第4話 ウサギのランディ

 明くる日曜日になってもぼくの気は晴れなかった。朝から頭にもやがかかったような感じだった。久しぶりに寝坊しなかったからママは少しだけご機嫌だったけど、ぼくは釈然としない気持ちのままでいた。何をしていてもぼくの眼はここではない別の場所を見ていて、ぼくの身体はここではない別の場所にあった。ぼくは囚われていた。あるいはぼく以外の全てが何かに囚われていた。集合的にはそれで正しい。


 頭の大半はこの非言語的でカオティックな考えの中に突っ込まれていたので、何を訊かれても頭の残りの部分で処理的に応えてしまう。いつの間にか昼食を食べ終わり、ぼくは膝を抱えて、ソファの上にいた。ママが昨日は何を話したの?と尋ねた。ママがあのセッションに関心をもつなんて珍しいなと思った。ぼくは、来週のセッションで天才児向けの国立特別教育校の説明を受けることになったんだ、と応えた。その後も、夢うつつのままでしばらくぼくは返事をしていた。それからふらふらと玄関へ向かうと靴を履き、外へ出た。


「あら、じゃあその学校が、いいお誕生日プレゼントになるわね」


 ドアが閉まる間際に、追いかけるようにしてそんなママの声が聞こえた。誕生日? 一瞬考えて、ようやく思い出した。来週の土曜日は、ぼくの記念すべき十三歳の誕生日だった。


 近所の通りを独りで歩きながら、ぼくは昨日あった出来事についてずっと考えていた。あの男が何者かなんてそんなの分かるはずもない。たぶん彼の言っていたとおり、ただのホームレスなのだろう。可能世界論に多少造詣が深い。問題はそんなことではなかった。? それって、一体どんなものなのだろうか。ぼくにはさっぱりイメージすることが出来なかった。この世界に残された可能性? 何だろう。


 顔を上げて目の前の通りの様子を見てみると、いつものように雑然としていた。ボロいトラックががたがたと揺れながら走っていき、途方もなく大きな声で笑い合っている露出過多なお姉さんたちがいた。雑貨屋のおじさんはお客の相手もろくにせず、テレビでフットボールの試合を見て昼間からビールを飲んでいる。集合住宅の脇を通り過ぎると、三階の窓からどこかのおばさんの血管が千切れそうな怒鳴り声が響いてきてぼくは縮み上がった。どこもかしこも奇跡的なまでにいつものままだった。ぼくにとっての世界は実のところこんなところで完結していて、それ以上もそれ以下も想像できなかった。あの男との議論みたいなものは何時間だって続けられるけど、それは論理の上のことに過ぎない。いざ世界の可能性について現実に思い浮かべてみろ、と言われても、何も出て来なかった。


 歴史を勉強すると昔の人たちは、世界を変えようと本気で立ち向かい、命を賭し、そして死んでいっている。ぼくにはそれが、ずっと不思議に思えてならなかった。その頃の彼らは間違いなく、世界の可能性に夢を見ることが出来た。強く、本気で。そこには命を賭けるだけの価値があった。今、ぼくらにそんなことは思いも寄らない。世界を変えようとする奴なんか、どこにもいやしない。必要がないのだから仕方ない。世界中を見廻したって、そもそもそんなものを求めている奴がどこにもいないのだ。


 そうだ。昨日の問題にしても、きっと結局のところそこへ行き着く。今、ぼくは何をすべきか。いかにして生きるべきか。。少なくとも、生きるという言葉に動的な意味が含まれている限りにおいては。それが結論だ。今の世界は過去の記憶にひたすら固執し、無限回の再生産を望んでイモムシのようにもがいている。そんな世界で、果たしてどんな生き方があるというのだろう。床に置かれた時計のように、ただ淡々と在り続けて時を刻む。それしかぼくらに生きる道はない。それを生と呼ぶのか、ぼくにはすこぶる疑問だ。だからぼくらには、生きる道などない。どこにも、欠片も、ない。だからぼくには、可能性に向かって拓けた世界など、想像することすら叶わない。つまるところ、そういうことなのだ。


 世界はすでに終焉へ向けて秒読みを始めている。

 抗うすべはない。

 ぼくはゆっくりと、息をついた。


「ジャスティン!」


 突然呼びかけられて、ぼくは眼を見開いた。足元を見ると、小さくて白いものがまとわりついていた。彼女はケチャップのついた口でニッコリと笑った。近所に住む、五歳の女の子のリズだった。この辺りにしては珍しく白人の子で、くるくるしたきれいな金髪だった。今日もウサギのぬいぐるみを手にしている。幸福というものを象徴するとちょうどこんな姿になるんじゃないかな、という具合だった。


