8.そしてまた、恋をしよう

 その年の九月、予定通り榊は日本を発った。

 わたしは、見送りに行かなかった。その日にはもう学校が始まっていたし、もともと榊と顔を合わせるのは、あの日で最後にしようと決めていたから。

 直接『好き』とも『行ってらっしゃい』とも言わなかったけど、でもあの時の榊の返答を聞いて、わたしの想いは伝わってくれたのだということがちゃんと分かったから、すごくホッとしたし、嬉しかった。

 榊も嬉しそうにしてくれていたし……うん。きっと、伝わってるはず。わたしだって、あの言葉に込められた榊の想いを、ちゃんと受け取ることができたんだから。


 榊が行ってしまってからも、街中の大学へは、柊先生に会って話をするという目的でたまに行くこともあった。けど、榊の研究室があった場所にはもう行かなくなった。本人がいないのだから、当然といえば当然だけど。

 わたしたちの間にあった出来事の一部始終について、柊先生には少し話した。柊先生はちょっとだけ寂しそうに微笑んで『それが、君たちの出した答えだというなら、私はそれ以上何も言わないさ』と言ってくれた。

 また、『君たちの幸福を、祈っているよ』とも。

 学校や家では、とにかくがむしゃらに勉強した。同じく受験を控えた晴菜と励まし合いながら、互いの面接練習に付き合ったり、ちょっとした勉強会を開いたり。

 わたしはわざと、毎日を多忙に過ごした。

 榊と離れた寂しさを、紛らわせたいという想いも確かにあったけど……それ以上に、早く大人になりたいという想いの方が強かった気がする。

 わたしが選んだのは、看護学校。

 もともと誰かのお世話をすることが好きで、困っている人を放っておけない性格でもあったから、人の生死にかかわる内容を扱うという責任はそれなりに大きいと知っていても、興味があった。

 わたしにできることで、誰かを助けられたら。救ってあげられたら。それだけで、わたしには生きている価値があると思う。

 いつか、わたしの傍にいる大切な人が身体を壊した時にも、この仕事に就けば一番に手を差し伸べてあげられるしね。


 看護学校での生活と勉強、そして実際の看護師としての仕事。

 そうやって徐々にステップアップしていく過程の中で、わたしはたくさんの考え方に触れた。これまでわたしの生活の中心はほとんどが榊だったから、可能性が広がったような気がして……時々受け入れられないような意見もあったけど、それでも新しいことを知るのは面白いし、続々と知識を得られるのは嬉しかった。

 そうして一つ大人になったわたしは、榊との関係性について、改めて思うようになったことがあった。

 榊と過ごしていた日々を当たり前と思っていた、あの感情は……もしかしたら、一種の磨り込みのようなものだったかもしれない、と。

 幼い頃から、わたしの傍にいた異性といえば、それこそ父親か榊くらいのもので。それ以外の人のことだってもちろん何となく知ってはいたし、告白を受けたことも何回かあったけど、それでもわたしから榊以外の人に近付いていこうとは、したことがなかった。

 だからとにかく、恋をしようと思った。別の男の人を、好きになってみようと一生懸命努力した。

 けど、そのたびに付きまとう違和感は、どうしても隠し切れなくて。恋愛スキルだけはそれなりに上がったけど、結局どれもこれも、案の定長くは続かなかった。

 恋愛って、こういうものなの?

