第31話 彼女が本当に欲しかったもの

 ムンラーナ・ミジェーロ――かつてはただのムンラーナと呼ばれたこの女性は生まれついての商人ではなかった。

 ドンキオッカ市近辺の穀倉地帯にある小さな貧しい村。ある農夫の家庭の三女として彼女は生まれた。豊かとは言い難い暮らし向きの生家から、ドンキオッカ市の商家へと奉公に出されたのは10歳になった時のことであった。


 奉公と言ってもほとんど身売り同然だ。わずかな代金――上の姉の持参金か何かのために売られたのだったか――と引き換えに、帰ることを期待されないで働きに出された。もう少し器量がよければ「別の道」もあったのかもしれないが、幸か不幸か彼女はただの商人の家に下女として働くこととなった。


 そこでの暮らしはどうということもない「普通」であった。


 当時のドンキオッカはまだダンジョンに関わる仕事は少なく、それほど景気のいい都市でもなかった。古くからある交易路の中の少し大きい街であるため寂れることもなかったが、かといって一獲千金のチャンスが転がっているわけでもないなんとも中途半端な町であった。

 そんな街でこれまた箸にも棒にも掛からぬ規模の商人の家の下女となったのだから、人並みに辛く、人並みにいいこともあった。仕事でミスをすれば棒で叩かれるようなこともあったし、主の機嫌が良ければ菓子の一つぐらいもらうこともある。普通の暮らしだった。


 ただ彼女が他の下女と違うところがあったとすれば、それは彼女に確かな「商才」があったことだろう。

 まず第一に頭の回り、とくに計算が速かった。誰に教わるわけでもないのに四則の計算を使いこなし、複数桁の数字も一瞬で計算してみせた。

 次に人の顔を覚えるのが得意だった。一度見た人の顔、名前は絶対に忘れないし。いつどこで会ったか、会ったときに何があったかも全て記憶していた。

 そんな彼女であったから真面目な働きぶりも相まって、15の頃にはもう商家の内向きでは様々なことに重宝されるようになり、買い出しの財布を預かるような立場にもなっていった。


『お使い』は使用人たちにとってうま味のある仕事だ。直接に金を抜くようなことはもちろん許されないが、予算の内で求められる買い物を果たせさえすれば余った差額は懐に入れてもかまわない。暗黙の了解としてそのようになっていた。

 そうでもなければ下女たちが個人で自由に使える金は無いし、雇い主にしてもそれで真面目に働くならば多少は目こぼししてもよいと思える仕組みなのだろう。


 彼女も当然その恩恵にあずかったのだが、彼女のやり方は他とは少し違った。


 買い出しを任されても自分一人でその仕事を行うことはなかった。下働きの仲間に仕事を割り振って買い出しをさせたのだ。使用人たちもそれぞれ得手とする買い付け先を持っている。酒の買い出しが上手いもの、野菜の買い出しが上手いもの……とそれぞれ違っている。彼女はそれを把握し適切に仕事を割り振った。

 使われる者たちにとっても小遣いを得る機会が増えるこれはありがたいことであり。ムンラーナも自分でやるよりは手間がかからずに利益を得ることができた。


 さらに彼女はそれで得た利益を己の欲しいものを買うために使わず、材料を仕入れ内職を行うために使った。内職を行う時間は仕事の割り振りで捻出できるし、なんなら使用人仲間を雇ってもいい。

 こうして彼女はいつの間にか商家の中で『商売』をはじめ、20歳を前にしてついに『自分』を買い取る金……使用人の立場を脱するため雇い主に払う金を手に入れていた。使用人が金を貯めて使用人を辞めることは珍しいことではないが、彼女がそれを成し遂げたスピードは異常であり。

 ――ムンラーナ・ミジェーロという商人がいかに非凡であったかという話であった。


 二十歳となって独立したムンラーナはやはり商売を始めることとなる。

 この頃になるとドンキオッカ市の周辺に存在していたダンジョンへの探索が本格化してきおり、ギルドも本腰を入れて支部を設置するなど大きな商売の機運が高まり始めていた。

 その気配を肌で感じ取っていた彼女はいち早く行動を開始する。ダンジョンに関わる商売を、それも末端の小売を行う迷宮行商人ではなく、迷宮行商人や冒険者、あるいはギルドそのものを相手どった商売だ。


