第3話 ホームレス
五日後、ぼくは無事マンハッタンのグランド・セントラル駅の人混みの中にぽつねんと立っていた。Tシャツの上にだぼだぼのお下がりの上着。それにジーンズのパンツ。駅の中では数えきれないほどの人たちが肩が触れるくらいの間近ですれ違っていて、それでいながらみんな、誰よりも孤独だった。あと、この街もまた変な臭いがした。間違っても深呼吸なんかしない、大量の人と物から発せられる、含有物不定のカオティックな臭い。立ってるだけで酸欠になりそうだった。
ぼくは周囲を見廻した。一応昨日も確認のために教授から電話があったみたいだけれど、情報は全部ママ経由だから判然としない。初期情報の85%くらいは失われている。でも、ぼくが直接電話を取ることはママは許せないみたいだった。無理もないと思う。
こんな事ばかり言っているとまるでぼくがママのことを嫌っている、あるいは疎んじているように聞こえるかも知れない。誤解されたくないけれど、ぼくはママのことを愛している。うんざりするほどアメリカ的な言い回しだと分かってはいるけれど、それでも愛している。ママだけじゃない。毎日石のように黙ってよその家のテレビを直してるパパのことも、ハンバーガーショップで適当に野菜をざく切りにしているお兄ちゃんのことも、二ヶ月ごとに彼氏を取り替えては泣いたり笑ったりを繰り返しているお姉ちゃんのことも、三十年後のガンの可能性を顧みず果敢に指人形を口に入れるかわいい弟のことも、みんな心から、愛している。そればかりか、ぼくはきっとこの世界の全てを愛している。だからこそ、世界からの冷たい仕打ちにうめき、絶望し、それでも辛うじて生き延びているのだろう。
約束の待ち合わせの柱の前まで、騒音の中を押し合いへし合いしながらなんとかぼくは到着した。筋力でも付けるかな、と自分の細い腕を撫でながら、ちょっとだけ思った。それから、肩掛けバッグの中から『資本論』第一巻の恐ろしく分厚いペイパーバックを取りだした。千ページを超える本を読むという至福を味わうためだけに買ってきた本だ。表紙を開く前にふと、背後の柱に掲げられた化粧品の広告を見た。フルカラーで高級紙に印刷された半裸のモデルが、セクシーなシャドウを塗った眼差しで駅を行き交う無関心な人々を見つめ、何かを言いかけたようにぽってりとした唇を半開きにしていた。ぼくは嘆息して、前に向き直った。すると、目の前に髭を生やしたおじさんが立っていた。
ぼくは訝かしんだ。髭とはいってもあの教授とはまるで違う。長い髪も髭も真っ黒だった。肌も浅黒く(ぼくもだけど)、黒縁眼鏡の奥の小さな眼も黒い。アジア人のようだ。服装はといえば垢染みたジャンパーにすり切れた穴だらけのジーパン。多分違うだろうと思ったけれど、念のためぼくは尋ねた。
「……MITの人ですか?」
するとおじさんは、意外なほど深く落着いた声に流暢な発音でこう応えた。
「同じようなものだ」
「本当は?」
「ホームレス」
面白くもなさそうにおじさんは言った。いや、おじさんだと思ったけれど、もしかすると若いのかも知れない。アジア系の年齢はよく分からない。何となくぼくは訊いた。
「ひょっとして、日本人?」
「ご明察」
簡単に彼は応える。眼をほんの少し見開いて、多少は驚いたようだった。中国人と日本人と韓国人の区別は普通付かない。ぼくだって勘で言っただけだ。ぼくは続けた。
「お金なら、ありませんけど」
「マルクスを抱えている少年に金をせびるほど、私は無粋ではないさ」
彼は即座にそう返した。かなり頭は切れるようだった。彼はその小さな目をわずかに細めた。ぼくはじっと彼を見上げる。けれど、会話はそこできれいに途絶えてしまった。彼は何も言わない。ぼくも言うべき事は何もない。無数に折り重なる雑踏の機械的な靴音に取り囲まれて、ぼくらは永遠にここへ見捨てられたかのように思えた。
「……君は、分かっているのか? 自分が重大な岐路に立っているということに」
ホームレスのおじさんは、ゆっくりと口を開いた。ぼくは首を傾げた。
「岐路?」
「そうだ。人生には常に無限に分岐点が存在する。人は無意識のうちにそれを選択し続ける。当然ながら分岐には大きなものも小さなものも存在する。一杯のコーヒーを逃すような選択もあれば、世界を破滅へ追い込む選択も、一個人の人生の中に存在し得る」
「今ぼくは、人を待ってるだけですけど」
「それは社会的に定義されただけの局所的意義だ。選択そのものの総体的性質には関係ない」
彼は両の手をポケットに突っ込んだままそう切り返した。それは確かにその通り。しかしぼくたちは、バタフライ・エフェクトの話をしているのか? そもそも彼は何者だ? NYのホームレスくらいになるとみんなディオゲネスになれるのだろうか。彼は話を続ける。
「そして多くの場合、我々は選択に失敗する。選択の価値に気づくことが出来ず、無用な分岐に足を踏み入れ、時間を浪費し続ける。時間とは即ち選択の蓄積のことだ。また天才というのは要するに、選択に成功し続ける人間のことなのだ。分かるか?」
ぼくは苦笑をこらえきれなかった。だとすればぼくは、天才でも何でもない。可能な限り全ての選択にしくじり続けて、いつの間にやら泥沼に胸まで浸かっているのだから。当たり前だ。ぼくが評価されているのは今現在の時代のアメリカ社会において要求される類のスキルを、たまさか子どものくせに他人よりも過度に持ちすぎているために他ならない。そんなものが天才のわけがない。結果と原因の取り違え。単にちょっとばかり見た目のよいベアリングを拾って、彼らは喜んでいるだけのことだ。
そうしてそこまで考えたとき、ぼくはハッとした。もしかすると彼はまさしく、世界の可能性のことを話しているのではないか? 選択とは、存在している可能性を一つに決定していくことだ。それならば、ぼくがずっと考えていた問題と、彼の語りは直結している。無数に有り得た可能性を愚かしい選択によって台無しにし、世界を終焉へと追い込む人間たち。彼はぼくを、その底知れない瞳でじっと見ていた。自分の頭が高速で回転し始めるのをぼくは感じる。どうやら、彼は適当にあしらってよい種類の人間ではない。ぼくは慎重に、こう問うた。
「……この世界に有り得たはずの可能性についても、同じことが言えるということ?」
「その通り。正確に言えば個々の人間に与えられた選択可能性とは、世界総体の選択可能性の一部ということになる。世界と個人を分断することが既に誤謬なのだ。我々の選択が世界を決定していく。一つの例外もない。無限人による無限回の決定によって時間、即ち歴史は構築されている。この場合、サモアの一人の少女とナポレオンの間に優劣の差はない」
彼は淡々と述べた。不思議なくらい無表情だった。アジア人だから表情が掴めないのだろうか? 違うだろう。ぼくはもうすっかり真剣になっていた。
「でも、可能性というのは次第に減少していくものではないの? これは情報量のエントロピーの問題だよ」
「まあ、そうだ。共産主義の例を出すまでもなく、大半の選択は不可逆的だ。やり直しは効かない。だからこそ選択なのだ。どんなに素晴らしいスウィッチが目の前に用意されても、与えられた人間がそれを破壊すれば元も子もない」
ぼくは背中のポスターが気になって、『資本論』をバッグの中に戻した。彼は続けた。
「大切なのは結局、選択するのは誰か、という問題なのだ。確かに、残されている大きな可能性は少ないかも知れない。大半の分岐点は破壊し尽くされて、今この時代に生まれこれからを生きる君たちには残り滓のような世界しか存在しないのかも知れない。だとしてもこの世界が厳然と存在し、君たちが生きている限り、人生には無数の分岐点が用意されている。ならば同時に、この世界にも選択肢が存在し、可能性が残されているということなのだ」
ぼくは彼の言葉を確かに理解した。一点の曇りもない明晰な論だった。彼の言っていることは間違いなく正しい。しかし現実に適用するには、一つだけ弱点がある。可能性の大小をぼくたちは判別できないということだ。目の前の道を右へ行くか左へ行くか、それによってどのような結果が生じるのか、彼の論旨に従えばぼくらは予見することが出来ない。だったら、これからもこれまでと同じようにぼくらは選択に失敗し続けるだけのことだ。これは机上の空論なのだ。
