ローズ家の言い伝え

@ichiuuu

第1話 ローズ家に攫われた日には

【昔むかし、雪も凍てつくこの地方には立ち入る人ひとを喰らう、恐ろしい森があると言われていました。紅き深き森ルージュ・グランヴェール、そこに入ると生き血を吸われ、森に咲く紅き薔薇をより一層艶やかに染め上げるとも。森の主たるその薔薇の名は、ラドヴィカ。ラドヴィカ・ネ・ラ・ローズというのが、この国の昔語りではローズ伯爵家と呼ばれ畏れられているのでした】


 月夜の美しい晩に、その姉妹は糸をかがっていた。伯爵家の令嬢でありながら、さながら針子のように。

「ねえ、お姉さま」

「なあに、世界で一等美しい我が妹」

 暖炉には槇がくべられ、微かに音を立てている。耳障りのよい、骨を喰らうような、安らかな槇の爆ぜる音。

「どうして人はこの不吉な森に入ろうとするのでしょうねえ」

 美しき黒髪の乙女が言うのに、ラドヴィカは少し、笑って。

「それは、わたくしたちに会いたいからではなくって?」

と手を休め、侍従を呼んだ。

「おなかが減ったわ。何か、美味しいものを運んできて頂戴」

 白髪の、背の高い容姿の整った美麗な侍従は、く、と顎をひいていずこへか消え去った。右目の眼帯の紐が少し風に遊ばれている。


美貌の姉妹はにこにこと笑っている。


「会ったら必ず死ぬのにねえ」

「人間っておバカさんですねえ」

 嗚呼、また槇が爆ぜて音を立てた。静かな夜更けのことであった。

「やめてよお、やめてえ」

 誰もが忌避する、その恐ろしき森は、今は曇り空のたまさかの光を浴びて、ほんの少し、恐ろしさ、おどろおどろしさが薄められている。その入口には、ルッシア語で注意書きが記されている。

【命惜しくば、近寄るな】

 注意書きには、薔薇に絡みつかれる白骨死体が、あまりに鮮やかな筆で描かれていた。その看板をちらと一瞥した隙に、アンはまた背後から石をぶつけられ、ひいいと悲鳴を上げて逃げ去った。逃亡先は、ラドヴィカの呪いの森。

アンとて、この鄙に住まうもの。恐ろしきラドヴィカの森、の噂話くらい知っている。だけれど。

「ほらーアン。この呪いの森に入ってみなさいよ! じゃないとお前のことをもっといじめるわよ」

 このあたりの地主の娘、我がままな姫様気取りのジェリに、貧乏小作人の娘アンは追い詰められていた。いじわるな暴君ジェリ、彼女は重たい黒の髪を、都会娘や貴族令嬢に憧れて品のあるブロンドにと何度も何度も染め上げたが、かえって色が混ざって泥水みたいな色合いの髪になった。目鼻立ちも尋常で、それを濃い化粧でなんとかしようとしている。

頭もまったく冴えず、宿題をいつも優等生のアンにやらせている始末だ。無論、そんな都や貴族に憧れる彼女が、【本物】と親しくなれるはずがなく、その鬱憤を田舎人のアンにぶつけては発散している、という訳だ。

(ああ、どうして私だけが、こんな目に遭うのかしら。いつもいじめられて、使い走りにされて。ああ、ジェリさえいなければ……)

