5.囲い続けた男の慟哭と決意
出て行ったゆかりを追いかけることもできないまま、一人きりの研究室で、俺はただ為す術もなく立ち尽くす。
最後に見た彼女の横顔に、きらりと光った一粒の涙が、俺の心に刻印のように焼き付いた。きっと俺は、あの美しくも悲しい光景を、二度と忘れることはないだろう。
「ごめん、ゆかり……」
俺の贖罪は、あの子にはもう届かない。
正しいことをしたはずだったのに、何故か取り返しのつかないことをしたような、すっきりしない奇妙な……むしろ重苦しいほどの、嫌な気分だった。
俺なりにたくさん悩んで、ようやく決めたことだった。
それなのに……俺の選択が、告白が、君を逆に苦しめることになるなんて。君にあんな顔をさせ、悲しませてしまうなんて。
薄々感じてはいたけど、やっぱりショックだった。
――全部、俺のせいだ。
こうなることは、これまでに幾度も望んできたことだったはずだ。
この年で准教授になれたという、かつて人生最大とまで思われたほどの幸運から、さらにステップアップした、これこそもう至福の……今死んでもきっと後悔なんてしないだろうというほどの、とてつもない幸運。
研究発表という場が設けられ、そこで論文を発表する機会を頂くたびに、これが誰かの目に留まって、スカウトされて……なんて夢物語を何度も思い描いた。まさかそれが現実のものになるなんて、思いもしなかったけど。
大学教員として、一研究員として。今の位置でとどまることなく、さらに成長したかった。そのために、もっと勉強したかった。そのための舞台をあつらえてくれた、刑部先生たちには感謝の言葉もない。
留学を決めたのは、憧れの舞台で思う存分研究をしたかったから。いずれお偉いさんに認められ、著名な研究者になることが、夢だったから。
そして、何より……長年囲い続けたあの子を、手放してあげるにはいい機会だと思ったからだった。
辛かったけど、二人のためにはこれが最善のことだって。俺だって一応は大人だから。これでも、たくさん悩んだんだ。
今まで俺は、あの子に――ゆかりに、甘えすぎていた。
年下の彼女に、恥も外聞もなく、ただありのままに身を任せていた。彼女は年の割にしっかり者で、元来のおせっかい焼きだから仕方ないなどと、自分に言い訳をして。
本当はもっと早く、飛び立たせてあげなければならなかったのに。
俺は、知らないうちにあの子から自由を奪っていた。あの子の行動から何から、全てを縛り付けていた。俺の隣から、離そうとはしなかった。
だから、彼女を不用意に傷つけてしまったんだ。
◆◆◆
――もう、信じられない。何をどうしたら、こんなに散らかるわけ!?
まだまだ記憶に新しい、彼女の声が聞こえる。
この場にいない少女の幻聴が聞こえるようになるなんて、俺ももう重症どころか手遅れに近いかもしれないなぁ……なんて心の中で思いながら、一人自嘲の笑みを浮かべた。
彼女はあれ以来、ここに来なくなった。俺の方から突き放し、傷つけたのだから、当然だろう。
留学の一件で、今までよりさらに忙しくなった仕事や研究に没頭していたら、片付いていた部屋はあっさりと散らかり、手が付けられなくなった。いつもなら、ゆかりが片付けを手伝ってくれるのだけれど……。
もう自分で片づける気にもなれない。このままでいいや、なんて本当に堕落もいいところだと思う。
ソファの上に散乱した荷物を適当に避け、一人分のスペースを作る。何をする気も起きないまま、どっかりとそこに腰を落ち着けた。
ハーブティーを飲みたいと思いつつ、給湯室まで行くのはことさら面倒だと思い、結局諦める。こんな時にあの子がいてくれたら……なんてまた考えて、自分の思考の浅はかさに思わず笑みが零れた。
目を閉じれば、思い出すのはやはりあの子の――ゆかりのこと。
いつかは手放さなければならないと、分かっていた。
それでも、もう少しだけなら、と何度も自分に言い訳をして。そうやって今まで、彼女を見えない鎖で縛り付けていたのは、他でもない俺だ。
本当は……もうずっと前に、解放してやらなければならなかったのに。それがどうしても、惜しくて。手離すなんて、できなかった。
