第4話 夕方の警戒
中学校からの帰り道、冬至に近づいて日も陰るのが早くなってきた時期に、突然一緒に歩く彼女が僕にこんな話をしてきた。
「未練は熊には勝てないわよね?」
懐かしいような声で「未練」と僕の下の名前を呼ぶのは、今思えば後にも先にも彼女しかいなかった。彼女――
「そんなの当たり前だろ。……熊なんて直接見たことがないから想像でしか言えないけど、多分襲われたらひとたまりもないんじゃないか?」
「そうね。銃とかを持っていたら別かもしれないけれど、生身では到底太刀打ちできないでしょうね」
何を当たり前なことを、と僕が思っていると隣を歩く真帆は口を開き、また別の例を話し始めた。
「じゃあ、成人男性ではどうかしらね?」
僕は真帆の意図が読めないまま、思ったことを返す。
「それでも同じだよ。腕力でまず勝てない。まあ、熊と違ってナイフ程度でも結果は変わるかもしれないけどね」
それを聞いた真帆は唇をかすかにゆがめて愉快そうに微笑む。真帆の予想している通りの回答をしている自覚はあるが、手のひらの上というのは面白くない。恐らく真帆は本題に入っていないのだろう。今は「ピザ」と10回言わされているような気分だった。
「では同い年の女の子だったら勝てる?」
「うーん。それはたぶん僕が勝つんじゃないかな」
男性として特に秀でているわけではないが、年相応の人並みの筋力と体力はあるはずだ。相手が特別な場合を考えると別だろうが、一般論ではおそらく僕の勝ちは揺るがないだろう。
そう思っていた僕だったが、真帆の答えは意外なものだった。
「いいえ、勝てないわ。10回やったら10回とも勝つことはできないと思うわ」
「……なんでそう言い切れるんだよ?」
「色々理由はあるけど、まず未練は勝とうとしないでしょうからね」
「どういう意味だ?」
聞きつつも、僕は真帆の言いたいことはだんだん分かってきた。
「勝ちっていうのは、相手を気絶させるか、もしくは殺すかして無力化することよ。女の子相手に――女の子じゃなくても、未練にそれが出来るの?」
「それは……」
出来ない。これは僕じゃなくてもそうだろうが、普通の人生を歩んできた今時の日本人には出来ない事じゃないだろうか。仮にナイフのような武器があったとしても、他人を殺せる人間は少ない――はずだ。
「つまり、未練は腕力で勝るくせに、私にすら勝てないのよ」
そう言って真帆は滑らかな動きで人差し指を僕の喉元に当てた。冷たい指先が喉に触っている感覚に僕はびくっとする。
「まいった。僕の負けだよ」
両手を上げて降参を告げる僕に真帆は――
「なんて言ったんだっけ」
記憶が朧気で思い出すことが出来ない。思い出そうと数分首をかしげてみるが、それも徒労に終わる。それにしても、
「勝てない……か」
昔を思い出した僕は喉をさすりながらつぶやく。
「知ってるよ」
ファミレスを出たころには夕方になっていたので、緑里と解散した僕は見回りとして町中の特に人通りが少なそうな場所を歩き回っていた。この町も都市化が進行中であるが、進行中という名の通り駅前以外はまだまだ街灯も少なく、日が沈み始める頃には足元が不安に感じる場所も少なくない。
見知った道の近くとは言え、適当に歩いているせいで通り魔にあったときの逃走ルートが確保されていない道だ。万が一のこともあるため、色々と覚悟しておく必要があった。
「流石に緑里には頼めないしな」
狭い町の中とはいえ、パトロールの範囲はそれでも半径5キロ程度はある。1人で歩き回るだけで遭遇するには、自動販売機で取り損ねられたお釣りを見つけるくらいの運が必要だ。その点やはり人手はほしいが、危険なだけあって無理には頼めない。最悪7人目の被害者として行方さんに資料を用意されることになってしまう。
それに、通り魔は4人目から凶器にナイフを使い始めている。次の犯行時も持っていると考えた方がよさそうだった。犯人が素手だったら勝てるかもしれなかったが、それもすっぱりと諦めた方がよさそうだ。僕の目的は通り魔の無力化ではないのだから。無理をするのも面白くない。
――では、誰か襲われていたら?