 そう暗鬱な気持ちで考えて、ふと顔をもたげると、薄い三日月があがって、深い森には薄闇がのべられていた。 

「あ、あら……」

 アンが慌てて入口に戻ろうとする。けれどあたりはひや、とする夜霧が蛇のように足元から這い上がってきて、アンの視界を瞬く間に奪ってしまった。

「まあ……なんてこと。早く入口を……」

 確かこっちだと思ったのに。けれどその森はまるで生きているように木々が動いた。気がした。そう思うほどに元来た道が分からなくなり、アンは途方に暮れた。その時。

「ちょっと、あんたしっかりしなさいよ。ここどこなのお!」

 と騒がしい声が響き、霧を裂き背後からジェリが現れた。思わず顔をしかめそうになるが、この状況ではそうもしていられまい。寸分の間もなくさっそくジェリに噛み付かれる。

「だいたい、あんたがこんな森に迷い込むからよ! どうしてくれるのよ」

「ジェリ、ごめんなさい。私、近くに何かないか探してみるわ」

「いやよ! そうしてわたしを一人にする気でしょう! この森は不吉な森で、狼も夜になると出るのよ。わたしを一人にしないで」

 赤い三つ編みを揺らして、走り出そうとしたアンを、ジェリが押しとどめた。二人の眼前の霧はますます濃くなっていくように思われた。突然に、狼の唸り声が背後より聞こえる。

そうして次には、がさがさ、と森のとろけた手のような枝の下草より、何かが顔を出した。

「狼かしらっ」

「いやあああ」

 二人が思わず身をひしと抱きしめあうと、そこには。

 愛らしい白の兎がいた。

真っ白で、美しく、どこか、不思議な感じがする。ジェリが思わず近寄って、兎に噛み付いた。

「なあに、あんた狼かと思ったじゃない! びっくりさせないでよね!」

 そういうまに軽くだが兎を蹴り上げた。

「まあ、なんてことを!」

 アンがよろよろとする兎を抱きしめて、怪我の具合を見てやる。右目元に痣が少しできてしまったけれど、命に別状はないようだ。

「ごめんなさい。痛かったわよね」

 アンが心配そうに言うのに、兎は愛らしく首を振る。それから兎は、アンの腕の中から逃れると、二人の前を先導して、いずこへか導いてくれるように思われた。立ち止まると振り向いて、歩を急がせた。

「まあ、なに?」

「兎さんがどこかに連れていってくださるみたいよ。私はついていくけれど、ジェリは、どうするの」

ジェリは憮然とした顔で、叫びちらした。

「あんたが行くのなら、私だって行かなきゃダメじゃない! この森で一人でなんていられるものですかっ」

 やがて兎が二人を導いたのは、霧がそこだけまるでたちこめていない瀟洒な洋館だった。青い屋根と尖塔のついた、美しい四階建ての洋館。

「まあ、綺麗なお屋敷ねえ」

 思わず二人して声を合わせる。

 薔薇のからまる洒落た門のすぐ向こうに洋館がある。ドアが一人でに開く。すると、兎は瞬く間に中へ入り込んで姿を見えなくしてしまった。

ホールに屹立する円柱群、白黒市松模様の床、天井は薔薇のフラスコ画が、これでもかと赤薔薇を描きそめて、見たこともないような品格ある建物だった。

「素敵ねえ。この建物には、わたしが一番ふさわしいわ。アンには一生縁がないでしょうけど!」

 ジェリのこの高飛車な物言いに、アンはむっとなったけれど、何も言い返せなかった。(一生こうして、ジェリにこびへつらう毎日なのかしら)

 そう考えるだけでも気が重くなった。この宵闇の深き森にいるだけで、アンは気が晴れなくなっていた。

 長い回廊を歩んでいると気づくことがある。この洋館には不可解なところがある。誰かが棲んでいるにしては、まったく生活感がなく、すべてが美々しいように置かれて、飴色の調度も、ドアも、まるで人が何十年も触れていないように手垢などもなく褪せず思えた。けれど不思議なのは、それが美々しいまま埃ひとつないことで、まるで誰かがいながら、いない者としてここに、棲んでいるのかも、しれない? と思えるほどだった。