そうやってぼくが問題点を指摘しようとすると、突然彼はぐっと顔を近づけてきた。首を前へ突き出すようにして、ほとんどキスの距離までそのヒゲ面を接近させる。ぼくは息を呑んだ。
「例えば、こんな選択が在る」
彼は聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声でそう言った。眼は見開き、ぼくを強く捉えている。ぼくは動くことも出来ずに、つい視線をよそへ逸らせた。彼はポケットから手を引き抜くと、その長く節くれ立った指をピンと立てた。
「一つ。このままのうのうと駅構内でぼうと突っ立って待ち、MITの抜け作どもに取り囲まれてオモチャにされる。彼らの権威欲と自己満足のために君の貴重な時間は浪費される。これは確実な話。世界は今までのまま何も変わらず、地獄のような閉塞感が太陽を覆い隠して全てはフェイドアウトしていく」
耳元で囁くように彼は言った。ぼくはじっとその意味について考えていた。
「二つ。私と共に行く。私が何者か君は分からない。知っているのは日本人だということだけ。どこへ連れて行かれるか、何が起こるか、君には何も予測が付かない。もしかしたら私は少年を愛好する変態性欲者で、君はレイプされるかも知れない。この街ではありがちな話だ。しかしそこには確定的でない可能性が残されている。君はそこに賭けることが出来る。それだけでもこの話には価値がある。そしてさらに、世界は君の選択によって変わる」
「……変わる?」
「さっき話したとおり。君の選択は即ち世界の選択だ。君の選択によって世界が
――さあ、どうする?
彼は最後にそう囁いた。ぼくは動くことが出来ない。周囲の人々はぼくらが見えないかのようにどこかからやって来て、どこかへと去っていく。彼らには顔がなく、声もなかった。彼らもまさに今、選択を続けているのか? 失敗を続けているのか? 例えばぼくらに気づかないことによって? そしてそんな失敗の群に蟻のように集られ蝕まれて世界は瓦解の一歩手前まで追い込まれているのか? 考え得ることだ。それに対して、ぼくは何をすることが出来る? どう生きることが出来る? 問いかけが頭を渦巻き、ぼくは身動きが取れない。
バカらしい問いかけかも知れない。その通り、ぼくはベアリングの一つに過ぎない。しかしそれは、絶望すべきことなのか? ベアリングの一つだとすれば、すでに逃げるという選択肢はないのだ。文脈から抜け出すことは誰にも出来ない。その時、ぼくに何が出来る?
さあ、どうする?
「やあ、ジャスティン」
右方向から緊張感のかけらもない声が聞こえた。ぼくは現実へ戻ってきた。ホームレスの男はフンと鼻息を洩らすと、早口にこう言った。
「次に逢うときが最後のチャンスだ。逃した選択は帰ってこない」
身を翻し、男は去っていった。彼の背中は人混みの中にたちまち紛れ、消えてしまった。ぼくはもうそこにはない彼の身体を静かに見つめ、動かずにいた。MITのヒゲの教授は貼り付けたような画一的な動きで頭をかき、それから心配そうに聞こえる声で尋ねた。
「いやあ遅れて済まなかった……ところで、今の男は?」
「トルコ語でどこかの民謡をつぶやいていました。結構面白かったな」
「そうか、危ないところだったね。気を付けたほうがいい。この街には、頭のおかしい輩も大勢いる。君に悪影響を及ぼすよ。本当はお母さんに送ってもらった方がいいんだけど。今日はね、実は君にとっていいニュースを聞かせられそうなんだ……さあ、行こうか」
そう言って彼はぼくに手を差し出した。彼は決して、ぼくの手を自分から握ろうとしない。彼はそれをぼくに対する一種の敬意のようによそおっている。彼自身そう思っているかも知れない。けれどぼくはそこに、彼のぬぐいがたい人種差別意識を読み取る。そう、提示されるメッセージの形式はすべからく固定的だ。それをいかにして読み取るか、誰が読み取るか。結局のところ、全てはそこにかかっているのだ。ぼくは教授の手を強く握った。彼は少しだけ驚いた顔をした。それから、ぼくらは歩き出した。
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