あの子を隣に置いておきたかったのは、単なる俺のエゴだ。
あの子がいてくれたから、俺は自分の仕事や研究に没頭することができた。あの子のおかげで、俺はのびのびと、自分のペースでここまでやってこれた。
あの子がいなかったら……俺は今頃、どうなっていたんだろう。
そしてこの先、これまで当たり前のように傍にいたあの子がいなくなって……俺はいったい、どうなるんだろう。
自分で決めたことなのに、既に決心が揺らぎ始めている。いつの間に俺の中で、彼女の存在がこんなにも大きくなっていたのだろう。
――ホントに榊は、わたしがいないと何もできないんだから。
あぁ、そうだよ。ゆかり。
俺は君がいないと、本当に駄目なんだ。結局俺は、自分一人じゃ満足に生きられないような、どうしようもない大人なんだ。
囚われていたのは、むしろ俺の方だったのかもしれない。
俺はずっと前から、あの子のことを――……なんて、今更気づいたって遅いことくらいわかっているのだけど。
また一つ、俺は大きな溜息を吐いた。
――コン、コン。
やたらにゆっくりと、ドアが叩かれる音。来客の合図だ。
この音は、ゆかりではない。長年一緒にいたから、あの子のドアの叩き方くらい音だけで判断できる。もっとも、彼女ならノックとほぼ同時に『榊ぃ』と間延びした声がかかるはずなのだが。
生徒たちは今夏休み中で、大半が来ていないはずだが、たまたま家から近い者が質問に来たのかもしれない。それか、まだ大学にいる他の教員か……それとも、刑部先生か。
どのみち億劫だと思いながら、俺はソファに沈んだ身をゆっくりと起こす。ソファが揺れると同時に、上に乗っていた何か――おそらく、研究用の資料か何かだろう。よくわからない。というかもうどうでもいい――がばさり、と数冊床に落ちた。
恐ろしく散らかった研究室を見られることになるが、まぁ仕方ない。
「榊くん、入るよ」
俺が立ち上がり、ドアの方へ足を向けたのとほぼ同時に、ガチャリとドアが開けられた。そこに立っていたのは、予想通りのような予想外のような、人物。
「
「いや……すごいことになっているね」
俺がさんざん散らかした研究室を一瞥し、苦笑気味にそう言ったのは――……俺と同じ大学教員であり、普段からお世話になっている先輩の教授こと、柊伊織先生だった。
「散らかっていてすみません、伊織先生。お話なら、こんなとこじゃなくてもっと別の場所で……」
「いや、構わないよ。研究者の部屋などどこだってこんなものだし、私の研究室も実際似たような有様だしね……失礼するよ」
のんびりとした仕草で、ソファに散乱していた荷物を軽く整理して端に避けると、伊織先生はそこへ腰かける。俺もまた、先ほどまで座っていたスペースへと戻り、元のように腰を落ち着けた。両手を組み、うつむきがちな姿勢で彼の言葉を待つ。
「刑部先生に聞いたよ」
伊織先生は間髪入れずに、本題を口にした。それだけでもう、彼が何を言おうとしているのかがあらかた分かってしまって、俺はひやりとする。
「ドイツに留学することになったそうだね。まずは、おめでとうと言うべきか」
「……ありがとうございます」
祝いの言葉を言われても、素直に喜べないし、心は一向に晴れない。そんな俺の複雑な気持ちを、伊織先生はとうに見越しているのだろう。俺の反応に眉をひそめた。
「出発は、九月というじゃないか。あとひと月もないというのに……刑部先生は、君を心配していらっしゃるよ。ここ一か月ほど、しおれた青菜のごとく元気がないと思ってはいたが」
しおれた青菜とは、またあんまりな例えだと思う。けれど、そう言われても仕方ないくらい、あの日以来俺はすっかり生気が抜けてしまっていた。
「……あぁ、そうだ」
そこで伊織先生は、何かに気付いたかのように声を少し大きくする。これ以上何も言わないでほしいと思いながらも、それを遮る気にはならなかった。
そして、伊織先生は……俺が今一番触れてほしくないことについて、切り込みを入れ始めた。
「ゆかり君、来なくなったね」
「……」
明らかに動揺し、肩を落とす俺を、伊織先生は笑うこともなく、ただ眉を下げながら心配そうに見つめてくる。
何も言えずにいたら、伊織先生が再び口を開いた。