 そうまで考えた時、あの兎が飛び込んでいった先から、美々しい麗容の侍従がやってきて、自分たちににこやかに口上を述べた。

「おや、おやこれはお嬢さんがた。あなたがたは迷ってこの森にこの屋敷にたどり着いた。それはとてもとても、幸運なことなのですよ」

さあ、上がりなさい。

「この屋敷に住まう、ラドヴィカ嬢エリリカ嬢もお待ちでいらっしゃいます」

「もう、私は疲れたのよ! 早くそのなんとか嬢のいるところに案内して頂戴」

 そうしてジェリは泥まみれの靴でずかずかと侍従の案内に添うて向かった。一方のアンは、泥まみれの靴を少しハンカチでぬぐって、それから広間に招かれた。

 広間にはロシアンテーの香りが漂っていた。

あの、瀟洒な香りが、鼻にも迫ってくる。大広間は白い大理石が敷かれ、そのうえを斑模様の獣の絨毯が覆っていた。その中心には天窓より三日月のひかりが射し込んでいる。白い長テーブルが上に置かれて、そこに彼女らは二人、向かい合って座り込んでいるのだった。令嬢の一人がロシアンテーのカップを少しもたげ、置いた。それから姉妹はにっこりと迷い兎の二人へと振り返った。

「ようこそ、ローズ伯爵家へ」

 これを聞いたアンは慟哭しそうな勢いであった。あの噂の森の主が、今目の前にいる!

(ああっここは恐るべき、ローズ伯爵家なのだわっ)

 そうして逃げましょう、とジェリの袖を掴んでも、ジェリはにこやかに、ラドヴィカたちの方へ向かっていった。

「まあ、貴族の皆さま、私はジェリと言いまして、常にエレガントであるゆえに、そこの貧民アンから見下されているのですわ。あわれとおぼしめして、私と親しくしてくださいませ」

 そう、ジェリは生粋のスノッブだったから、貴族王族の称号に弱い。にたにたながら貴族令嬢と仲親しくしてもらうことを願う。アンは悩んだ。いくらいじめっことはいえ、この地の噂によれば人を食い殺すという少女のもとに、友を一人置いていってしまっていいものだろうか。

「ああ、お姉さま、この娘さんはあたくしたちを恐れているのですわ」

 その時、黒髪の乙女の方が突然に口を切った。アンが思わず身をこわばらせる。

「ローズ伯爵家の悪評、私とてよく存じ上げておりましてよ。けれど、あんなの嘘っぱちです。私たちも迷惑していますの」

「それは、どういう……」

 ラドヴィカが言葉を継ぐ。

「あのねえ、わたくしたち、生来病弱で、薬草のよくとれるこの森のお屋敷に、お父様たちによって隔離されてしまったのよ。今はすっかりよくなったのだけれど、それでもわたくしたちは二人ぼっちで、里の人には病持ちと嘲られておりますの。ただ、二人ぼっちで……」

まあ、おかわいそうに!

 ジェリが涙でハンカチーフを何十枚も鼻にも口にもあてがって、おおげさなジェスチャアをする。アンもやや不審に思ったが、ともかく、今ここを出たら狼たちの餌になり果て、肉も骨も森の土になるだけだ。ここにいるしかあるまい、と決めると、初めて令嬢二人に笑顔を繕った。

「アンと申します」

「わたくしはラドヴィカ。妹のエリリカよ。どうぞ、およろしくね」

 ラドヴィカのうねった腰までの金髪を、月光が泳いでいく。ああ、アンは生まれてからこんなに美しいものは終ぞ見たことがなかった。神から愛されたお人形のような令嬢たち!

 その時、ふと、背後にいた侍従に眼がいった。白髪の、美しい男。その男は右目に眼帯を巻いていた。ふと、あの白うさぎのことが思い起こされる。けれど冷たい美貌に、ふいの客として話しかけるのは困難なのであった。

「さあ、パーティーにしましょう!」

 ラドヴィカがそう言って、侍従に目配せして、馳走を饗する。それは貧しい生まれのアンには見たこともない料理ばかりだった。とろりとソースのかかった美味しそうな肉料理、サラダ。新鮮なパテ、芳香豊かなコンフィチュール。見目美しいデザート。

「これは?」

 アンは恥も恐怖も忘れて、思わず問うていた。赤く熟れた新鮮なこの果実は、いったい何と言うのか気になったのである。

「これはヴェリーよ。噛むと味わいが増して、美味しいの。まるで人間のお肉みたいね」

 ラドヴィカがそう言って微笑むと、エリリカがたしなめるように苦笑して目くばせした。

なんとはなしに、アンは彼女らが人間でないような気がしてきた。その尋常でない美しさ、美々しさ、たゆまぬ気品、優雅。まだ幼いながら老成した余裕、そして風格。どれをとってもふつうの人間ではない。人間では、ない。

