第5話 選択

 そして、次の土曜日がやってきた。


 世界には何の変化もなく、粛々と時は経ち、ぼくは再びあのきらびやかなグランド・セントラル駅の柱の前で、例の教授を待っていた。いつになく構内に人は多くて、まだ六月だというのにいやに暑苦しかった。ぼくは今日は本も持たずに、柱にもたれて人の影を眺めながら、ものを考えていた。天井のシャンデリアがまぶしかった。


 今日ぼくは、全米から集められた天才児ばかりが通う、特別校の説明を受ける。クリーヴランドにあって、仲間たちと寮で生活するらしい。どんな教育が行われているか、どんな子たちがいるか、そこへ行くことが将来どれだけ有益に働くか。そういう話を聞く。ぼくにとっても、いい話なんだろうなとは思う。今行っている普通の公立中学校よりも、きっとずっと気が楽で、楽しいだろう。膨れあがった嫉妬、理不尽な怒りでいじめられることも、きっとなくなる。思う存分、のびのびと暮らすことが出来る。たぶん、何事もなければこのまま、そこへ通うことになるのだろう。これから、幸福な人生が始まるのかも知れない。


 けれど何となく、僕はまだそれをすなおに受け入れることが出来ていなかった。大した反抗心ではなかった。ここ一週間ほどの思索の結果、どうやらぼくには(そして世界には)それほど壮大な可能性は残されていないということがはっきりした。これは明白な事実だ。すでに済んでしまった選択を今さら取り戻すことは出来ない。それに対する抵抗は、限りなく不可能に近い。そして、可能性のない場所に夢を見ることは出来ない。


 それなら時間を有効に使うためにも、この終わりつつある世界の中で、少しでも心地よく生きることの出来る場所に身を置いたほうがいい。安逸なる休息の生レスト・イン・ピース。それがこの世の趨勢だ。そんなことはぼくだって、よく分かっている。この選択がぼくにとって(そして世界にとって)正しい。仮に教授たちの思惑の中へ飛び込むことになるのだとしても、それは決して恥ずべきことじゃない。理屈ではそう分かっているのだけれど。最後の最後、一番底の辺りにほんのちょっとしたしこりが残っている。それだけのことだった。


 


 どこまでも直観的、感情的な疑問だった。理由はない。ぼくにしては珍しいことだった。そんなことでいいのか。理屈じゃないから答えは出ない。ただただ漠然とした、気分の問題だった。それは一種の哀感に似ていた。まるで人が息を引き取る瞬間を見ているような気がした。少しだけ悔しさも混じっていた。ぼくは(そして世界は)、逃げているんじゃないか?


 たとえはっきりと見えないとしても、これっぽっちも想像できないとしても、拓かれるかも知れない可能性に賭けるべきじゃないのか?


 ――それは、君が決めることだ。


 あの男の言葉を思い出した。


 ぼくはふぅ、と息をついて、まぶたの上から眼を押さえた。それから、パズーのことを思った。あの優しい歌の旋律が、胸の内によみがえった。パズーにあって、ぼくにないものとは何なのだろう? パズーに出来て、ぼくに出来ないことって何なのだろう? そんなことばかり考えていた。そんな、十三歳の誕生日だった。


「や。ジャスティン。待たせたね」


 いつもの声が聞こえた。教授は今日もいつもと同じカジュアルな服装で、親しみやすさを装っている。でも実は、駅の手あかのついた手摺りに手が触れる度に、彼が除菌したハンカチで慎重に手を拭っていることをぼくは知っている。彼はぼくに、手を差し伸べた。


「さあ。行こうか」

 ぼくは彼の手を握りかけた。



 その時、視界の隅を、が横切っていった。



 ぼくは息を呑んだ。黒の長髪、伸び放題のヒゲ、汚れた服、黒縁のメガネ、そして、深く鋭い眼。間違いなく、あの日本人のホームレスだった。彼はあたかもどうでもよい群集の一人であるかのように、駅を行き交う人々の中に紛れ込んでいた。足早に駅の奥、地下へ向かう階段へと立ち去ろうとしている。普段なら決して気づかないような、一瞬のすれ違いだった。