「なにしてるの?」


 彼女は舌足らずに尋ねた。世界が終焉を迎えるという結論が出たよ、と伝えるのもどうかと思ったので、散歩、と簡単に応えた。するとリズは、またニーッと笑った。


「ごいっしょしてもいい?」


 もちろん、とぼくは紳士的にうなずいた。ぼくの知る限り、ここら一帯で最も上品なレディが彼女だった。


 ぼくらは手をつなぎ、昼下がりの通りをワルツのリズムで歩いた。そうしてぼくは、彼女の話に耳を傾ける。リズはどんなことでも一生懸命に話してくれる。だからぼくも、要所要所で相づちを打ち、きちんと聞く。誠意を込めてくれる相手には、こちらも必ず誠意で応えるべきなのだ。それに、彼女の意見はいつも大体愉快だった。


 そのまましばらく歩いていると、ぼくらは交差点に突き当たった。どこへ行く当てもなかったので、リズにどっちへ行く?と訊いてみた。リズは、さっきから引きずっていたウサギのぬいぐるみに顔を寄せて、何事か相談している様子だった。それから、ひだり、と応えた。その先も、曲がり角へ来る度に、みぎ、ひだり、まっすぐ、とウサギの彼は適切な判断を下してくれるようだった。ぼくにもそんな素敵な賢者がいてくれればな、と少しだけ思った。


 ふと訊いてみたくなって、ぼくはリズに尋ねた。


「リズは将来、何になりたい?」

「しょうらいって?」

「あーええと、大人になったら」


 ホントにそうなのかな、と首を傾げながら、ぼくは応えた。リズは言った。


「あのね、ママがね、およめさんにはなっちゃダメだってゆってた」


 確か、この子の家は母子家庭だった。もちろんぼくが口を挟む筋合いじゃないけれど、でももうちょっと何かこう、あるだろう、と思わずにはいられない。非論理的な話だけど。その母親の言葉がいつの日か彼女の桎梏にならないことをひそかに願いつつ、さらにぼくは問うた。


「リズがなりたいものはないの?」

「なんでもいいの」


 するとリズはすぐにそう言った。なんでもいい?


「あのね、ほんやさんとね、けーきやさんとね、おはなやさんがあったの。でもぜんぶおもしろそうだから、なんでもいいの」


 彼女はそう説明してくれた。なるほど。至極納得のいく考え方だった。


「ジャスティンは?」


 今度はそう問い返された。そして案の定、ぼくは応えに窮した。


 なりたいものなんて小さい頃からずっと、何もなかった。どちらかといえば、なりたくないものを挙げた方が早かった。教師、弁護士、医者、政治家。いくらでも出てくる。でも、なりたいものはなあに、と大人に尋ねられても、ぼくはうつむくばかりだった。普段はどんなことでもいくらでも考えることが出来る頭が、この時ばかりはストップしたまま、何も思いついてはくれなかった。そして大人たちはそんなぼくを見ると、いつだって苦笑して、きっとすぐに夢は見つかるよ、と訳知り顔で言って、頭を撫で、そうしてどこかへ行ってしまうのだ。必ず。


 なりたいものなんて、何もないのに。


「ジャスティンは、なんにもならなくていいのよ」

 ふいにリズは、歌のように軽やかな調子で、楽しげに言った。

「ジャスティンは、もうステキよ」


 ぼくはきょとんとした。リズはぼくの顔を見上げ、得意げにふふんと笑った。


 その後は二人して、近所の小さな公園で遊んだ。ベンチに座ってまたお話をし、そうしているうちに日が陰ってきたので、ぼくらは帰ることにした。とても、よい一日だった。


 行きに通った道を、ぼくはリズと一緒に歩いた。夕陽はゆっくりと傾き始めていて、道には紅く縁取られた影が二つ、長く伸びていた。思い出のような時間が過ぎていった。その間も彼女はずっと、ウサギのぬいぐるみを大事そうに引きずって歩いていた。


 彼女の家の前まで連れてきてあげると、別れ際にぼくは、そのぬいぐるみを指して言った。


「その子さ」

「ランディ?」


 リズは左手のぬいぐるみを持ち上げる。ウサギのランディはなすすべもなく、世界タイトル戦を終えたチャンピオンのように彼女の手にぶら下がっていた。ぼくは笑って言った。


「彼、道に詳しいんだね。行きに、ずっと教えてくれてたから」


 すると彼女は、ううん、と首を振った。

「あのときは、ジャスティンがいってたこと、おしえてあげてただけよ。ランディはうんうんっていってただけ。みちをきめてたのは、わたし」


 そう言うと、身体を翻してリズは家の玄関へと駆けていった。


 虚を突かれたぼくは、夕方の道に一人取り残された。


 ポケットに手を突っ込んで、ぼくは下を向きながら家に帰った。なんだか何も考える気が起きなかった。ぼくの家の散らかった玄関先には、鳩が数羽集まって、地面に散らばった何かを熱心に食べていた。ぼくが近づいていっても飛び立とうとすらせず、いそいそと横に逃げていってはまた一生懸命ついばんでいた。ぼくは黙ったまま、重いドアを開けた。

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