世界の終わりのための序奏
彩宮菜夏
第1話 毎朝繰り返される光景
「ジャスティン! 何してるの早く起きなさい、ジャスティン!」
ママの怒鳴り声を聞いてぼくはベッドの上で飛び上がった。毎日一言も違わず同じセリフだ。おかげでぼくは古本屋で買ったニーチェの『権力への意志』を取り落とした。表紙の角が折れ曲がってしまっている。いつの間にかに寝てしまっていたらしかった。本が退屈だったせいだ。頭に手をやると、髪は嵐の中の小麦畑ぐらいの惨状だった。今日も学校でバカにされる。
狭くてきしむ階段を駆け下りて家具と調味料でごちゃごちゃのキッチンへ行くと、パパはむっつりした顔で煙草を吸っていて、ママはぼくの寝坊が原因で今日で世界が終わるかのような猛烈な怒り方をしていた。デイヴィッドお兄ちゃんもジュリアお姉ちゃんも「それみたことか」の顔で黙々とべちゃついたオートミールを食べている。弟のテリーはベビーベッドの中でお気に入りのお人形をくわえていた。ぼくはテリーを指さして、遠慮がちに言った。
「ママ、テリーが」
「テリーは関係ありません! また寝坊よジャスティン! 今日で何日連続?」
十七日連続で今年に入ってからは三十四回目だったけれど、そんなことを口にしたら今度は何が飛んでくるか分からないから言わない。テリーの塩化ヴィニルのおもちゃが大切な弟の身体を悪くする方が心配だったけれど、何度言ってもママは発ガン性物質の危険性を理解してくれない。それだけじゃない。ママは、何も理解してはくれない。ぼくがIQ203だと分かってから、ますますそれはひどくなった気がする。お兄ちゃんもお姉ちゃんもぼくを冷めた眼で見てくる。パパが無口なのは昔からだ。
正確にはぼくのIQはよく分からない。最初に測ったときは187だったし、二回目が203だった。次測ったらもっと上がるだろう。あんなテストは繰り返して学習すれば誰だって点数を上げられる程度のものだし、そもそも軍が新兵を効率よく雇用するために発案させたつまらない制度に過ぎない。平均値を基準とした偏差値計算の一種でしかないのだから。
その程度のシステムで子どもの頭脳を測ろうという発想が貧困だと思うし、可能性を絞り込もうとすることは最低だと思う。「君の可能性をもっと高めるのが僕らの目的なんだ」最初に会いに来たMITの教育学教授が白々しい笑顔でそう言っていた。僕は何も答えなかった。可能性が高いか低いか、そんなもの今現在のアメリカ社会において規定された一時的なものに過ぎないじゃないか。問題は絞り込む、という方なんだ。医者や政治家や大学教授にしかなれず、ホットドッグ屋や露天商や電気工事業になれないのだったら可能性は狭まっているだけのこと。MITだのハーヴァードだのの学者から注目を受ければ受けるほど、僕の本来拓けていたはずの可能性は小さくなっていくんだ。
ニーチェの非論理性と男性的ロマンティシズムにいまだ拘泥する人間が多いということは、結局西洋中心主義的な価値体系の限界を露呈してるということなのかな、それともこれはぼくがヒスパニック系であることによって導かれた恣意的な結論なのかな、とオートミールをかき混ぜながら考えていると、ママが言った。
「……昨日の夜あのいつものヒゲのナントカ教授から電話があったわ。また来週の土曜日に、ダウンタウンの方へ来てくれないか、だって」
「えー……ぼく、いいよ」
行ったところでオフィスの椅子に座らされて、内容の推測が簡単につく分かりやすい心理テストをドーナツ食べながら受けさせられるだけだ。心理学者の発想のパターンを把握すれば、何を訊きたいのかカードの絵を見ただけで分かる。
するとママは、ジンジャーを丸かじりにしたみたいな表情になって言った。
「アンタが行かないと、ママが罰せられるのよ。あの先生言ってたわ。子どもをヨクアツするケンリが、なんたらかんたら。だから行きなさい。グランド・セントラル駅のいつものところまで迎えに来るって。アンタなら一人で行けるでしょ。お金は向こうが出すって」
そんな法律あるだろうか。ないと思う。でもそれを言うとまたママがキレるから、黙っておくことにした。うちは一応「ニューヨーク郊外の住宅地」の範囲内だから、行くことはそんなに大変じゃない。サルサソースの匂いがする通り、という呼び名の方が一般的だけど。そうして業務連絡を終えるとママは黙り込んだ。他の三人はとっくに黙っている。朝食の席からうちは葬式みたいだった。そうだ。ぼくがうちの平穏な生活を葬り去ったのだ。
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