 ――次に逢うときが最後のチャンスだ。


 また、あの男の言葉が耳の奥に響いた。


 その瞬間、周囲の雑踏の音が全て断ち切られ、ぼくは自分の思考の中に入り込んでいた。


 これが最後の選択なのだろうか。逃した選択は帰ってこない。彼はそうも言っていた。分岐点は常に一度きりしか通ることが出来ない。取り返しはつかない。今、目の前にはぼくの前途を祝福せんとする立派な人物の手が伸ばされている。他方で、正体の知れないホームレスの男がぼくのそばを通り過ぎようとしている。本来なら迷う余地などどこにもない選択だ。この駅にいる人千人に訊いて全員が同じ答えを返すだろう。しかし。


 しかし、だからこそ世界は閉塞しつつあるんじゃないか? だからこそ世界は、終わりつつあるんじゃないか? 選択の集積が時間であり人生であり歴史であるならば、その結果として終末の現在があるならば、たった一人の感覚に拠った不条理で愚かしい決断が、やがてこの世界を大きく変えるのではないか?


 そうして世界はこれから、始まるんじゃないか?


 混沌と懐疑の中に跳躍し加速するぼくの思考は、次第に一点へと凝集していく。最後に残ったのはこの上なく単純で、そして暖かな、小さく幼い言葉だった。


 ――道を決めるのは、ぼくだ。


 ぼくは教授の手を払うと、背を向けてホームレスの方へと駆け出した。


「お、おいジャスティ……」


 慌てふためく彼の声は、ぼくの背後で人混みの中についえていった。ぼくは、階段を下って今にも去ろうとする男に必死で追いつこうと、全力で走った。人と人の間をかき分け、ぶつかりながら、男の小さな背を追った。そうして、なんとか、ぼくは彼に追いついた。


 ぼくがすぐそばで息を切らしてあえいでいると、男はふと振り返り、ぼくの姿を見た。彼とまっすぐに眼が合った。男には、今日も表情がなかった。ぼくは、何も言えなかった。


 もうどこへ連れて行かれようと、かまわなかった。


 その真っ黒な瞳でぼくを捉えると、彼は前置きもなくいきなり、こう言った。

「こっちだ」

 彼は迷わずぼくの手を取って、階段へ向けて強く引いた。

 ぼくは、彼に続いた。


   *


 彼はそのまま、早足で階段を降り続けた。ぼくも、ためらうことなくついていった。どこのホームへ向かう階段かは、よく分からなかった。向こうから上がってくる人は何人もいたけれど、薄暗いのと急いでいるのもあって、顔はあまり見えなかった。ぼくはひたすら、男の顔だけを見て、階段を降りていった。蛍光灯の光が、流れるように後ろへと消えていった。階段は奇妙に静かだった。


「長い夢の話を知っているか?」

 男は言った。ぼくは聞き返した。

「え?」


「あるところに男がいた。男は名家に生まれ、優しい両親の元ですくすくと育ち、素晴らしい教育を受け、名門校に入学し、父の家の跡を継ぎ、美しい妻をめとり、事業を成功させ、三人の子供を産み育て上げ、国中の人々から感謝され、尊敬され、愛され、やがて成功のうちに歳を取り、大勢の孫に囲まれて静かに幸せに息を引き取った、というところで目を覚ました。男は全てが夢であったことに気づき、不満のあまり大声で泣き出した」


「ハッピー・バースディ」


「そう。人生が始まるとき、人はすべからく泣いている。泣きたくなければ生まれなければよいということだ。だから人々は、この世界の可能性から眼を逸らしてきた」


 男はほとんど走るような早足で先へと進んだ。手を離されないようにするので、ぼくは精一杯だった。いつの間にか、人とすれ違わなくなっていた。


「世界はまだ始まってすらいない。これまでの長く偉大にすら見えた歴史の全ては、優しく暖かな母の子宮の中でゆっくりと育まれていた心地よい胎動の時に過ぎないのだ。幸福と静寂の日々は終わりを告げる。悲しみに暮れる人々の涙と共に、全ては、これから、始まる」


