第16話  理屈じゃない


「僕は」


 次の言葉を発するまでに、少しの時間を要した。ただ、それは言葉が出てこなかったからではない。その言葉は、僕の中でゆっくりと温まって、そしてゆっくりと時間をかけて、口から溢れた。


「それでも、僕は知りたい」


 オクタヴィアの目をじっと見据えたままそう言うと、彼女の眉がぴくりと動いたのが見えた。そしてすぐに、オクタヴィアは鼻を鳴らす。


「なるほど、私の言葉の意味が理解できないと」

「そうじゃない。貴女の言うことは理解できるし、納得もできる」

「ではなぜ……」

「知らない方がいいことがあるとしても、僕はそれを知りたい」


 オクタヴィアの言葉を遮って、僕は続けた。なぜか、胸が熱かった。少し前までのじっとりとした緊張感は消え失せて、次から次へと、言葉が溢れてくる。


「知ることで苦しくなるかもしれない。知ることで逆にわからなくなることもあるかもしれない。それでも、僕は知りたい。知ることで僕の世界はどんどんと拡張されていくから。世界は本当はきっと決まった形をしているんだろうけど、僕たち人間はそのごくごく一部しか知らずに死んでゆく」


 淀みなく溢れ出す、脈絡のあるのかないのか分からない、連続する僕の言葉をオクタヴィアは静かに聞いている。


「僕の身体は貧弱で、一人でできることなんてほとんどなくて、それでも、知識を通して世界を身近に引き寄せて見ることができるんだよ。知識が増えれば増えるほど、僕の世界は……人生は、広がっていく」


 心臓が高鳴っているのを感じる。なぜ自分がここまで興奮しているのか分からない。胸だけでなくもはや身体全体が熱かった。

 僕を見ているオクタヴィアが、眉を寄せるのが目に映る。


「知識を得ることは……僕の人生そのものだ。必要とか必要じゃないとか……そういう、理屈じゃないんだ」


 そこまで言うと、ようやく、高鳴っていた鼓動が少しずつ落ち着いてゆき、溢れて止まらなかった言葉も尽きた。この後何を言うべきか、急に分からなくなる。

 僕が急に口をつぐんだのを見て、オクタヴィアは小さく呟いた。


「微弱な魔力を感じた……」

「え?」

「……いえ、なんでもありません」


 オクタヴィアは手をひらひらと横に振って、それから、呆れたように微笑んだ。


「……愚かな人ですね」

「……僕もそう思う」


 僕が頷くと、オクタヴィアはため息をついてから、諦めたように首を何度か縦に振った。


「良いでしょう。そこまで言うのであれば、もう止めはしません。ただ……その後の責任もとりません」

「分かってる」

「……知識を得ることは人生そのもの、ですか」


 オクタヴィアが呟いて、少し顔を伏せた。その様子は、何か昔のことを思い出すような、静かで、しかしどこか重みを感じる仕草だった。


「同じような言葉を吐いた人間に、あなたよりも前に会ったことがあります」

「そうなのか?」

「ええ……私が唯一、一時期とはいえ行動を共にした人間です。今はどこで何をしているのやら」


 オクタヴィアの瞳が少し揺れた。瞳の先に浮かんでいる人物のことを思いやるような、そういう温かさを伴っている瞳に見えた。

 しかしそんな表情もつかの間。オクタヴィアはパッと顔を上げ、僕を射抜くように見つめた。


「まあ、そんなことはどうでも良いのです。あなたが知りたがったのはこの空間のことでしたね」

「あ、ああ……まずはそうだな」

「まずは……ですか。あまり質問責めにされるのは好きでないのですが」


 オクタヴィアは眉をひそめてから、ゆっくりと瞬きをした。こうして見ると、彼女のまつ毛はものすごく長く、そして美しかった。


「この空間は、あなた方のさきほどまでいた世界とは隔離された空間です。時の流れから、物質の理まで、すべてが〝あちら〟とは異なる」


 さらりと、オクタヴィアはそう口にした。


「つまり、あちらの世界からこの空間の中を検知することはほぼ不可能であり、その逆もしかりということです。ここまでは分かりましたか?」

「いや、さっぱりわからない」


 僕がきっぱりとそう言うと、オクタヴィアはあからさまにしかめ面を作った。


「それなりに賢い人間かと思いましたが、見当違いでしたか……」

「いや、言ってることは分かるんだ。言葉上の意味は理解できる。ただ、あまりにも突拍子がなさすぎて実感が伴わないというかだな……」

「あなたの常識で考えるからです」


 オクタヴィアは呆れたように息を吐いて、僕の目を射貫くように見つめた。


「現にあなたは『光』というの概念のねじ曲がった世界に立っている。それだけ体感的に『異質』に身を包まれていながら、今更実感が伴わないなどと言い出すとは片腹の痛いことです」


 はっきりと言葉に出されると、この空間に来たばかりの時に感じた違和感が浮き彫りになった気がした。

 確かにそうだ。僕の普段生活している世界では、光には必ず方向があり、それらが反射することで僕たちはそこにある『物』を『物』として認識できる。

 しかしこの空間はそういったルールがめちゃくちゃだ。周りは黒で塗りつぶされたように真っ暗だというのに、自分の姿と、オクタヴィアの姿、そして、彼女が何らかの力を行使して召喚した木の切り株やら砕けた岩の柱やらははっきりと目視することができている。


「光の規則も曖昧で、時間の流れも普通とは違う……そうなってくると物質の存在や認識だって曖昧になる」


 気付けば疑問が沸き上がり、口に出ていた。


「時間の流れが普通じゃないんだとしたら、僕の身体はいまどうやってここに成立してるんだ?」


『流れる』という事象は、『時間』の概念が存在して初めて成立する。時間が流れる。時間が止まれば流れは止まる。早まれば、早くなる。遅められれば、遅くなる。では、同じペースを保てなければ成立しない『流れ』は一体どうなっているのだろう。たとえば、『血液の流れ』だ。

 考え出すと、止まらなかった。


「ふ」


 僕の様子を眺めていたオクタヴィアが突然小さく噴き出した。


「なんだよ」

「いえ……見れば見るほど、かつての知人にそっくりだと思っただけです」


 オクタヴィアは半笑いでそう言ってから、流し目で僕を見た。


「いろいろと考えを巡らせているであろうところにこんなことを言うのは少し心苦しいですが」


 オクタヴィアは僕からスッと目を逸らして、自分の髪の毛を手で梳いた。さらりと髪の毛の間を何の抵抗もなく通過する彼女の指をぼんやりと眺める。その所作はさりげなく、それでいて驚くほどに美しかった。

 しかし、その後に続いた彼女の言葉は、ひどく僕を落胆させるものだった。


「あなたの質問の答えですが……」

「ああ……」


 オクタヴィアは柔らかい微笑みをたたえて、頷いた。


「わたしにも分かりません」


 まばたきをする。


「は?」



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