 榊に対して常に感じていた安らぎも、最後に会った日に感じたどうしようもないときめきも、打ち震えるような喜びも。相手のために尽くしたいという狂おしいほどの気持ちも。一人で榊を想い悩んでいた時の切なさも、苦しさも。他の人との恋愛じゃ、何一つ再現できなかった。

 あれを、本当の恋だというなら。榊こそがわたしにとっての、唯一の存在だったというのなら。

 榊に会えない限り、わたしはこの先一生、恋なんてできないだろう。


    ◆◆◆


 一時帰国していた刑部先生と一緒にドイツへ発った俺は、日本にいた頃より恵まれた環境で、伸び伸びと研究に没頭した。

 新しい環境は何もかもが新鮮で、わくわくしたけど、やっぱり難しい。海外暮らしの長い刑部先生にいろいろ教えてもらいながら、ドイツでの生活や周りとのコミュニケーションの取り方などは、手探りで何とかやっていた。

 刑部先生はあれから、ゆかりの話を出さない。元々プライベートにおける話は互いにほとんどしないから、不思議でもないんだけど。

 日本を発つ少し前、ゆかりとのことで軽く自暴自棄になっていた俺を、刑部先生は心配してくれていたという。伊織先生からそれを聞いていたから、俺は開口一番刑部先生に迷惑をかけてしまったことを謝った。

 刑部先生はあの上品な笑みを浮かべて、『これから共に、頑張ろうではないか』とだけ言ってくれた。何も言わなかったけれど、俺の中に芽吹き育っていた気持ちについて、密かに察していたのかもしれない。

 また日本にいた頃お世話になっていた伊織先生とは、今でもたまに手紙を交換する。内容は互いの近況とか、研究のこととか、主に伊織先生のノロケ話とか、そういうことだ。

 伊織先生はゆかりと今でも交流があるらしく、時折『このような世間話をしたのだ』なんていう内容が手紙に書かれていることもある。胸はちくりと痛むけど、その度に「あぁ、ゆかりは元気にしているんだな」と思えてホッとする気持ちの方が大きかった。


 互いに決意を――遠まわしな愛の言葉を伝えあった、あの後。

 ゆかりには家事のコツや、俺の気に入りのハーブティーを淹れる方法などを教えてもらった。

 もちろんそれは、十分役に立った。散らかす癖は相変わらず治らないままだけど、部屋の掃除にもだいぶ慣れてきたから、前みたいな有様には滅多にならない。

 料理の方は基本的に外食が多いので、あんまり実践する機会はなかったけど……それでも休日などは、たまに作ったりすることもある。ゆかりが作ってくれていた味には及ばないけど、それでもなかなか上達した方じゃないかと、我ながら思う。

 普段は研究に没頭したり、お偉いさん方や現地の同僚たちと関わったり、日常会話程度のドイツ語を覚えたりするのに忙しくて、一人きりで考える余裕なんてなくて……でもその方が、むしろ楽かもしれなかった。

 例えば夜に、何もすることなく一人きりで部屋にいる時。

 あの日のことを思い出して、胸が苦しくなる。ゆかりの泣き顔、力強く頼もしい笑顔、ほんのりと甘さを伴った言葉、抱きしめた時のぬくもり……。

 どれほど時間が経っても、忘れられない。

 恋愛なんて、ゆかりと一緒にいた時にもそれなりに経験している。まぁそれもほとんど、ゆかりとの妙に親密な(決して怪しい意味ではない)関係が原因で駄目になって……もっとも、そんなこと少しも後悔はしていないのだが。