 ふと気づくと、ぼくらは階段でなく、平坦な道を進んでいた。


「君は、泣くのか?」


 男は訊いた。ぼくは正直に、分からないと言った。


 周囲は暗闇に包まれていた。光は何一つなく、けれど不思議なことに、ぼくは自分の姿も、男の姿も、はっきりと眼にすることが出来た。


 ぼくは続けて言った。

「泣くべきだと思えば、ぼくは泣く」


「それが選択するということだ。望むものがあるのなら、君は可能性に手を伸ばすことが出来る。常に、必ず。しかし当然だが、可能性とは心地好いものではない。そこは不安と危険に満ちあふれている、いや、だからこそそれを可能性と呼ぶ。幼子が眼に映るものへ手を伸ばすのは何故だ? 這い回るのを止めて自分の足で歩くようになるのは何故だ? その方が危険だと分かっているのに? 全ては前提から間違っている。危険だから手を伸ばすのだ。不安に向けて歩み出すのだ。君はただ、それを思い出せばいい」


 気づくと、彼方に光が見えた。闇に切り込みが入れられたように、鋭く細い光が向こうから射してきている。あまりに眩しく、強い力を放っていて、ぼくは思わず眼に手をやった。


「必要なものは全て、未だ出逢ったこともない父と、君と一つだった母によって、すでに与えられている。あとは残された可能性へ向けて、君が歩み出すのみ」


 そして男はぼくの肩を掴むと、光へ向けて押し出した。


「さあ。これが、君の望んだ世界だ」


          *


 ぼくは、グランド・セントラル駅から外へと飛び出していた。


 表口だった。空は晴れ上がり、青く広がり、ビル群は傲慢なほど静かに佇んでいた。ニューヨークの街路には、車が一台も見当たらなかった。人の姿も見えなかった。交通信号トラフィック・ライトは光を消し、街は途方もない静寂の中にあった。ぼくは何も言わず、ふらふらと歩き出し、何もない道に出て、ゆっくりと空を見上げた。


 突然、青空を突き抜けて二機の戦闘機が向こうから飛んできた。


 耳が痛くなるほどの低空を、彼らは破壊的な勢いでやって来た。ぼくは思わず両耳を塞ぐと、戦闘機の行方を見た。あっという間にぼくの頭上を飛び越えていったその二機の戦闘機は、そのままわずかに回転しながら駅舎の上を通り過ぎ、その向こうに建っている、尖塔型の美しい一本のビルの中腹に激突した。


 ビルは爆発と共に砂塵を撒き散らして、地へ潜るように姿を消していった。


 ぼくは振り返り、遠方の駅舎の中を見た。駅舎の中は、薄い緑色の光に包まれていた。天井から下がっているはずのアメリカ国旗は、ペンキをぶちまけたような奇怪なマーブル模様の旗に変わっていた。大勢いたはずの客も、ただの一人も見当たらなかった。駅舎の中央には、あの男がたった一人で立ち尽くしていた。ぼくは彼を見た。


 男は髭を生やした口元から歯を見せて、実に楽しげに笑っていた。男の見せる、初めての笑顔だった。そうして男は口を開いた。ずいぶん距離が離れているはずなのに、ぼくにはいやにはっきりと、男の声が聞こえた。男はこう言った。


「ハッピー・バースディ」


 そして男の声が聞こえたかと思うと同時に、グランド・セントラル駅は、背後のビル倒壊の余波を受けて唐突に、内側へ向け轟々と崩れていった。ぼくは道路の中央へと飛び退いた。男は崩れ落ちるがれきの中に飲まれ、たちまち姿が見えなくなった。最後に、男の不敵な笑みだけが、眼に焼き付くようにして残った。駅舎は消滅した。土煙が辺り一帯に広がった。ぼくは道路に座り込んで、その様を見つめていた。


