第8話

 試験まであと一ヶ月を切った。

 私は大学にも行かず、寝る間も惜しみ、今までゆっくり湯船に浸かっていたバスタイムもシャワーで済ませるなどして、手話の勉強に没頭した。


 自然と人面瘡との会話も減っていく。でも、右ひじに人面瘡がいると思うだけで、ひとりじゃない、と勇気づけられた。


 そして、試験当日。私はカオルの受験票を胸に忍ばせて、会場に向かった。

 席に着くと、胸ポケットに右手を置き、右ひじに左手を添えて、深呼吸をひとつ。大丈夫。私には、カオルも人面瘡ついているのだ。まずは落ち着いて、今までがんばってきたすべてを試験に注ぎ込もう。


 さあ、試験開始!




 学科試験に続き、実技試験を終え、家路についた。そして食事もそこそこに、一ヶ月ぶりの湯船に浸かる。ずっと力んで固まっていた体が、ジワーッとほぐれていくようだ。


「人面瘡、やれるだけのことはやったよ」

「そウ……。 それはよかったネ」

「ん?」


 久しぶりに聞く人面瘡の声は、なんだかひどく弱々しかった。ひじをねじって見てみると、人面瘡はずいぶん小さくなっていた。

「あれっ! どうしたの? 大丈夫!?」

「大丈夫だヨ。ちょっと、縮んじゃったダケ」


 そういえば、最近は試験勉強にかかりきりで、ずっとごちそうをあげるどころではなかった。

「私なんか、本当に、全然ダメだよねー。まったくやる気ないしさー。生きてる価値なんか、これっぽっちもないんだよねー」

早速大声で、ごちそうを振舞う。


「あのネ、アンタネ、気遣いは嬉しいケド、見え透いたネガティブ発言は栄養にならないんだヨ。それ、もう心から言ってないでショ?」

「えっ!」


 人面瘡の言う通りだった。私はカオルの夢を引き継いで手話通訳士を目指すことに、生きる価値を見いだし始めている。


「ごめん……」

「別に謝らなくていいヨ。アンタのためには、こっちのほうがゼッタイいいんだからサ」




 試験結果の発表を待つ間にも、人面瘡はさらに小さくなり、とうとうしゃべらなくなった。でも、表情だけは、なんとなく動いているように感じる。


 私は人面瘡が沈黙してからも、結果発表前の落ち着かない気持ちを一方的に話していた。そうすることで、不安がほぐれていくようだった。


 そして、いよいよ迎えた発表日。結果はインターネットでも発表されるので、パソコンの前に早めにスタンバイし、発表時間まで待機。

 時間になり、ドキドキを抑えながらクリックすると……。


「あった!」


 私の受験番号がしっかり載っていた。何度見直しても間違いない。

「やったヨー!!」


 私はまず、抽斗に大事にしまっておいたカオルの受験票に報告した。


 それから人面瘡にも、と右ひじを見ると、そこはすっかり平らになっていて、かすかに二個の点と曲線が、痕として残っているだけだった。

 その痕はまるで、小さな目と口のようで、笑いを湛えているように見える。


「人面瘡、ごめんね」


 涙が腕に落ち、ひじを伝って流れていった。


 ありがとう、人面瘡。『無』になっても、ずっと忘れないよ。




          (了)

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人面瘡の育てかた @tsuki-yomi

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