 だけれど、どうしてだか、抗う気力も次第に衰えてきた。それはこの森の呪いのせいかもわからなかったし、あるいは貴族でありながら、親しみ深い態度で接してくる、この姉妹にも一因があるかもしれなかった。

「ラドヴィカ様たちはどうしてこの呪いの森を出られないのでございましょうか?」

 もったいぶった敬語で話かけるジェリに、ラドヴィカたちが微笑して首を振る。エリリカが答える。

「あたくしたち、この森が気にいっているのよ」

 それからふいに落ちる沈黙さえ、高貴の特権のような気がしてくるので不思議だった。許される? 彼女らの尋常でない様子から、何もかもが許され、許諾されている気がしながら、その一方で、快い強い拒否もアンは感じていた。自分がしがない商人あがりの貴族であり、この美しき令嬢に舞踏を申し込むと、微笑でいなされているような気さえ感じられた。それくらい、彼女らには夢想と想像の余地が残されていた。実際、彼女らはオリオ・スウプを音たてて飲み干すジェリを見ても、微笑するだけで何の非難も浴びせないのであった。

「そうだわ。踊りましょう」

 そののちに、思いついたようにラドヴィカが言った。

「いいですわねえ! 踊りましょう」

 酒が入ったかのように頬を紅潮させて叫ぶジェリ。

「で、でも……」

 アンは気が付いていた。呪いの森の主たちと踊るなんて……。そう思うより先に、自分は舞踏なんて踏めないし、そう感じる自分が先に立っていたことを。そのこころの動きを察したかのように、エリリカが首をかしげて微笑する。

「ねえ、いいでしょう。アン。踊りましょう?」

 そう言われると、そうして微笑まれると、アンのこころは拒絶が溶けて美しき微笑が兆した。アンが力なく、嬉しそうに頷いた。

「いいですよ」


 それからはアンの人生で最も楽しく優雅な時間であったに違いない。実際、アンは人生のいまわのきわでさえも、優雅な時間と思い返すとこの時間を思い出すのではないか。それくらい、楽しく、品ある時間であった。侍従がピアノを弾き、ギターをかき鳴らし、こぼれる音に皆で笑いあった。実に楽しい時を過ごした。

 アンはふと、思うことがあった。もしかして、この姉妹は寂しいのではないかしら。こんな森に押し込められて、人ひとからは「化け物」と呼ばれ、孤立する二人と一人しかいない時間を無為に過ごす。その孤独はいかほどか。

「ラドヴィカさんは、寂しくはないのでしょうか」

 勝手に打ち解けたと思ったアンが、ふいに話しかけてみる。ラドヴィカの眼が一瞬、凍てついた刃のように自分の眼を刺した。この瞬間、ラドヴィカたちは自分を見下げていると確信した。そのまなざしはすぐに親しいものへと変じたが。だがそれでも、アンの頭は酔いが覚まされたかのようにはっきりとしだした。あの眼は、何かを蔑視する眼だ。貴族と貧しいもの、というよりはもっと別なものを――。

「楽しい、実に楽しい時間でございますわね。こんな楽しい時間はなかなかに持てないものでございますわ」

 ジェリが貴婦人めいた口ぶりで語ると、

「それはよかったわ」

とラドヴィカが急に冷めた口調で言った。

いや、口ぶり自体は何ら変わりないものだったが、鈴の鳴るような声が発される、唇の温度が冷えているようにアンには思えたのだ。アンの彼女らを不審に思わせる言葉は絶えなかった。