 商売においては金の流れ、その源流に近ければ近いほど大きな利益を得ることができる。ごく単純な話で例えるならば、1つの店で10の弁当を売るよりも、10の店を相手に弁当の材料を100売るほうが儲かるという当たり前の話だ。

 口で言うのは簡単だが、無論これは誰にでもできることではない。商売の才覚はもちろんのこと、資本やコネクションも必要であり、覚悟や胆力までも求められる。


 そして恐ろしいことにムンラーナ・ミジェーロ(この頃には彼女はドンキオッカ市内で市民権を得て家名までも手にしていた)はその全てを兼ね備えていた。

 独立からわずか数年。彼女はドンキオッカ市の商人の中で徐々に頭角を現しはじめる――そんな折であった。

 彼女の中に新しい命が宿ったのは。


『あなたは妊娠しています』


 体調不良から診察を受けた医師からそう告げられたとき、彼女はただ。


『そうですか』


 とだけ答えた。報告をともに聞く伴侶もいない、なんとも素っ気ない告知だった。

 突如自分の身に宿った新しい命に、彼女は困惑したかと言うとそれがそうでもなかった。結婚もしていない彼女であったが、男性と浮名を流す機会はまったく無いではなかったからだ。


 とりわけ秀でて美女というわけでもなかったが、それなりにいい暮らしをしている若い女だ。『関係』を望んで声をかけられることもなくはなかった。とくにほかの大商人、または取引相手からのものが多かった。それらはときに『信頼』を醸成するための手段として、付き合いの『レクリエーション』として、あるいは――情を交わすこともあっただろうか。


 とにかく、そうした関係の男性のうちの誰かがお腹の子供の父親だろうと思われた。特定の誰であるかまではわからない。念を入れて調べ上げればわかるかもしれないし、そうでなくても知らせれば父親役を買って出る男もいるかもしれない。だが彼女はそうすることはなかった。


 それが無用なトラブルを避けるためなのか、それとも父親など必要ないということなのか、それも余人にはまたわからないことであった。彼女自身であっても何故かはわからない。ただなんとなくそうする気になれず、一人でこの子供を産むこととした。


 当然、産まないという選択肢も無くはなかった。いや、むしろそうすべきという声も少なくはなかった。大商人の一角に駆け上がったとはいえまだ安定とは程遠い時期のこと、身重の身体では乗り切れないと予想される難局もあることだろう。敵も多い彼女から生まれた子供が幸せに暮らせる保証もない。周囲の人間が不安に思うのも当然のことだった。

 だが彼女は産むことを選択した。その決断に理屈はない。物心ついてより万事を冷静かつ合理的に判断し行動してきた彼女の人生最大の『気の迷い』であったのかもしれない。

 瞬く間に月日は経ち、彼女は出産を迎える。産まれた子供は男児であった。


 子供が生まれて以降、彼女の人生はまさに激動と呼ばざるを得なかった。少なくとも、彼女の主観では。それまでの人生全てと比較してもなお鮮烈な時間が待っていた。

 心配していたよりも妊娠と出産が商会の活動に与える影響は少なかった。むしろ彼女が一時的にでも弱みを見せることを期待した者たちに肩透かしを食らわせ、逆に利用するまでもあった。


 そしてあっという間に時は過ぎ、彼女の一人息子は立派な男性に成長した。そう、悪辣な女商人とは似ても似つかぬ――立派な人物に。


 ムンラーナは息子に対し最大限の教育を施した。各種学問はもちろんのこと、肉体鍛錬や思想哲学、奉仕活動も課した。そして息子はそれらを全うし修めるに至った。彼を知る者がいれば皆彼を、そして彼の母である自分を褒め称えた。「立派な息子さんですね」と。