 立ち上がるとぼくは砂を服から払い、それから、道の左右を見た。アスファルトのあちこちに、大きくヒビが入っていた。道に面した店のショウ・ウィンドウのガラスはどれも割れて、中のマネキンは、力なく倒れていた。ずっと遠くまで視線を移していくと、道の所々には、横転した戦車が転がっていた。いずれもすっかり錆び付いているようだった。ぼくは次に、視線を上へ向けた。あるビルの半ばには、大型のディスプレイがあった。ディスプレイにはバチバチと明滅しながら、どこかのニューススタジオの映像が映っているようだった。キャスターは、冷静な顔で何かを読み上げているように見えた。けれど音声はなく、何を言っているのかは全く分からなかった。


 よく見れば、周囲のビルも様子が変わっていた。煤け汚れて、崩れかけているような部分もあった。中にはツタが生えているものすらあった。壁に長いツタと草葉が這って、一面を覆っているものもある。ほとんどの窓が暗くなっていたけれど、時折、電気が点いているところもあった。ニューヨークは廃墟になっていた。ぼくは道を歩き出した。


 まっすぐ進んでいくと、遥か前方に、何故か大きな樹が見えた。その大きさはただごとではなかった。そこいらのビルよりもよほど大きく、まるで一つの山のようだった。樹はニューヨークの中央で、天に向かって高々と伸びている。脇のビルは押しのけられて、傾いでいるように見えた。大きな陰を地面に作りながら伸びやかに広がった枝についている、青々とした無数の葉の群が上空の風に悠々と揺れている様子が、ぼくの眼にはよく見えた。あとでそちらへ行ってみよう、と思った。


 天を再び見上げてみると、昼間だというのに月と星が出ていた。どれもはっきりと、その姿が見えた。微妙にぼくの知っている星の配置とは異なっているような気がした。それに、月が異様に大きく見えた。クレーターや海の一つ一つが肉眼で見えるほどに、地球に迫ってきていた。ぼくは若干の恐怖を感じた。月が遠く離れていたのは、怖れを感じさせないためだったのだと、ぼくはその時初めて知った。月は、醜い顔を見せつけているかのようだった。目を凝らしてみると、月の直径に沿ってまっすぐヒビが入り、そこから全体が、上下に少しだけずれているように見えた。 


 どこかでかたかた、という音が聞こえた。ぼくはそちらを向いた。見ると、小さな戦車が、ビルの合間の道の先へ向けてのんびりと走っていた。ぼくはそれを、じっと見つめる。


 ふいに戦車は、がくんと前のめりに傾くと、道の途中で瞬間的に姿を消した。ぼくはそちらへ向けて、走り出した。


 戦車が消えたところで、ぼくは脚を止めた。それは消えたのでなく、落ちたのだった。道路は途中で消滅して、そこから先は何もなかった。そこで街は、切り立った崖になっていた。ぼくは崩落したようになっている道路の端から顔を出し、崖下を見下ろした。


 崖は、何千メートルも下まで延々と続いていた。ごつごつとした岩肌が露出して、霧か雲か分からない白いもやが漂っている。電気やガスの管が途中で切られて、半端な姿を見せている。下水道もそこで分断されてしまっているので、中から大量の水が、滝のように下へ向けてどうどうと流れ落ちていた。ぼくはずっと下を見つめた。


 風が吹き、霧が晴れた瞬間、一番下にきれいな湖と森林がどこまでも広がっているのが見えた。その向こうまで見ると塔が幾本か建っていて、さらにその向こうに、海のようなものが見えた。海は光を照り返し、輝いていた。海は地平線まで広がっていた。


 ぼくは崖の端に立った。両手を広げ、胸を開き、澄み切った空気を吸い込んだ。清純な瑞々しい力が、ぼくの身体を満たした。世界は美しかった。ぼくは泣かなかった。世界は可能性に満ちあふれていた。ぼくは生きるということと、これからするべきことを全て理解した。

 崖の端から世界の果てを見つめて、ぼくは思った。


 ビギニング・オブ・ザ・ワールド。

 物語はここから始まる。

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世界の終わりのための序奏 彩宮菜夏 @ayamiya_nanatsu

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