「ねえ、あなたたちご存知だこと?」

「何を、でございますか?」

「東洋の言い伝えではねえ、地獄でデイナーを食べると、そちらから戻ってこられないというのよ」

 くす、とこのラドヴィカの言葉にエリリカもほくそ笑む。

「そうねえ。でも、あなたたち、食べちゃったわよねえ」

「そうねえ。もしわたくしたちが地獄の使者なら大層、かわいそうなことになるわねえ」

 くす、くす。

 彼女らの微笑は絶えぬ。アンは背筋に氷が駆けていくような気がした。彼女らの窓に背負う月が、妖しく光を纏った気さえした。侍従も笑っている。姉妹も笑っている。

「まあ、おかしなことを仰います! こんな美しい地獄の使者がいたら、わたくしはいつまでもおともしたく思いますわ!」

酔ったように喚きちらすジェリの袖を連れて、アンは静かに、

「では私たちはこれで失礼します」

と言い放ち、部屋を辞した。

後には美しき貴族令嬢たちの微笑みだけが残されたかのように思えた。

「何よおあんたっいきなり失礼しますなんてっ貴族の方々に無礼だと思わないのっ」

 ジェリがそう叫びまわるのも気にせず、アンは彼女を連れて森へ出た。月が東に陰っている。もうすぐ夜明けがくる。早く、それまでにこの森を出てしまわねば。ふと、足もとがふらついた感覚を覚えた。急いて右足を出して、冷えきった地を踏みしめる。

「ねえちょっとアン、離して頂戴よっ私はあそこにいてあの姉妹とお近づきになるんだからっ」

あきれ果てたようにアンが叫ぶ。

「ジェリ、あなた、あそこにいて何も感じなかったの? あの令嬢たちは化け物よ! どうしてそれが分からなかったの?! 」

 いや、それは自分も、そうであった。あの時、話しているうちに、親しくなったような、自分が彼女らの唯一の友であるように錯覚した。違う! 断じて違う! 彼女らのあの眼は、あのまなざしは、自分たちを確かに、憐れんでいた。あれは、まるで自分が出荷される豚を見る目つきだった! おお、なぜ気が付かなかったのだろう! あの恐ろしい眼の凍てつく如くの冷たさを! 彼女らは友を持たぬ! いや、要らぬのだ。孤独が唯一にして最高の夫であり友人なのだ!

「ともかく、この森を出ないと死んでしまうわ! 早く出ましょう」

 そう言い切る前に、アンの手は手ひどい報いを受け、ジェリにはたかれ、ジェリの手を取り落とした。

「ジェリ……?」

「あんた、何言っているのよ! あの方たちは人間よ! あんたなんかよりずっと人間で、美しくて、高貴なのよ!」

  アンが必死で説き伏せんとする。

「ジェリ、でも……! ここにいては殺されてしまうわ! あなただってわかっているでしょう!? この森も、あの姉妹も変だわっ」

 「あんた、何言ってるのよ! あんなに親しくしてくださった方がたが、私を喰らうはずないでしょう!? ラドヴィカの呪いなんて嘘よっ」

「ジェリ! あっ」

 ジェリはすぐさま、アンの手を払っていずこへか逃げ去ってしまった。アンは一人になってしまった。いずこからか狼の遠吠えが聞こえてくる。

「この森を出なくては……」

そして助けを呼んで、ジェリを救ってもらわなくては。そうは思うのだけれど、足が思うように動かない。まるで氷に潰されているように重くて、身動きすらままならなかった。それでも必死に足を動かし、もがいて、どれくらい歩いてきただろうか。アンの眼前には変わらぬ木々と、美しき青の館がそびえた。

「ああ……」

 あの館の中で、舞い踊る女たちが見える。暖炉の傍で、女たちが楽しく手拍子をとりながら舞い踊っている。それはすべてが燦然と輝いてみえた。けれどその女たちは月光に透かすとみな、骸なのもよくわかっていた。骨たちがけたけた笑いながら、ものものしい月光のなか舞い踊っているのであった。

「早く、逃げないと……ああっ」

 アンは足元を何かにとられた。足元は沼になっていた。沼は、生き物かのように、アンの足をよく食んでいった。アンは膝まで沼に喰われて、身動きできなくなった。

「ああっ誰かっ誰かあっ」

「呼んでも誰も来ないわよ」

 眼の前に突然、フリルのついたドレス姿の少女たちが現れた。それはまごうことなきラドヴィカとエリリカの姿である。二人は実に美しく笑っていた。もうじき死に絶える月光の中、燦然と。

「あなたみたいに賢い子は嫌いじゃないから教えてあげる。わたくしたち、本当はこの森に咲く紅薔薇なの」

「え……」

 ラドヴィカが言うのに、アンが絶句する。

続いてエリリカが。

「だから、この森に入る人間たちを喰らって肉と皮と血を浴びて大人になっていくの。どう? 吃驚したでしょう?」

 エリリカが実に艶に微笑む。あれこそが自分を見下げた、侮蔑と憐れみの眼だ!

