4.それはいずれ、訪れるはずの
それからも何度か、刑部教授は榊の研究室へやって来た。
ゆっくりと、しかし確実に、榊の心を囲う壁を打ち崩そうとしているような……詳しくはよく分からないけど、そんな印象を受けた。
その度に、わたしは何故か怖くなった。今まで通りではいられなくなるのではないかという、そんな恐ろしい予感が脳裏を過ぎる。
その度に、首を幾度も横に振っては、暗い考えを打ち消した。いつものように榊の研究室へ足を運んでは、榊や来客の刑部教授にお茶を淹れてあげる、そんな日常が続いていく。
それは一見、いつも通りのようであったけれど……これまでとは決定的に違う、何かが確実にあった。
だって、榊は日に日に思い悩むことが増えた。その度にわたしにハーブティーを淹れさせ、わたしをしきりに傍へ呼ぶようになった。
榊の不安は、迷いは、確実に募っている。
榊が抱えているものが何なのかわからない――教えてすらもらえないわたしには、とにかく言われるがまま、榊の望むまま、今まで通り隣にいることしかできなかった。
一方学校では、進路に関するオリエンテーションやら面談やらが徐々に活発化してきた。高校卒業後に就職を考えている人たちは、既に対策を始めている。進学派も、またしかり。
わたしは一応進学の方向で、志望校をある程度絞らなければならない状況に陥っていた。担任に怒られて以来、自分のやりたいことを踏まえつつ他の大学のことをいろいろと調べてはいるけれど……どうにも、気が進まない。一つ一つに魅力は感じるのに、キャンパスライフを思い浮かべては人並みにわくわくするのに、気持ちは重いままで。
何が、わたしの邪魔をしているのだろうか。その正体は明らかなような気もするけれど、認めるのは癪だと思う。
まだ時間はあると、焦ったら逆に失敗すると、周りのみんなは言う。
でも……どうしたらいいのかなぁ。
今まで通りでいいと思いながらも、心のどこかには必ず、暗い影がちらついていた。何度打ち消そうとしても、それは同じことで。
誰にも――無論、自身のことであれこれ思い悩んでいるだろう榊になんて、絶対に――相談できないまま、日々はただ過ぎて行った。
そして……その日は、突然やって来た。
わたしたちの『今まで通り』を全てぶち壊し、わたしたちの関係を何もかもなかったことにしてしまう。そんな……残酷な別れの布石を投じられた、わたしにとってあまりに無慈悲なあの日が。
◆◆◆
いつものように研究室へ足を踏み入れたわたしを出迎えた榊は、今まで以上に思い詰めたような、それでいて何かを決心したかのような、今まで見たことのないほど張りつめた表情をしていた。
その緊張はわたしにも伝わってきて、無意識にごくり、と唾を飲む。
いつもならそろそろ散らかり始めているはずの部屋が、最後に掃除した時のまま綺麗であることに、一抹の不安と嫌な予感を覚える。
そして……案の定というかなんというか、重々しく開かれた榊の口からは、わたしを混乱に陥らせるのには十分な効果を持つ言葉が飛び出た。
「俺……九月から、ドイツに留学することにした」
「えっ」
ドイツ、という聞き覚えのあるフレーズに、ドキリとする。
『きみみたいな子が助手として――ドイツまで、一緒に着いてきてくれるなら』
そうだ、刑部教授が言ってたんだ。あの時は分からなかったけど、あの言葉の意味はそういうことだったのかと、今更気づいて愕然とする。
榊の言葉を、何度も咀嚼するように脳内で反芻していくうちに、胸の中がさっと冷水を浴びせられたかのように寒く、冷たくなるのを感じた。
「刑部先生が来られた時に、ゆかりちゃんもちょっと聞いたと思うけど……実は三月の研究発表で発表した俺の論文が、お偉方に認められたんだ。刑部先生を初めとした、向こうの大学の人たちに、熱心に口説かれてね」
榊の説明なんて、ほとんど頭に入ってこなかった。呆然とするわたしの耳に、無機質な声が次々と届く。
「俺も、迷ったんだけど、さ……でもやっぱり認められるのは嬉しいし、今より良い環境で専門の研究を思う存分させてもらえるなんて、こんなにいいことはないじゃん――」
目の前が、ゆらり、と奇妙に揺れる感覚。頭の中で、榊の紡いだ言葉がぐわんぐわんと鳴り響く。
そうして徐々に、じわじわと、わたしは理解し始めた。
――九月。
今は七月だから、つまりあと、二ヶ月。
あと二ヶ月で、榊はこの場からいなくなってしまう? わたしの傍から、離れて行ってしまうの?