疑問が頭をもたげたが、僕にその答えを出す時間は無かった。なぜなら、
「来ないで!」
道の先の暗がりから女性らしい高く鋭い声と、それに続くバタバタと走る足音が聞こえてくる。探している通り魔かどうかは分からないが、非常事態には違いない。僕は思考をいったん放棄すると声のする方に走っていった。
走った先に見えた道の端に一本だけある街灯。その下には僕が思っていた通りの光景が広がっていた。奥からこちらに向かって逃げてくる少女と、それを追いかけるフードをかぶった人物。フードのせいで性別は確信できないが、足は少女よりも少し早い程度……もしかして女性か?。
「助けてください!」
状況を把握しようとまごついている僕を見つけて、少女が助けを求める。ここで見捨てるという非情な判断も出来るが、直接助けを求められるとなると黙殺するわけにもいかないだろう。僕にだって良心はあるのだ。
「分かった。こっちだ」
少女が僕と並んだことを確認すると、並走するように走り出す。向かう先は通り魔から反対の方向。僕が今しがた悲鳴を聞いて駆け付けた道順だった。――確かこちらに大通りがあったはずだ。僕は後ろを振り返りつつ道順を頭に思い起こす。
「はあっはあっ……」
「大丈夫。あの通り魔、足は遅いみたいだから」
息を切らして走る少女に声をかける。この発言は少女を元気づけるためのハッタリではなく、実際に逃走中に話す余裕がある程度にはフードの足は遅いのだ。通り魔の足の速さは目測で時速20kmほど。100mを大体18秒で走る程度の速さだった。
「後100mで右に曲がるよ」
頭の中の地図から少女に指示を出す。少女は逃げるのに必死なのか、特に反応は示さないが一応聞こえているようなので放置する。いざとなれば少し先に出て先導すればいいのだ。
ちらりと後ろを振り返る。足音はまだ聞こえるものの、通り魔との距離は出会ったときからも少しずつ離れ続け、今は家一軒分は離れている。暗いのではっきりとは見えないが、手元にはナイフのようなものを持っているようだ。
――これは勝てないな。
足の遅さはともかく、武器を持っているならよほどのことがない限り、無力化は難しいだろう。特にこちらが無傷という条件が加わるとなると不可能に近い。僕は指示の通りに右に曲がる少女を追いかけながらそう考えた。
「この後にまっすぐ、右、左、まっすぐ、左の順で走れば大通りに出るはずだよ。このペースで行けば5分もかからないんじゃないか」
僕の声に少女が覚えられないとばかりにふるふると首を振ったが、曲がり角の度に指示を出せばいいだろうと思いこれも無視する。
そこからはひたすらに夜の道を走った。もちろん通り魔も馬鹿じゃないので、「待て」なんて言わずに無言でひたすら追いかけてくるから、走るのに必死な少女も相まって人間が3人いるのに誰一人として喋らず走り続けるというシュールな光景が広がっていた。
そして走る事5分ほど、
「何とか逃げ切ったか……?」
人通りのある広場に出た僕と少女は、怪しい人影がないことを確認すると息をついた。追われるというのは、精神的に追い詰められるという事であり、やはり体力を消耗するものだ。普段の全力で走った5分と逃走中の5分とは走った距離が変わらないとしても疲労感はまるで違う。
「ちょっと休まない? 話も聞きたいし」
僕が少女にそういうと、少女は膝に手を当てて呼吸を整えている体勢から小さく頷いた。
どうせ地球は回ってる 東上西下 @Higashikami
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