 だが、嗚呼、だがある日、ムンラーナはふと思ってしまったのだ。


「――この子は商人に向いていない」


 息子にはけして知恵が無いわけではない。他者と渡り合う度胸が無いわけではない。金銭を欲する欲が無いわけではない。


 だが商人向いてはいない。


 それもそのはず。ただ単純に、彼女の息子は商人という職を好きではなかった。彼は――実の母親の仕事をまったく尊敬できていなかったのだ。

 大商会を手足のように操るムンラーナはドンキオッカ市の経済を回し、多くの者に多くの利潤を与え、豊かな生活を送らせる助けとなる仕事をしている。しかしその一方で人を陥れ、富を奪い、不幸にすることが無いわけではない。いやむしろその機会は他の商人に比して多いくらいだっただろう。


 心身ともに立派に育った彼は、どうしてもそれが許せなかったのだ。

 無償の愛を注いでくれた母に対する想いはある。しかしそれとは別に母を軽蔑する思いもある。その板挟みに彼は苦悩していた。

 そして彼が17歳になった日。息子はついに決断した。


『母さん、俺はこの商会を継ぎたくはない。迷宮探索者として働くよ』

『そうですか』


 息子の告白を聞いた彼女の言葉、それは奇しくも彼女が妊娠を告知されたときと同じだった。

 息子が家を継がぬと言ったからといって別段彼女は腹を立てることもなかった。おまえなど勘当だ!と家を蹴り出すわけでもなく、冒険者などととんでもない!と反対することもなく。

 では装備を整えなさい、腕のいい先達の冒険者に師事しなさいと親として至極まっとうなことを言うのみだった。

 彼女の商人としての判断はとっくに息子を跡継ぎとして不適格であると見切っていたからだ。


 そして……それで良いと思っていた。


 どうせ自分が一から起こした商会だ。息子に無理に押し付けるほどでもなし。他にやりたい仕事があるならばそれをやればよし、もしそうでなくともただのドラ息子として身代を潰すとしてもそれもよし、と。


『――』


 だが、彼女の言葉を聞いて息子はひどく悲しげな顔をした。

 跡を継ぐ必要はない。それは彼女なりの家族への優しさであったのかもしれないが……もしかして息子は、そのことにこそ傷ついたのかもしれない。たとえ商人には向いていないとわかっていても、母には期待され、未来を託されたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。


 家を離れると言いだした身でそう思うのは自分勝手かもしれないが、子供の心とはそういうものだ。そしてムンラーナはその判断を誤った。致命的なほどの誤りだ。商売のことでならばけしてミスを犯さない彼女にとって、これほどのミスは後にも先にもないことだった。

 時間が経ち、息子ももっと年を重ね、自分の家族を持つようになればいつか彼女の気持ちをわかってくれるかもしれない。彼女はそう信じるより他なかった。


 ……だがその機会は永遠に訪れることはなかった。


 迷宮探索者になってほどなく、息子は冒険の途中において命を落とした。多くの迷宮探索者がそうであるように、遺体すら家には帰ってこなかった。


 ギルド側も有力者である彼女の息子にはそれとなく配慮したのであろうか、息子が加入した迷宮探索者のパーティーは腕利き揃いの精鋭であった。息子は知恵も度胸も力もある若者だ、その精鋭の中で頭角を現すのもすぐのことだった。それが彼女の施した教育の賜物であったことを息子は自覚していたのか、それは今となってはわからない。いずれにせよ息子の迷宮探索者としての仕事は順調だった。

 ……順調すぎたのだ。


 ダンジョン、フリークフォドール霊廟の中層にて息子たちは罠により召喚された竜との不期遭遇を果たす。専門の武器や準備をしていなければ到底太刀打ちできない相手との戦いを強いられ、息子は仲間たちを逃がすためただ一人竜の前に残って時間を稼いだという。

 ある程度管理が行き届いたダンジョンであればすぐに救出のためのチームも組めたかもしれないが、当時のフリークフォドール霊廟の探索権所有者の商人はダンジョン経営にコストをかけることを怠っていた。


 下層と上層の間の情報伝達の不徹底、探索路の不整備、低額の討伐賞金。探索権所有者が予算をかけなければ迷宮探索は非効率的となる。実務を請け負うギルドも慈善事業ではないのだ。

 遅々とした周囲の対応とは別に、態勢を立て直した息子の仲間たちが彼の救出に向かったが時すでに遅く、息子を殺したであろう竜はダンジョンの機構によって送還された後であった。


 結果、彼女の一人息子は若くして命を落とすこととなった。奇しくも彼は母と同じ『商人』にその命を奪われたこととなる。母と同じ、強欲で非情な商人に。

 

 一人息子を亡くした彼女は落胆し、憔悴し、なにもかもを投げ出してしまったか?

