6.放たれた雛鳥のゆくえ

 あれからわたしは、たくさん泣いた。これ以上どこからも、何も出ないんじゃないかってくらい、一人になるたび涙を流し続けた。

 街中の大学の、研究室に行かなくなって……榊に会わなくなってからも、一時だって榊のことを考えなかったことなんてなかった。わたしの中にはどんな時でも、榊がいた。

 焦がれるほど、会いたくてたまらない。その胸に飛び込んで、『ドイツになんて行かないで。これからも、わたしの傍にいてよ』って駄々をこねながら彼を引き止めて……小生意気に悪態を吐きながらも、今まで通り傍で甘えていたいと思うのに。

 でも、駄目。会えない。会っちゃいけない。

 当たり前だ。あんな勝手なこと言って、一方的に飛び出しておいて……今更どんな顔して、あの人と顔を合わせればいいというのだろう。それに、今会ったら確実に、わたしは再びあの人を困らせてしまう。

 第一……今榊は、留学の準備で忙しいはず。今会いに行ったところで、彼の邪魔をすることしかできないに決まってる。いや、むしろ会わせてすらもらえないかもしれない。

 留学を決めてしまった榊のことも、そのきっかけを運んできた刑部教授のことも、別に恨んでるわけじゃない。形はどうあれ、いずれはこうなる日が来るはずだったんだ。その時よりちょっと冷静になった、今ならわかる。

 ただ、馬鹿なわたしは、今までその可能性を考えたことがなかった。ずっと一緒にいられるものだって、錯覚していた。

 そんなの初めから無理なことだって、気付けなかった。

 だから……こんなにも、傷ついてしまっているんだ。榊を失う未来を、恐れているんだ。

 いっそ出会わなければよかったと、思うこともある。またはもっと早い段階から、あの人から離れていればよかったとも、考える。

 そうすれば、こんなにも辛い思いをせずに済んだのに。

 これまで知らない間に募り続けていた、あの人への恋慕という感情が、もう後戻りなんてできないほど大きくなっているという事実。それは、思いの外わたしのことを打ちのめした。

 この気持ちが生まれる前に、離れていればよかった。いっそ甲斐甲斐しいと言われるほどまでに、あんなにしつこく傍にいなければよかった。

 今更後悔したところで、もう遅いんだけど。


    ◆◆◆


 学校は今日で終業式を迎え、いよいよ明日から夏休みとなった。もっとも、受験生のわたしたちには明日からも課外授業があるので、ほとんど夏休みなんてあってないようなものだけど。

 近頃はまっすぐ家に帰るので、晴菜とは途中まで同じ道を通る。

 わたしの明らかな変化に、晴菜はきっと気づいているだろうけど、わたしの様子を見かねてか、何も言わない。

 ただ、切なそうな眼差しで、わたしを見ているだけだった。

 ――ごめんね、晴菜。もう限界。

 募りに募った想いを、どこかに吐き出したかった。

 終業式を終え、いつもより早く解放された帰り道。わたしは、隣を歩く晴菜に思い切って全部話そうとした。

「晴菜、」

「大学、最近は行かないんだね」

 晴菜の方も、ずっと気になっていたことを、今日こそわたしに聞こうと思っていたのかもしれない。わたしが晴菜の名を呼ぶのとほぼ同時に、晴菜の方からそう切り出してきた。

 唇を噛みつつ、わたしはうなずく。

「……晴菜、聞いてくれる?」

「なぁに」

 わたしに答えてくれる晴菜の声は、包み込むように優しい。母親に手を引かれる幼子のように、わたしは言葉を紡ぎだした。

「わたしはね、小さい頃から榊と一緒にいたの。物心ついた時から、榊はわたしの隣にいて。わたしはそれを、何の疑問も持たずに受け入れていた。わたしにとっては、それが日常だったの」

「うん」

「でもずっと傍にいられるわけじゃ、ないんだよね。もともとわたしに、榊を縛り付ける権利なんてなくて。榊は、わたしだけの榊じゃない。わたしが知ってる榊の姿だけが、駒込榊というわけじゃない。そんなこと、今考えたら当然のことだってわかるんだけど」

「うん」

「榊ね……九月に、ドイツへ行っちゃうんだって。研究者として成長できるって、今より恵まれた環境で、思う存分研究ができるって喜んでた。でもわたしは、それがあんまりにもショックで。榊がわたしの傍から離れていくなんてありえないことだと思ってたし、想像もしたことなかったから」

「……」

「当たり前すぎて、今まで気付けなかったの。わたしにとって、榊がどれだけ大きな存在だったか。榊に発破掛けて、研究室掃除して、レポートの採点手伝って、一緒に帰って、ご飯作って……馬鹿みたいな話して、笑い合って。そういう何気ない日常が、わたしにとってどれほど大事だったのか。どれほど、わたしにとって大きな支えだったのか」

 榊のことが……どれだけ、好きだったのか。

「馬鹿だよね、わたし。今更気付いちゃった。大切なものの存在に、消えそうになって初めて気づくなんてさ。ホント、情けないったら」

 そんな風だから、わたしはいつまでも前に進めない。榊と過ごした過去に囚われ、これからもぐるぐると悩み続ける。

 あの人のいない場所で、あの人を想いながら、どうすることもできずにこれからも、抜け殻みたいに過ごすんだろう。だって榊のいない世界なんて、楽しくもなんともないんだもん。

 いくら好きなことやったって、どれだけ年齢と経験を重ね続けたって、傍に榊がいなかったら……。

 悲痛な考え事に陥りながら、わたしは晴菜に全てを打ち明ける。あらかた話し終えてからも、黙り込み何も話さない晴菜に、わたしは小さく溜息を吐いた。

 ……あぁ、やっぱり呆れられてしまったか。分かっていたけど、辛いな。

 変なこと言ってごめんねと、呆れてるよねと、わたしが口にしようとしたその一瞬前。

「……ゆかり」

 ポツリと、晴菜がわたしを呼んだ。

 吐息のような、今にも消え入りそうな声に、壊れものを扱うみたいにそっと耳を傾ける。

「わたしが、保育士を目指している本当の理由を、教えてあげるよ」

 それは一見、これまでの流れとは関係なさそうな話。

 けど、これから晴菜が話すであろう自らの身の上話に、わたしに対する助言があるような気がして、わたしは彼女の言葉を一言一句漏らすことなく聞かなければならないと思った。

 わたしの聞く体制に気付いたのか、晴菜は笑みを浮かべながら語り始める。自らが保育の道を志すようになった、きっかけを。

「保育園の頃、保育体験に来ていた中学生の男の子に出逢ってね。初恋だったその男の子に……中学生の頃、再会したんだ。その人はわたしが当時保育体験で行った、保育園の先生だった」

 その表情は、いつも保育のことについて語る時のそれよりも数段優しく、慈愛に満ちていた。

「それまで小さい子供と関わるのはあんまり得意じゃなかったんだけど、その時過ごした三日間は、大変だったけどとっても充実した日々だった。子供のお世話をするのって、こんなに楽しいことだったんだって……気付いた」

 そのことに気付かせてくれたのは――……初恋の、あの人だった。

「あの人は、わたしに色々なことを教えてくれた。子供とうまく関わるコツとか、あの人自身が保育の道に進むことになったきっかけとか。それから……中学時代に出逢った、幼いわたしに対して抱いていた想いとか」

 晴菜は詳しく言わなかったけれど、わたしには分かった。

 彼女が幼い頃に出逢った『あの人』もまた、晴菜をかけがえのない存在だと思っていた。きっと、彼が保育の道に進むきっかけは、他でもない晴菜だったんだ。

「保育体験が終わってから、わたしはあの人に手紙を書いた。最後のラブレターのつもりだった。でも……」

 そこで晴菜は、ふ、と目を細める。まるで誰か遠くにいる人のことを――話に出てきた『あの人』のことを、想っているとでも言うかのような。

「あの人がくれた返事には、約束が書かれていた。いつか、あなたを迎えに行く……って」

 やわらかなものを、崩れないよう慎重に、両手ですくい上げるような……そんな、ひっそりとした優しさ。脆い花弁がこぼれないよう、美しい花をそっと摘むときのような、慈しみに満ちた声と表情。

 これまで秘めてきたのであろう彼女のひたむきな想いを、直接目にした気がして……話を聞いているだけで、ドキドキした。

「その約束が、本当かは分からない。あの人はわたしのことなんて忘れて、違う人と恋をするかもしれない。でも、わたしにはあの人からもらえた言葉で――……それだけで、十分だった」

 それでももし、いつかまた、会える日が来たら。

「もしいつか本当に、あの人が本当にわたしを迎えに来てくれたら……その時には胸を張って、あの人と対等にいられるような、そんな立派な大人になっていたいって思った。子供達からも愛されて、親御さんたちからも信頼されるような……そんな、あの人みたいな保育士になりたいって」

 それまで前を見ながら話を続けていた晴菜は、おもむろに立ち止まり、そこでようやくわたしに顔を向けた。

「ねぇ、ゆかり」

 聖母のような優しさに満ちた、穏やかな微笑みに、どきりとする。

「わたしには、あなたたちの絆の深さがどのようなものか、詳しくは分からない。けど……物理的に距離が開いてしまうくらいで、今までの二人の想い出は、絆は、全部消えてしまうものなのかな」

 寂しそうに言われた一言に、ハッとする。

 わたしたちが過ごした日々は、そんなに浅いものじゃない。わたしにとっては、人生のほとんどを占めている。

 榊にとっても、そうであってくれればいいと、願っているけど。

「彼は、決意するまでにたくさん悩んで、迷っていたんでしょう? それって、ゆかりの存在があったからなんじゃないかなって、わたしは思うよ」

 わたしがいたから、榊は留学を決意するのに、迷っていた?

「そして……留学を決めたのもきっと、ゆかりの存在があったから」

 わたしが……?

「それって、どういう……」

「彼は、前に進もうとしている。自分自身のために、それからゆかりのために。だから、日本に残るゆかりができることは……そんな彼の門出をしっかりと見送って、同じように自分も、前に進むこと。そうでしょ?」

 ――榊を見送り、わたし自身も、前に。

「互いに成長した姿で、もう一回会えたら。それって、すごく素敵なことなんじゃないかな」

 今は、辛いかもしれないけど……これは、絶対に経験しておかなければいけない、一時の別れのはず。

「また会えた時、二人がどんな選択をするのか……それは、自由だよ。でもね、今そんな風に立ち止まってくよくよしてちゃダメ。ゆかり自身も、前に進まなきゃ」

 だから……ね?

 晴菜の言うことは、最後まで聞かなくても分かる。わたしはただ、胸をいっぱいにしながら、小さくうなずいた。

「わたし……榊に、もう一回会ってくる。ちゃんと面と向かって、行ってらっしゃいって、言わなくちゃ」

 わたしの決意表明に、晴菜は笑みを湛えたまま静かにうなずく。

「それでね、晴菜」

「うん」

「進学先……決めて、たくさん勉強する。榊にまた会えた時、背伸びしない姿でいられるように。一回り成長した姿を、榊に見せられるように」

「うん」

「わたし、頑張るから。だから、晴菜も立派な保育士になってね」

「ありがとう」

 ゆるりと、晴菜は嬉しそうに目を細めた。そんな彼女に、わたしもまた、力強く微笑みを返す。

 閉ざされていた目の前の扉が、今、まばゆいほどの光と共に大きく開かれたような――そんな心地を、覚えた。

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