の仕事が気になり始め、憂鬱な気持ちに陥りますます眠れない。


 とその時、少し離れたキッチンから物音が聞こえてきた。冷蔵庫や電化製品のモーター音ではない。こう、何かを遠慮がちに叩くような。

 田宮修一郎たみやしゅういちろうは、眠りを諦めてベットから足を降ろすとキッチンへ向かった。


 トントントン。

 嘘じゃない、幻聴でもない、確かに冷凍庫の内側から聞こえてくる。

 おそるおそる扉を開けると、冷凍室の真ん中に、ぶるぶる震える羊が立っていた。ねずみほどの大きさで、綺麗に生えそろった上下の歯をガタガタしている。

 「寒くて仕方がないんです、どうかどこかに寝かせてもらえませんか」


 そりゃそうだろうと思い、リビングの温カーペットのスイッチを入れると、ハンドタオルで包んだ小さな羊をそっと横にする。

 羊は、ホッとしたように目を閉じた。


 するとまた、トントントンと冷凍庫の内側が鳴り、開けるとまた羊がいた。

 「寒くて仕方がないんです……」

 小さな羊が最後まで言い終わらないうちに、ハンドタオルで包み最初の羊の隣にそっと寝かせてみた。

 間もなく、すやすやと安らかな寝息を立てはじめる。


 トントントン。

 冷凍庫を開けると、寒さに震えた羊が真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。


 次々と冷凍庫のドアをノックする羊たちを寝かせることに夢中になっていた修一郎は、羊が100匹目を迎えたころ疲労を感じ、自身のベットに倒れこんでいた。

 「少しだけ、ほんの少し休むだけだ」

 自分に言い聞かせるよう、泥のような眠りに引きずり込まれていく。


 翌朝、カーテンを閉め忘れた窓から差し込んでくる光で目が覚めた。

 眩しい。

 いつの間にか寝入ってしまったらしい。

 ハッとしてリビングを見に行くと、そこには――何もなかった。

 いつもと変わらない殺風景な部屋。

 どうやら風変わりな夢を見たらしい。そりゃ、そうだよな。


 いつも通り仕事へ行き、いつも通り帰宅すると風呂に入り、レタス料理を食べ、すり下ろした生姜とハチミツをたっぷり入れたマグカップを片手に、森を再現したヒーリングミュージックをかけ心を落ち着かせる。

 今夜は眠れそうだとベットに横になり、何度か寝返りを打つうちに目が冴えてしまった。横になるのが駄目なんだろうか。それともベットが合わないのか。


 あれこれ思いをめぐらせていると、キッチンから物音が聞こえてきた。

 トントントン。

 間違いない。

 リビングを横切ろうとした時、きちんと畳まれたハンドタオルが部屋の隅に重ねられている事に気付く。朝は見過ごしていたのか。


 トントントン。

 冷蔵庫の真ん中、野菜室から遠慮がちな音が聞こえてくる。

 そっと扉を開けてみると、野菜室の真ん中に、一昨日入れたキャベツを頬ばりながら、ぶるぶる震えるねずみほどの小さなヤギが立っていた。

 「はむふてひはたがなひんでひゅ」

 俺は少しだけ笑った。








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