 いや、その逆だ。葬儀の後すぐ、彼女はむしろ精力的に活動を加速させたのだ。

まずは手始めに息子の死の原因となったフリークフォドール霊廟の探索権を持つ商人を、経営の不手際を理由に徹底的に攻撃しはじめた。世の人々もこれは息子の敵討ちなのだろうと思い、彼女の動きを支持した。その攻撃の手はずがあまりにも苛烈であることを知るまでは、だが。


 次に今まで手を出してこなかったダンジョン探索経営に積極的に手を伸ばし始めた。これには反発する他の商人も多かったが、彼女はそれをときに強引に、ときに柔和に、しかし一切妥協することなく手中に収めていった。


 彼女の経営手腕は完璧であった。細やかに指示を出してダンジョンとその周辺の整備を推し進め、冒険者を多く呼び込んでいく。そうすればその冒険者たちを相手取る商人も増え、さらに探索は加速する。そして彼女は権益によってそれらから莫大な利益を得るという寸法である。


 息子を殺したダンジョンで荒稼ぎをする彼女を、人は冷血な女だと罵り、そして恐れた。その恐れがまた彼女を大商人の高みへと押し上げ、孤立させることとなった。

 そしてミジェーロもまた、そんな言葉に心を動かされることもなく。粛々として大商人の道を進んでいった。


 彼女の心を支配していたのは息子を亡くした悲しみではなく、息子を死なせた憎しみでもなく、まして金儲けをしようという欲でもない。

 

『空虚』だ。何もない。空っぽの心。


 ぽっかりと大事なものが抜け落ちた心を抱え、その空虚を埋めようとあがいていただけにすぎない。ダンジョン経営の利益など、彼女の心を少しも満たすものではなかった。


 思い返すのは彼が家を出る直前。前日のこと。


 屋敷の応接間に息子のために買いそろえた装備を並べ、じっとそれらを見つめた夜。冒険者になるにあたり母の世話になることを彼は嫌がるかと思ったが、生きるために仕事を行うというのであれば使えるものはなんでも使うべきであり、そうしないのは仕事に対してかえって不誠実であるという彼女の教えを息子は覚えてくれていた。

 複雑な表情をして彼は一言、「ありがとう、母さん」と言った。


 並べられた装備はどれも一級品。装飾や華やかさなどはほとんどないが、腕の高い職人があつらえた実用品として優れた逸品ばかりである。それもまた道具は質実剛健第一を旨とする彼女の考え方の活きたものである。

 だがどれだけ優れた装備を持っていようと危険と隣り合わせの冒険者には何があるかわからない。優れた装備を持つことがかえって慢心となることすらあるだろう。どれだけ準備を重ねても彼女の不安はぬぐい去ることができなかった。

 それは親として当然の感情であろう。心痛に胸をかかえ、俯く母。息子はそんな母の顔を、幸か不幸かついぞ知ることは無かったのだ。


 ふ、と彼女は装備の中の一つ。革の鞘に納められた剣を手に取る。まだ市軍の市内所有制限封印が施されていないため、剣はすらりと引き抜かれ鈍く光る鉄の刃を月光に映した。

 狭い迷宮内でも扱いやすい小型の剣ショート・ソード。極端に値が張る名剣と呼ばれるようなものではないが、修理も整備もしやすくたとえ失っても替えが利きやすい、実用的なものだ。


 剣を見つめ、その刀身に指を触れる。信仰心も薄く、礼拝も社交辞令的に済ます程度の彼女であるが、この時は違った。

 祈りの念を胸にあふれさせる。その祈りは神に対してか? それとも運命に? それはわからない。だがたしかに彼女は祈った。


『どうか、あの子を守って――』


   ○


「うっ、うううううっ!」


 涙で濡れる視界。震える手の先。そしてこの場所にあの剣がある。息子に託したあの剣が!


「あああああっ!」


 これだ、これを求めていたのだ! 息子を亡くして以来、仕事に打ち込もうと何をしようともけして満たされることなかった空虚。それを埋めるもの。息子が生きた証であり――息子がもう居ないことの証。

 それが自分の手の中に帰ってきた。若き商人たちはどうしてこれを見つけられたのか、どうして自分にこれを届けようと思ったのか、もうそんなことはどうだっていい。ただ自分の手の中にこの剣があることが全てだった。


「…………」


 まだ少女と呼べるほどの年若い女商人は悲痛に泣き叫ぶ大商人から目をそらすことなく、しかしてけして哀れみも蔑みもなく、ただ真正面にミジェーロの心に向き合っている。

 いや、それは正確ではない。少女が真に向き合っているのは、ミジェーロの手にある己の『商品』だ。欲するものに渡し、正当な対価を得る。それが商売の根本であるのなら、商品が真に欲されるもの足りうるのか見届ける責任が商人にはある。

 彼女はそれを果たそうとしている。今時珍しい『誠実』な商人の姿であった。

 その姿勢もまた、孤独な商人であるミジェーロにとっては何よりの優しさを伴う寄り添いとなっていた。


   ○


「……見苦しいとこをお見せしました」


 泣きはらした顔を懐紙で拭い、ミジェーロは謝罪した。


「いえ、そんな、無理もないことです」


 あれから十数分後。すっかり冷めてしまっていた茶は再び淹れなおされて、温かな湯気を放っていた。


「たしかにこれは私の息子の形見のようですね。見た目こそもうボロボロとなっていますが、ええ、私にはわかります」


 テーブルの上に置かれた剣に手をやり、錆びついた刀身を撫でる。かつてここでそうしたように。


「あなたたちがどうやってこの剣を見出したのかはわかりませんが……今日ここに届けてくれたこと、一人の母として本当にありがたく思います。感謝してもしきれないほどです」


 そうして恭しく頭を下げた。


「そう言って頂けてこちらこそ光栄です」


 弱小商人のフュリアタが、ドンキオッカ有数の大商人に頭を下げられるなど、普段であれば大慌てするところだろうが。フュリアタはあえてそれを制止せず、堂々とそれを受け止めた。土壇場の胆力こそ彼女の持ち味なのだ。

 それもまた、ミジェーロにとっては好ましく感じられることである。商人とはこうでなくてはいけない、ということだ。


「無論。相応の謝礼はさせていただきます。竜を倒してくれたことに合わせて、けして不足ない額を支払うことをお約束しましょう」


 形見の話にしてはやや物言いであるが、同じ商人同士のことだ。これぐらいでちょうどいいだろう。

 ミジェーロは立ち上がり、デスクの引き出しから小切手を取り出す。ドンキオッカ市内で一般的に使われているこの小切手は、ダンジョン内で使われる所有優先札と同じく署名者の記録が残される仕組みが施されている。今ここでミジェーロが署名すれば、それは市内の銀行において現金と引き換えられるのだ。

 テーブルの上に小切手を置き、わずかに思案したあとミジェーロは額面を書き込んだ。その様子を覗き込んでいたシュンディリィは面食らう。


「うえっ、そんなに!?」


 書かれた額は非常に高額である。先日のダンジョンでアグザウェ商会は大きく利益を得たが、ここに書かれた額はその何十倍。シュンディリィが今まで見たこともないような金額だった。


「こら。失礼ですよ、シュンディリィくん」


 商人ならぬ鑑定魔術師である彼と違い、澄ました顔でフュリアタはそれを窘める。

 ミジェーロは苦笑する。こちらの少年は思ったよりも素直なのだな、と。


「こうした物品への値付けは私としても多少は難しくもありますが……。私の気持ちも込めた額にしたつもりです。いかがでしょうか?」


 いかがもなにもない。竜の討伐の謝礼も含まれるとはいえ、朽ちた剣一つにつける値段としては破格を通り越して異常なほどだ。存続が危ぶまれていたアグザウェ商会が商売を続けるのに十分な資金足りうることだろう。

