7.いつかまた、交わる時が来るなら

 晴菜と話してから、わたしはたくさん考えた。榊への想いは、どのようなものか……そしてわたしは、これからどうしたいのか。どういう道に進み、どういう大人になりたいのか。

 結論を出すのにずいぶんと時間はかかってしまったけど、あれこれ悩み考え抜いた末、今はすっきりした気分になれていた。


 その日、パソコンで進学先候補の大学について少し調べていたわたしは、休憩しようと背伸びしたついでに、ふとカレンダーへ目をやった。

 榊が日本を離れるまで、もうそれほど猶予はない。

 迷ったけど、どうしてももう一度、榊に会わなくちゃいけなかった。榊に、わたしの想いを伝えたかった。

 この日は課外もなかったから、親に『遊びに行ってくる』と伝え、わたしは普段着と少しの荷物とともに家を飛び出した。飛んでいきそうな麦わら帽子を手で押さえ、太陽のぎらつく真夏の道を走っていく。

 行き先はもう、決まっていた。多分榊はまだ今日も、あそこに――いつもの場所に、いるだろう。

 流れる汗を拭う間も惜しくて、息も絶え絶えに、街中の大学へ急ぐ。

 夏休み中だからか、キャンパス内はほとんど閑散としていた。逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、意を決して足を踏み入れる。

 途中で鉢合わせた伊織先生は、わたしたちの事情を知っているのかどうかは知らないが、汗だくなわたしをとても優しい顔で見送ってくれた。

 そうして辿り着いた、いつもの研究室のドアの前。汗でべとべとになった身体を、息を弾ませながらタオルで拭いていたわたしは、中から聞こえてくる音にふと眉根を寄せた。

 何やら中から聞こえる、ドッタンバッタンという騒々しい音。

 遠慮がちにドアをノックすれば、慌てたように開いたドアの向こうから、ひょこりと榊が姿を現した。いつも着ている白衣を脱ぎ、カッターシャツを腕まくりした状態で、何故かうっすらと汗をかいている。

 夏とはいえ、研究室にはクーラーがかかっているはずだ。冷気がふわふわと漂ってきて、汗を拭いたばかりのわたしの額を心地よく撫でていく。

 不思議に思っていると、流れる汗を拭いながら、榊がいつかのように情けない苦笑を浮かべた。

「やぁ、また先を越されてしまったな」

「へ?」

「ちゃんと整理して、俺から君を迎えに行くはずだったのに」

 でも、だいぶ片付いたんだ。

 見て、と言いながらわたしを中へ促す榊は、得意気な顔をしていた。軽く首を傾げつつ、わたしは言われるがまま研究室へ足を踏み入れる。

 先ほどは見えなかった、部屋の全容に、わたしは驚いた。

 片付けの途中なのか、少し散らかってはいるものの、いつも見る研究室より数段綺麗に片付いている。下手したら、わたしがいつも掃除していた時より、整理されているかもしれない。

「これ……全部、榊が?」

「そうだよ」

 もう一度、汗を拭いながら榊がうなずく。

「ゆかりちゃんがいつもやってくれるように、順番にいるものといらないものを分けていって、ついでにいろいろ細かいところのホコリも取ったりして……ここまでやるのに、正味三日くらいかかっちゃったけどね」

 えへへ、と笑いながら頭を掻く榊に、込み上げるものを感じる。

 前へ進もうと決め、これまでできなかったことを一人でできるようになるために、努力を繰り返す榊。そんな彼を、とてつもなく愛おしく感じて。

「あ、そうだゆかりちゃん。ハーブティー、いつもどうやって淹れてた? あと、よかったら簡単な料理をちょっと教えてほしいんだけど……」

「榊……」

「ん?」

「……っ、榊……」

「えっ、ゆかりちゃん!? ちょっと、どうしたの!?」

 麦わら帽子を握りしめ、ぼろぼろと涙をこぼす。嗚咽交じりに名を呼べば、榊は泣いているわたしを見て慌てた。

 ……あぁ、駄目だ。こんなんじゃ。ちゃんと笑って見送ろうって、『行ってらっしゃい』って言わなくちゃって、決めたのに。

 それでも涙が止まらず、ただ泣き続けるわたしの頭に、伸ばされた榊の大きな手がぎこちなく触れる。壊れものを扱うようにわたしの髪を梳く指先と、ふわりと鼻をくすぐる制汗剤のすっきりとした匂いがなんだか懐かしく感じて、わたしの涙腺をさらに刺激した。

 何も言えないまま、うつむいて涙をこぼしていたら、頭に触れていた榊の手にぐっと力がこもった。あ、と思う間もなく、わたしは榊の手に抗うことなく引き寄せられる。

 いつも榊が使う制汗剤のそれと混じって、また違う香りが伝わってきた。

 榊の、匂いだ。

 そう気づいたら、何だか急にドキドキして。

 わたしの頬に当たった、榊の胸板がやけに広いこととか。わたしの涙が、榊のカッターシャツに染み込んでいく感覚とか。頭と背にふわりと回った、榊の意外にも引き締められた両腕とか。こうやって抱きしめられるなんて初めてだから、今まで間近で感じたことのなかった榊の体温とか……そういうことにいちいちドキドキしてしまって、身体が熱い。

 でも……何でだろう。すごく、安心するというか。ずっと、このままでいたいというか。胸はドキドキしているのに、頭はふわふわしてる。

 なんだか、不思議な気持ち。

「……あ、ごめん」

 いつもより近くで響く、榊の声。離れようとする身体を、わたしは榊の背に手を回すことで止めた。握りこんでいた麦わら帽子がわたしの手を離れ、わたしと榊の間にぱさり、と軽い音を立てて落ちる。

「ゆかりちゃん?」

「……このまま、」

 お願い。

 強張るように、榊の耳元で囁く。榊はわたしの言葉を聞くと、ホッとしたように小さく溜息をつき……それからためらいがちに、わたしをもう一度抱きしめ直した。

 互いの鼓動が、混じって伝わってくるような感覚。榊の心臓の音も、わたしと同じくらい速くて。

 あぁ、榊もこの状況にドキドキしてくれてるんだなぁ……。

 『好き』の気持ちを噛み締めながら、そっと濡れた目を閉じる。頬に流れ落ちた涙がもう一粒、榊のカッターシャツに染み込んだ。いっそこの溢れる気持ちも一緒に、榊の胸に染み込んでくれたらいいのに。

 どれくらいの間、そうしていただろう。

 ひとしきり榊の腕の中で涙を流したわたしは、榊の背に回していた手を下ろした。その気配に気づいたのか、榊も腕を緩め、そっとわたしの身体を離す。

 泣き腫らしたわたしの顔は、きっと酷いものだろう。女の子として、こんな顔を男の人に――しかも想う人に、真正面からまじまじと見られるのはどうなのかなぁと一瞬思ったけど、今そんなことを気にしている余裕はない。

 さっき床に落ちた麦わら帽子を拾い上げたわたしは、腫れぼったくなってちょっと開きにくい目を気合でぱっちりと開き、榊を見据える。ただ抱きしめ合っただけなのに、榊を――わたしたちを纏う空気はこれまでのものと全然違うような気がして、わたしは榊の顔を見るだけでもちょっと緊張した。

 でも、躊躇してはいられない。伝えるって、決めたんだから。

 麦わら帽子をもう一度握りしめ、すぅ、と息を吸う。榊も覚悟したのか、ふにゃりと照れくさそうな笑みを浮かべていた顔を引き締め、真面目な顔でわたしを見つめ返してきた。

 きりっとした大人の表情に、また顔が熱くなる。

 わたしは覚悟を決め、口を開いた。これから言おうと思っていたことを頭の中でぐるぐると考えながら、一言ずつ言葉を紡いでいく。

「榊」

「……なに?」

「わたし、待たないからね」

「うん」

 相槌を打つ榊の声は、この上なく優しい。また泣きそうになるのをぐっと堪えて、わたしは言葉を続けた。

「でも、いつかまた会えたら、その時は」

「……その時は?」

 治まっていた胸の鼓動が、少しずつ早鐘を打ち始める。口の中がからからに渇いているのは、きっと夏のせいだけじゃない。

「もう一度」

 麦わら帽子をぎゅっと力を込めて握りこみ、わたしは吸った息をそのまま吐き出すように、その先を一気に告げた。どうか伝わってほしいと、焦がれるほどに願いながら。

「もう一度、あなたに恋をしてもいいですか」

 ――これが、今のわたしにできる、精一杯。一世一代の、告白だ。

 わたしの言葉を聞いた榊は、一瞬目を見開き……それから心底嬉しそうな、今にもとろけそうな甘い笑みを浮かべた。

「俺も」

 発された声は、いつもより低く掠れて。

「いつかまた、会えたら。その時は」

 漆黒の瞳からちらりと垣間見えた、初めて見る男の人の色に、思わず物欲しげに喉が鳴る。長い間、一緒にいたはずなのに……知らなかった。こんな表情も、するんだ。

 すっと目を細め、ゆるりと口角を緩める。その一挙一動にさえ、胸の鼓動はいちいち新鮮に反応してしまう。

 あぁ、どれだけわたしはこの人のことを――……。

「もう一度君を愛しても、いいだろうか」

 先ほどから落ち着きなく高鳴り続けてきた鼓動が、榊の言葉を理解した瞬間、言いようもなく打ち震えるのを感じる。気恥ずかしさもあったけど、それ以上に嬉しさの方が勝っていた。

 この時、わたしは生まれて初めて、このまま時間を止めてほしいと……いっそ心臓が止まってしまってもいいと、そう、思えた。

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