 「ねえ。だからあなたもおとなしく食べられて頂戴な。お願いよ」

 ラドヴィカの傲慢な願いなど聞いてあげられる訳もない。そのうちに、エリリカの細い白魚のような指が頬に這ってきた。

「ねえ。お願い?」

「ひっひいいいい」

アンは必死にもがくうちに、自由になった足先を感じた。その足が動くうちに、必死になって逃げ惑い、沼を脱し、ついには森を脱した。

「あらあら、逃げちゃったわねえ。エリリカ」

「そうねえお姉さま、まだまだ冗談で遊んでみたかったのですけれど」

「冗談も通じない子って、厭あねえ」

 二人は笑いさざめきながら、館に戻っていく。侍従が深くこうべを垂れる。館にはジェリの姿があった。彼女は夢中になってアンテーク・ジュエリーの箱に顔を突っ込んでいる。そのジェリの背に、妖しい影が二つ、映り込んだ。一つは人の姿をしているが、一つは柱に巻き付いた薔薇の影を描いている。

「まあ、つまらない子には」

「冗談を言ってあげる必要もないのですけれど」

 二人は再び微笑を湛えながら、ジェリの背後に近寄っていった。ジェリが気配に気が付いて、振り返ると。

そこには化け物の姿があった。

「ああ、誰か助け……て」

 食事を終えた姉妹に、暖炉に槇をくべた侍従が声をかける。

「いかがでしたか?」

「つまらなかったわ。またお友達も出来なかったし」

 ラドヴィカが口を尖らせ、エリリカがまあ、と目を細める。白髪の侍従がふ、と口角を上げる。

「たまにはこうした趣向も楽しゅうございます」

 そうして彼は眼帯を外した。そこにはおどろおどろしい火傷の痕がありありと残っていた。

「お前の傷はまだ治らないのね。わたくしたちの傷も、いまだ残っているわ」

 ラドヴィカがふうと嘆息して、外を見やった。月光の中をわたる風が森をさざめかせている。

「あの子は戻ってしまったかしら」


「そうでしょうとも。ところで、お食事はいかがでしたか」

「まずかったわ。小骨が喉にひっかるし」

一方、森を抜けたアンは恐怖によって、別人のように顔が変貌していた。目はくぼみ、頬がげっそりとこけていた。二人の不在に気づき、捜索にかがり火を持った村人たちが、慌てて森からふらふら出てきたアンに駆け寄る。

「アン! 大丈夫かっ森を抜けられたのだなっ」

「うちの娘はっジェリはどこなのっアン答えてっ」

 アンは詰め寄るジェリの母親を放って、娘を案じた父の胸に身をうずめて泣いた。泣きじゃくった。

「アンっそれで、うちの娘はどうしたのっ」 ジェリの母親が必死の形相で詰め寄ってくる。それへアンは涙に濡れた頬を薄い日の光にまどろわせ、答えた。

「知りませんわ。ひとりで私を放ってどこかに行ってしまいましたもの」

 この声音に、村人たちの心中におののくものがあった。この娘は、こんな娘だったか?

かつてはいじめられて泣きじゃくっていたのに。

不謹慎ながら村人の一人は、このはきとした声に高貴ささえ感じた。

「だから私、知りませんの。あの子がどこへ消え去ろうと、森に食べられようと、知ったことではございませんわ」

 ジェリの母親はこれを聞いて失神した。また、アンは泣きじゃくって父の胸に顔をうずめた。その口元がうっすら笑っているのは、もしかしたらラドヴィカたちの置き土産かもしれない。


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