 フュリアタは小切手をちらりと一瞥し、深く頭を下げる。


「過分なご配慮、ありがとうございます」


 そしてまた剣へと視線を向ける。ミジェーロの嘘偽りない涙によってその価値を確かめたことで、ようやく確信を持ち。

 フュリアタは『本題』へと踏み込んだ。蒼い瞳をまっすぐに、強大な敵に挑むようにして。



 客が欲するものを与え、正当な対価を得る。それは商人の正しい姿――の半分だ。

 正当な対価を得る? それではまだのだ。100の価値を持つ物を100の値段で売りつけるのは半人前のすることだ。200,300と値を釣り上げてこその商人……!


 不遜ともいえるフュリアタの言葉にミジェーロの目の色が変わる。子を失った哀れな母親の目から百戦錬磨の大商人の目へと。

『面白い。小娘ごときがこの私を相手に優位な商談をするつもりか?』

 言葉以上に雄弁に、大商人の眼は燃え上がる。


「この値では足りぬ、とそう仰いましたか? 私の聞き間違いでなく?」


 ミジェーロの声は固く、そして鋭い。引き返すなら今のうちだとでも言うように? いや、それすらももう遅い。先に言葉の『剣』を抜いたのはおまえのほうだと、もはや引き返すことなど許さぬぞという敵意すら含んだ声だ。


「……」


 その圧力を正面から受け止め、背中に冷や汗をかきながらフュリアタは立ち向かう。


「勘違いなさらないでいただきたいのです。まさかそんな、こと値付けにおいて私ごときがミジェーロさんに敵うわけもありません。あなたがこう値付けをされたのならそれがきっと何よりも正確な価値なのでしょう」


「だったら何が足りないと――」


「この剣は紛れもなく本物。あなたにとって、あなただけにとって大事な物だとわかりました。亡くなられた息子さんの生きた証、まさかそんな大事なものを


「……何?」


 フュリアタの言葉にミジェーロは訝しむ。フュリアタは彼女の疑問をさらに押し込むようにして言葉を続ける。


「この剣は進呈……いえ、『返却』させていただきます。対価はもちろん経費もいただきません」

「なっ……」


 ミジェーロは絶句する。

『ああ、それに加えて竜の討伐の謝礼もいただく筋はありませんね。私たちは討伐証明を放棄しているのですから』とフュリアタはあっけらかんと言ってのけた。

 何を言っているのだこの若い商人は、剣の対価はおろか竜討伐の謝礼すらいらないだと? それではただのくたびれ損、ここに何をしにきたのだと――


「その代わり! と言ってはなんですが!」


 強く、そしてよく通る声でフュリアタは矢継ぎ早に言葉をつなぐ。


「ミジェーロさんには、ぜひお願いしたいことがございまして!」

「!」


 事ここに至ってミジェーロも合点がいった。フュリアタが本当に売りたかったものは『剣』ではない。

 形見の剣を彼女に返却することで『恩』を売りたかったのだ!


(よくもまあと……!)


 驚き、感心し、そして呆れる。

 何が剣の対価はもらわない、だ。剣の値以上に恩を売り、そして自分の要望を通そうというのならむしろ形見の剣を売るよりよほど強欲なやり方だ。

 そしてこの商談を断り、剣の返却を断るという手はミジェーロにはない。今やこの剣は彼女の全財産、彼女の全てに比しても惜しくはないほどの価値のある剣だ。

 ならばミジェーロは彼女の要望を吞むしかない。


「……聞きましょう」


 眉間に皺を寄せ、若い商人が何を望むのかを口にするのを待つ。

 ミジェーロが小切手に書いた額は値付けとして正確であり、そして高価だ。この値段以上に売った恩で。さていったい彼女は何を望む?


