第2話 夢想と現実

 時間になると、押し出されるようにしてぼくはお兄ちゃんお姉ちゃんと一緒に家から飛び出した。スクールバスの乗り場まで走っていく途中、ぼくはふと振り返る。愛すべき小さな我が家。築三十何年とか。白いペンキもほとんどはげている。ぼくが生まれたときに引っ越したらしいけど、「すでに手遅れな感じだった」とお兄ちゃんが何年か前に言っていた。お兄ちゃんが高校生で、まだぼくと仲がよかったころの話だ。今お兄ちゃんは近所のウェンディーズでレタスを切る仕事をしている。


 ギリギリのところでバスに飛び乗ると、ぼくは隅っこの席に着いた。バスの中は賑やかだけれど、中学に入って早々のテストであんなことになったものだから、もう誰もぼくの近くには座ってくれない。これでも小学校グレイド・スクールでは結構モテてたのに。あの頃好きだったシャーリーに「髪は長い方が似合うと思う」と二人きりの時言われて、今でも首筋を隠すくらいに伸ばしたままだ。あの後クラスの男子の半数が髪を伸ばし始めたのはもはや呪われた記憶以外の何ものでもないけれど、未だに何となく惰性で長髪のままにしている。


 ポンコツバスの曇った窓から、灰色に曇った空と灰色に塗りつぶされた街並みを見る。懸命に鮮やかそうに見せかけた店や看板が立ち並んでいた。でも、今のぼくには世界の全てが灰色だった。ほんの少し前まではそうじゃなかった。世界は夢と可能性に満ちていた。明日にでも貿易船に無断で飛び乗り、自由の女神に見送られてどこへとも知れない国へ旅立つことも出来た。天才水泳選手としてオリンピック強化チームに史上最年少で入ることも不可能ではなかった。間違ってクラスの女の子とエッチして妊娠させちゃったりすることも、ないことはなかったかも知れない。そして人生は無限大に変化する。そんなこと起きたって嬉しくも何ともないだろう、と思われるかも知れないが、実現するかどうかが問題ではないのだ。大切なのは、可能性が残されている、ということ。今もしそんなことをしようとすれば、たちまちとっつかまえられて今以上に不自由などこかへ押し込められた挙げ句、そこで一生を終えることになるだろう。まあ、現状だってそう違いはないんだけれど。とにかく、ぼくにありえた無数の可能性は、善意ある教授たちによってきれいに閉ざされた。ピンク色の妄想のヴァリエーションを中学生から奪った罪は重い。


 雲は億劫そうに海の方角へと流れていく。その向こうに何があるか、ぼくは知らない。この世界に何があるのか、ぼくは何も知らない。メキシコ系移民の子どもなのにメキシコにも行ったことがないのだ。かといって、全力で自由の国アメリカにコミットできるほど素直なたちでもない。ぼくらは自由だ!って年中言ってる連中が自由なわけないじゃないか。それにぼくは、少なくとも今、不自由だ。それが重要だった。子どもだから仕方ない、なんて理由はいらない。今、自由じゃなきゃ意味がない。ビルの高層階でオジサンに囲まれて君は天才だ、なんて言われても、全然嬉しくない。幼稚なわがままだってことは充分分かってる。でも今のぼくに必要なのは、こんな周囲の誰にも望まれていないのにやたらくるくるとよく廻る脳ミソなんかその辺に捨てて、どこへともなく旅立つことだった。二百年後の四月一日が何曜日なのか瞬時に分かる計算力も、少数の文例から外国語の文法構造を導き出す能力も、過去に読んだ本のページを一言一句残らず暗記している記憶力も、いらない。そんなものを褒める人がいない、どこか知らない遠い場所へ行きたかった。そんな場所、あるのかどうか知らないけど。


 いつもこんな時思い浮かべるのは、物語の主人公たちだった。彼らはいつも、鳥よりも自由だった。ぼくみたいなしみったれた才能なんかなくても、誰からも褒められなくても、彼らはどこへだって行くことが出来た。自分のやりたいことを、望むやり方で出来た。といっても、かわいそうな子に見せかけて血筋と才能に恵まれたハリー・ポッターなんか大嫌いだった。ぼくが一番好きなのは、そう、ちょうど四年前、友だちの家で開かれたバースディ・パーティでみんなと一緒に見た、ハヤオ・ミヤザキの「キャッスル・イン・ザ・スカイ」だった。