 思えば俺は、あれ以上の想いを誰かに抱いたことがあっただろうか。

 あれほど大切に思い、傍にいることが何より当たり前で……駄目なところも何もかも、自分の全てをさらけ出してもいいと思える。そんな相手が、ゆかり以外にいただろうか。

 彼女は俺と違って、まだまだ若い。今頃俺のことなんて――あの時の言葉なんて全部忘れて、新しい男を愛しているかもしれない。

 それでも仕方ない、と思う。

 俺の方から彼女を手放したのだから、その結果彼女がどんな場所へ飛んで行ってしまおうが、俺にはどうにもできない。

 だけど、それでも。

 あの時の言葉通り、もしもう一度ゆかりに会えたら。もし、ゆかりがあの日を忘れることなく、変わらず俺を想ってくれていたら。

 その時俺は必ず、もう一度――いや、これまで以上にあの子を愛するだろう。この腕に閉じ込めて、あの時できなかった愛情表現を飽くことなく繰り返すだろう。

 ただ願わくは。

 この先何年かかったっていい。その『いつか』が、温かく穏やかな幸福が、俺のもとへやってきてくれますように。


    ◆◆◆


「一之瀬さん。わざわざ見送りありがとう」

 キャリーバッグを片手に笑みを湛える、黒いスーツの上に茶色のダウンジャケットを着た、すらりと背の高い男性。年の頃から言えば、おそらく榊より少し下くらいだろう。

 その後ろでは、人波がぞろぞろと動いていて、時折アナウンスや飛行機の音があちこち響いている。

「今まで数えきれないほどお世話になったのですから、当然です。どうかカナダでも、お元気で」

 この人は勤務先の病院の先輩看護師で、このたび医療の世界最高基準を誇ると言われているカナダへ留学することになった。まだ右も左も分からなかった新人時代からお世話になって、二年というそれほど長くない間だったにせよ、返しきれないほどたくさんの恩がある。なので、わたしはせめてもの想いでこうして空港まで見送りに来たというわけだ。

「いろいろ吸収してくるよ。せっかく、こんな機会もらえたんだからさ」

「頑張ってください。わたしのこと、忘れないでくださいね?」

「もちろん」

 わざと軽めに発したわたしの言葉に、茶目っ気たっぷりの表情で答えてくれる先輩。こういうところが彼のいいところだし、好きだと思う。

 もちろん、恋愛的な意味ではないけれど。

「じゃ、そろそろ行くわ」

「はい」

 くるりとわたしに背を向け、革靴をこつこつと鳴らしながら搭乗ゲートへ向かっていく先輩。その後ろ姿を名残惜しく眺めながら、わたしは彼が見えなくなるまで手を振り続けた。

 やがてゆっくりと、その手を下ろす。しみじみと別れの寂しさを感じながら、わたしは何気なくぐるりと空港内を見渡した。


 ――こつ、こつ、


 かつて、榊も発ったのであろう、この場所。

 夢と希望と、一抹の寂しさを抱えながら、出発していく時の気持ちは、一体どのようなものなのだろう。


 ――こつ、


 わたしはそんな気持ちを感じたことなどないし、これからもきっと感じることはないのだろうけれど……。


「……ゆかりちゃん?」


 おもむろに、誰かから名を呼ばれた。

 聞き覚えのある男の人の声に、久しぶりにどきりと胸が高鳴る。はやる気持ちを抑えながら、わたしはあえてゆっくりと、そちらへ振り向いた。


「やっぱり、そうだ」


 そう言って、わたしに向けて親しげに笑う男性。刻まれた目尻のシワが、いい具合に年月を重ねたことを物語っている。

 グレーの上等そうなスーツに、黒のトレンチコートを着たその人は、この場所に降り立って間もないのか、大きなキャリーバッグを持っていた。黒の革靴は、おろしたてなのかぴかぴかと光沢を放っている。

 着ている服も持ち物も、纏っている空気も、あの頃とは圧倒的に違う。

 けど、すぐに分かった。

 その根本は一緒にいた頃と何一つ変わっていないって、そのふにゃりと力の抜けた笑顔を見たら、すぐに悟ることができたから。

 きっと向こうも、同じだ。

 だからすぐわたしに気付いて、声を掛けてくれたのだろう。


 今すぐ抱き着きたくなる衝動を堪えながら、わたしはわざと余裕に見えるような笑みを浮かべて、その人の――今までずっと忘れることのなかった、愛しい彼の名を、呼ぶ。

 準備はもう、とっくにできている。

 二人の物語は、その瞬間、再び動き始めた。


「久しぶり、榊」

 ――高みへ上り詰め、今や周りを魅了してやまないだろうあなたと。


「久しぶりだね、ゆかり」

 ――花咲き綻び、大人の色香をその身に纏い始めた君と。


 さぁ。もう一度、恋をしよう。

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