「このたび私がミジェーロさんにお願いしたいのは是非――――」


 フュリアタは目に光を宿し、何一つ恐れることなく堂々として己の望むことを過不足なく告げた。


「!」


 フュリアタの『要望』を聞いたミジェーロは一瞬驚きに目を見張る。まさかこの年若い商人からそのような申し出が出ようとは思わなかったのだ。


「それは――面白い提案ですね。ええ、とても。とても面白い提案です。非常に興味をそそられます」


 ミジェーロの脳内で高速に計算がおこなわれる。

 計算式に上がるのは様々な要素だ。『形見の剣』『小切手』『事前に調べ上げたアグザウェ商会の経歴』『猫戦士』『竜を倒したシュンディリィという少年』『迷宮行商人』『ダンジョン』……言葉にしきれぬほどの膨大な思考、そして様々な数字のデータ。それらの複雑な計算式に掛け合わされる最後の要素は『若き商人フュリアタ・アグザウェ』!


「……いいでしょう」


 計算は成された。フュリアタの提案、それはミジェーロにとっても利のある提案だった。


「この剣を返していただく代わりに、あなたの要望を全面的に受け入れましょう」


 ス、とミジェーロは手を差し出す。形見の剣が見守るそのうえで、長き労苦のにじむ皺のある手が、若き商人の瑞々しき艶やかな手を待つ。


「はい! ありがとうございます!」


 満面の笑みで、フュリアタはその手を握った。商談成立であった。


   ○


 商談を無事に、しかも最高の形で終えた少年少女たちは笑いあいながら屋敷の敷地を抜けていく。その姿を窓から見送りながら、ミジェーロは一つパンと手を叩いた。


「お呼びですか、会長」


 すぐに部屋に入りこんできたのは大柄な男。ダンジョン探索権を有している彼女のもとにギルドより派遣された『黒衣』だ。最強の護衛としての役割はもとより執事や秘書としての仕事すらこなすほどの優秀さを持ち、ギルドがいかに彼女へ配慮しているのかを示している。


「出かけます。準備をしてください」


 外に出回るときは常に彼と、彼の部下である黒衣の少女が付き従う。であるから、ミジェーロが彼に外出の準備をさせることはいつものことであるが、今日は少し趣が違った。


「墓地に向かいます」


 彼女の言葉に、黒衣はわずかに目を剥いて驚いた。墓地とは言うまでもない、彼女の息子が眠る霊園だ。ドンキオッカ市外にある、富裕層が家族の遺骨や遺品を納めるための場所だ。

 彼女も当然自分の息子の墓所をそこに備えているが、訪れることはほとんどなかった。人を雇って常に管理はさせているはずだが、そこに参るのは彼が知る限りでは初めてだった。

 そんな彼の驚きを見て、寂しげにミジェーロは微笑む。


「墓に、納めるものが出来ましたから」


 テーブルの上には一振りの朽ちた剣。持ち込まれたときの簡素な包みから、墓に納めるために清められた飾り布の上にその身を移している。

 若き商人たちによって取り戻された、彼女の息子の形見である。


「……すぐに支度いたします」


 すべてを理解し、彼は恭しく頭を下げた。ただの外出の準備だけではない、花や供え物も必要だろう。それらを即座に手配する手腕もまた彼にはあった。


「ああ、それと帰りに銀行にも寄ります」

「は? 銀行ですか?」


 それは大商人である彼女にとっては珍しくもない外出先ではあるが、墓参りのあとにとは意外な取り合わせである。


「ええ。担当者と打ち合わせしなければいけないことがありますからね」


 そう言って彼女は笑う。

 まるであの少女商人から受け取ったような、屈託のない朗らかな笑みで。


   ○



 ミジェーロはフュリアタの手を取り、目の前の少女を対等な商売相手と認め、そして改めてその取引内容を口にした。


「いいでしょう、フュリアタさん。この剣を返還していただいたお礼に。私、ムンラナーナ・ミジェーロはあなたたちアグザウェ商会に『融資』を行わせていただきます」



(次回、最終回に続く)

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落第鑑定魔術師は運命の言の葉を読む 宮本熊三 @kumazo

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