 最高だった! 映画なんか観るとどうでもいいことばっかり考えて頭がいっぱいになるぼくが、頭の中空っぽで身じろぎもせずにずっと観ていた。ポップコーンを一口も食べなかった。パズーとシータは、自分の手で道を造り出し、自分の脚で世界を歩んでいた。他のアメリカ製のアニメ映画は結論がオトナとコドモのココロのフレアイ、みたいのにたどり着くのがほとんどで反吐が出る感じだったけど(あの押しつけがましい政治臭さ!)、あの映画は違ったのだ。大人たちは救いがたい愚か者で、子どもは何でもすることが出来た。最後のシーン、フラップターに乗った二人が行く先も分からないまま空の向こうに消えていく姿を見たとき、ぼくはこの上なく幸せになった。そうでなくちゃいけないんだ。最後に親方や家族の元に帰るんじゃない。物語はそこから、これから始まるのだ。ぼくは両手を上げて叫んだ。周りの他の子たちが妙に冷めているのも気にならないくらいだった(彼らはカッコイイモンスターもスーパーヒーローも出て来なかったから気に入らなかったらしい)。その年の誕生日に、ぼくはママにねだってヴィデオを買ってもらった。飽きることなく何度も観た。普段哲学書や長大な古典文学(ディケンズなんかはいいと思った)しか読まないぼくが珍しく子どもらしい素振りをみせたので、ママはたいそうご機嫌だった。しかし、そんなことも気にならないほどぼくは物語に熱中した。世界は七色に輝いていた。そして物語が終わった瞬間、ぼくは現実という落とし穴に突き落とされた。この穴は深かった。穴の向こうには無限に広がる世界が見えているというのに、抜け出す手段はどこにも見当たらなかった。フラップターを作って穴から飛び立てないものかと綿密に図面まで引いて当時のぼくは検討したけれど、現在の技術力ではあのサイズの物体を羽ばたきで飛ばすのはどう考えても不可能だった(たぶんあの世界では空気の粘性が異なるのだと思う)。とにかくあの映画でぼくは穴の向こうへの夢と、若干の航空・流体力学の知識を得た。この現実が穴だ、ということが分かっただけでも大した収穫だった。きっと、この世界は途方もなく大きな穴に囚われているのだ。丸ごと、全部。ちょうどアインシュタインが思い描いた巨大な質量によって曲げられる時空間の図のように。そしてその穴から抜け出したとき、初めて世界は始まるのだ。今までの世界の全ては、ほんの序奏に過ぎない。ビギニング・オブ・ザ・ワールド。


 バスが爆発するような音を立てて停車した。舌を噛みそうになる。あの映画以来ニホンに興味を持って、でも何の本を読んだらいいか分からなかったからダイセツ・スズキのゼンの本を何冊か読んだ。そのせいでニーチェが浅薄に感じられたのかも知れない。確か彼も東洋思想に影響を受けていたはずだ……と考えながら席を立った瞬間、後ろから駆けてきたステファンにノートで後頭部をはたかれた。ぼくは前につんのめる。


「バカになっちまえ!」


 ステフは叫んで、他の男の子たちと肩を組みながらゲラゲラ笑ってバスから飛び出していった。おかげでありがとうを言いそびれた。バカになる? 望むところだ。ナップザックを背負い、口をひん曲げてぼくはバスの昇降口に立つ。すると背後から声を掛けられた。


「頑張れよ」

 振り返るといつもの運転手のおじさんだった。三十代、おっとりした目付き。

「楽しもうと思や、何だって楽しめるさ」


 ハンドルにもたれたおじさんは、いかにも人のよさそうな笑みを浮かべて言った。ぼくは頷いた。忠告の内容よりも、おじさんの声を聴けたことの方が嬉しかった。忠告ってそういうものだと思う。内容よりも、誰が言うかの方が肝心だ。おじさんは手を振った。ぼくは笑顔で手を振り返し、そして後ろから来たリカルドに突き飛ばされてバスの外に出た。そのままけつまずいて、ドサリと地面に倒れ込む。外の空気は今日も窒素化合物NOx硫黄化合物SOxやケチャップや化学調味料が入り混じった奇怪な臭いを漂わせていた。レイチェル・カーソンの忠告は結局誰も聞きやしなかった。つまり、誰が言うかよりもさらに肝心なのは、誰に言うか、ということなのだろう。


 ぼくはゆっくり起き上がると身体から砂を払い、ポケットからメガネを取り出して掛けた。遠視気味なのだ。細かいかすり傷の付いたレンズの向こうには、ススで汚れた中学校の校舎が見えた。今日もどす黒い怨嗟の炎と絶望の金切り声を上げて、地獄の学舎は佇んでいる。MITの教授にも言ってやればよかった。あなたたちがどれだけ熱を上げて教育学を研究しても、そんなものどこにも還元されてやいませんよ、って。学校制度は百年前から根を生やしたように微動だにせず、四十年近く前にスキンヘッドの素敵なゲイのフランス人が考えたことすら、関係者の間ではろくすっぽ共有されていないのだから。


 そう。世界はまるで先に進んでいない。無数に有り得た可能性を片っ端から鉄球を振り回して潰しながら、人間は世界を穴ぐらの中へ閉じこめようと眼を血走らせているのだ。そして今少しずつ、最後の最後の可能性が閉ざされようとしている。閉塞、あるいは終焉。毎日学校でウェブのニュースを見ていると、そんな気がする。外から飛び込んでくる目映い光が、静かに絶たれようとしている。そうして、人間は昼も夜もない庇護の下の安息と永遠の生命を得るのだろう。つまり、胎児への回帰。そんな気がしてならないのだ。


 つまらないことを思いながら、うつむいたぼくは中学校の門をくぐった。

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