当たり前のように、これからもわたしたちはずっと一緒にいられると思ったのに。そう思っていたのは、わたしだけだったの……?
「――それで、自分にとってもプラスになるかなって。だから……」
「さ、榊は」
震えるわたし自身の声が、負け犬の遠吠えのように部屋中へこだまする。息つく間もなく自分の決心とやらを話し続けていた榊が、ぴたり、とその動きを止めた。
「ゆかりちゃん?」
「榊は、わたしがいないところで、どうやって生活するっていうの……?」
研究に没頭して部屋が荒れても、ちゃんと自分で片付けられるの? 必要な時、自分でお茶を淹れられるの? 食事の支度は? 家事は? わたしがこれまであなたの代わりにしていたこと、あなたは全部一人でできるの?
第一、ドイツ語なんて話せるの? 周りの人たちと、ちゃんとコミュニケーション取れるの?
一人で……やっていけるの?
まくしたてるわたしの言葉を、目を見開きながら聞いていた榊は、不意にふわりと柔らかく、けれど決意に満ちた力強さで笑った。その笑顔に、きゅうっと胸が締め付けられる。
「だから、頑張るよ。これ以上ゆかりちゃんに、頼らないでもいいように」
「――……っ」
その時、わたしの中で何かがプツリと音を立てて切れる音がした。
仕方ないことだと、いずれはこうなるはずだったのだと、頭のどこかでは理解していた。でも、どうしても……抑えられない。
感情のままに、わたしは叫んだ。
「何よ、榊の馬鹿!」
「ゆかりちゃん……?」
困惑したような榊の声が、どこか遠くに聞こえる。
わたし、何してるんだろ。こうやって駄々こねて、榊のこと困らせて。そういうところがまだ子供なんだって、頭では分かってるはずなのに。
榊だってたくさん悩んで、苦しんで、長い時間をかけてようやく決めたことのはず。榊の個人的な夢も、留学に対する希望も……わたしには、邪魔する権利なんてない。
それでもどうしても、溢れる言葉は次から次へと口から出てきて、懲りずに何度も榊へ攻撃を仕掛けようとする。
「分かったよ。榊にもう、わたしは必要ないのね」
「ゆかりちゃん……」
「ううん、そもそも初めっから、わたしは榊にとって不必要な存在だったんだ。この関係を心地よく思っていたのも、所詮わたしだけだった」
「ゆかりちゃん」
「わたしはむしろ、榊の邪魔しかしてなかった。今まで榊は優しいから、言わなかっただけなんでしょう。わたしは、迷惑な存在だったって!」
「――ゆかり!!」
あぁ、榊が怒ってる。とっても怖い顔で、わたしを見てる。
けど、駄目。止められない。
ぱしり、と振り上げた腕を掴まれる。それほど力は入ってないはずなのに――こんな時まで、榊は優しい――じわりと涙がにじんだ。
分かっている。こんなの、聞き分けのない世間知らずなガキのわがままでしかないんだってことくらい。わたしの言葉程度で、榊の決意は揺るがない。所詮わたしは、榊にとってそんな存在だった。
わたしはただ、ショックだった。
だって、榊がわたしの傍からいなくなる日が来るなんて、信じられなかった。現実のものとして、簡単に受け入れることはできなかった。
揺るぎなく当たり前のように存在していたはずの、わたしの大切なものが、たやすく壊されていくような感覚。それは怖くて、辛くて、すごく苦しい。
「ゆかり、いい加減に……」
「離してっ」
榊に掴まれた手を、力任せに振りほどく。するりと抜けた感覚が、またどうしようもなく悲しみを助長させた。
そのままわたしは踵を返し、研究室を飛び出した。榊がなおも、わたしを呼んでいる。戻って今すぐ榊に縋りつきたくなる衝動を堪え、わたしはそのまま振り返ることなく、研究室からキャンパスに続く廊下を全速力で走った。
漏れそうになる嗚咽を、唇を噛み締めることで抑える。流れる涙が、音もなく頬を伝った。
――あぁ、何だ。
こんな時なのに、今更しみじみと実感する。
榊には、『わたしがいないと何もできないね』なんて強気なこと言ってたけど……榊がいなきゃ何もできないのは、むしろわたしの方じゃないか。
わたしにとって榊は、それほど大きな存在だった。
今までずっと当たり前だった、隣同士としての心地よい関係。その全てを失いかけた、今頃こんなことに気付くなんて。
……榊のことが、こんなにも好きだったなんて。
情けなさに、また涙が出た。
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