「ねぇ。君は、あの子がいない場所で成長するために、留学を決めたのではないのかい。あの子を、解放してあげるために」
伊織先生の言うことは、図星だ。だからこそ、胸が痛む。
「だったら」
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、伊織先生は先ほどよりも幾分か厳しめの、硬い声で続けた。
「おせっかいな言いぐさだとは思うけどね……いつまでも君がそんなんじゃ、成長なんて望めないと思うよ。研究者としても、一人の男としても」
もちろん、ゆかり君だって喜ばない。
ひっそりと告げられたその言葉に、どきりと心臓が跳ねる。最後に会った時の、彼女の表情を思い出して、その感情とシンクロするように、どうしようもなく苦しく、悲しい気持ちになった。
「これは、あくまで私のこれまでの経験からの意見だが……私には、近頃しみじみ思うことがあるんだ」
人生経験は、伊織先生の方が圧倒的に長い。そんな彼の言葉なら、何だって受け入れられる気がした。
無言でもって、彼の次の言葉を待っていると、伊織先生はたっぷり時間を置いたあと、呼吸するようにひっそりとした口調でこう言った。
「惚れた女の幸せも祈れないで、何が男だい?」
ねぇ、そう思わないかい。榊くん。
ハッとして、思わずうつむけていた顔を上げる。真摯に、それでいてどこか遠くを見ているかのように俺の方を向く伊織先生が俺の目に入る。その言葉には、やたら説得力があった。
現在新しい恋人がいる彼には、かつて離婚歴があると聞いている。前の奥さんのことを思い出し、懐かしんでいるのだろうか。その幸せを、伊織先生は今でも祈っているのだろうか。
「手放すと決意したからには、新しく旅に出る雛鳥の前途を祝してやらねばならないだろう。その行く末を、幸せを、焦がれるほど祈りながら、自分もまた頑張らなければならないと躍起になるだろう。普通は、そうじゃないか?」
雛鳥という言葉が何を――誰を表すかなど、一目瞭然だ。
そうだ、俺は……あの子に幸せであってほしいんだ。できることなら、俺のいない場所ででも、あの子には幸福に生きていてほしい。
別離の悲しみも、苦しみも、乗り越えて……自らの足で、その輝かしい将来を、歩んでいってほしい。
これまであの子の人生を縛り付け、台無しにしてきた俺には……いずれ手離さなければならなかったはずの雛鳥に、惚れてしまった哀れな俺には、そうすることしかできない。
だから――……俺は、雛鳥を逃がそうとしたはずだった。根本の、大事なことをすっかり忘れてしまっていた。
こんなんじゃ、またゆかりに笑われてしまう。
「伊織先生、俺は」
やがて決意を口にする俺を、伊織先生は見守るように、優しく目を細め見つめる。
穏やかなその視線に誘われるように、俺は告げた。
「俺はまず、この部屋を綺麗にしようと思います。誰の手も借りないで、一人で……あの子が安心して、次のステップへ進めるように」
「うむ」
満足げに笑みを浮かべ、伊織先生はうなずく。
「では、私はこれで。手伝わない方がいいね?」
「はい」
分かったというように再び頷いた伊織先生は、座っていたソファから立ち上がる。その拍子に、積んであった資料などがいくらか崩れたが、まぁいいだろう。これから片付けるのだから、問題ない。
「ありがとうございました、伊織先生」
ドアノブに手を掛けた伊織先生は振り向かず、片手を上げる。そしてそのままノブを捻り、床に落ちていたものに少し足を取られつつも、いつもの滑らかな動きで研究室を出て行った。
「――よしっ」
さっきよりごちゃごちゃになった研究室を眺めながら、俺はいつもゆかりがそうしていたように、気合を入れながら腕まくりをする。
見ていてくれよ、ゆかり。君が傍にいなくても、俺は一人で立派な男になってみせるから。
だから君も、幸せになってくれ。俺のいない場所で、俺の存在なんて気にしなくてもいいから。思う存分、自分の選んだ道を全うしてくれれば、それでいい。
そしていつか、また会えたら。その時は……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます