3.変化を招く来客
高校三年に進級したばかりの、五月某日。
その日の昼休み、わたしは眉間に皺を寄せ、唸っていた。
「ゆかり、顔怖いよ。大丈夫?」
机を合わせて一緒に昼食を摂っていた晴菜が、心配そうに尋ねてくる。今のわたしは、そんな彼女に対してもそっけなく「んー」と答えるだけしかできなかった。
「やっぱ、いろいろ言われたんだ。先生に」
やたら面談長かったもんね、と苦笑気味に言われ、わたしは情けなく肩を落とす。
有り体に言えば、晴菜の予想通りである。
この日は四限目を終えたあと、昼休みの時間を取って、一人一人が進路に関して担任と個人面談をすることになっていた。ちなみに呼ばれるのはほぼ出席番号順なので、晴菜の順番はまだ来ていない。
わたしは一之瀬という名字が表す通り、早々と呼ばれて行った。それで、先ほどまで担任と話していたのだが……。
「いい加減な理由で大学を決めるな、だってさ……」
わたしは『家が近いから』という理由で、街中の大学を第一志望にすると言ったのだ。そしたら担任に散々問い詰められた挙句、こっぴどく叱られた。そんなことをして、後悔するのはお前だと。大学は何のために行く場所なのか、分かっているのかと。
担任の言うことはもっともだし、わたしにだって本当は、やりたいことの一つや二つくらいはある。将来につなげられるかどうかは別としても、興味のある特定の分野についてもっと詳しく勉強してみたいという気持ちだって、ないわけじゃない。
けど……。
一番に脳裏を過ぎるのは、やはり榊のこと。
彼を放って行くなんて絶対にできないし、わたし自身彼の傍から離れるなんていう選択肢はほぼ確実にないも同然で。
こっちの事情も知らないくせに……なんて結局言えなかった理不尽な反論を心の中で並べ立てながら、わたしは深く溜息を吐く。
「やっぱり、榊に相談してみるかなぁ」
「結局、そこに行きつくんだね」
クスクス、と晴菜は笑う。
「楠木、次お前の番だぞ」
面談を終えたらしい男子が、晴菜を呼びに来た。晴菜は「はぁい」とのんびりした口調で返事し、立ち上がる。
「まぁ、愚痴ならまた聞いてあげるから。わたしじゃ、相手にもならないかもしれないけどね」
うなだれるわたしの肩を軽くポンッと叩き、晴菜は教室を出て行った。そう言ってもらえるだけでも十分ありがたいし、いい友人を持ったと心の底から晴菜に感謝する。
わたしと違ってものの数分ほどで戻ってくるだろう晴菜を待ちながら、わたしはぼんやりと昼食の続きを摂り始めた。
◆◆◆
さて。榊なら、何と言うだろう。
そんな想いを胸に秘めながら、わたしはこの日もいつもと同じように、街中の大学へ足を向ける。この時間帯、ほぼ百パーセントの確率ですれ違う柊先生と二言三言会話を交わしたあと、榊が籠っているはずの研究室へ迷いなく足を進めた。
いつものようにドアの前で足を止め、ノックをしようと拳を出す。そこでふと、中から聞こえてきた会話に、叩こうとした手を止めた。
「――それはもちろん、嬉しいですけど」
「――なら、いいじゃないか。何を迷う必要がある?」
「――だからって、あまりに急すぎやしませんか」
榊と、もう一人男の人の声。どうやら来客のようだ。
准教授という榊の職業柄、学生や他の教授さんなどといった来客があっても特におかしくはない。これまでにだって何度も、わたしはその場面に鉢合わせてきた。
だからといって、もちろん乱入できるほど図太い神経を持っているわけではない。大学内の顔見知りの人ならいいけど、今回はどうやら知らない人のようだし、どうも雰囲気的にわたしのような小娘が立ち入れないような深刻な話をしているようだし。
仕方ない。榊には悪いけど、今日はこれで退散……。
「入っていいよ、お嬢さん」
先ほどまで深刻な話をしていたはずの室内からいきなりそんな声がして、わたしは驚いて思わず二、三歩後ずさってしまった。ほぼ同時に、ガチャリ、と開かれる目の前の扉。反射的に下を向いていたわたしの目の前には、履き古された、それでも上等そうな茶色い革靴の先が現れた。こんな上等そうな靴を榊は持っていなかったはずだから、きっと来客のものだろう。
のろのろと顔を上げると、五十代くらいの穏やかそうな紳士が、にこやかに――けれど確実に訝しんでいるかのような瞳で、こちらを見ていた。
「やぁ、こんにちは。お嬢さん。見たところ高校生のようだけど、こんなところで一体何をしているんだい?」
「先生。その子は……」
「おや、駒込くんの知り合いかな? それは失礼したね」
後ろから恐る恐る様子を見ていたらしい榊の遠慮がちな声に、ドアノブから手を離した紳士は、観念といったように両手を小さく上げる。困惑するわたしに、榊は申し訳なさそうに小さく言った。
「ごめん、ゆかりちゃん。来てくれたところでいきなり悪いんだけど、ちょっとお茶淹れてきてくれるかな」
「あ、うん。……珈琲でよろしいですか?」
「では、ありがたく御馳走になろうかな。少し濃いめで、ミルクを付けてもらえるだろうか?」
「了解しました。榊は?」
「ミントティー」
「分かった。では、少々お待ちを」
予想外のことに戸惑いながらも、わたしはぺこりと一礼すると、早足で給湯室へ急ぐ。
そんな後姿を、来客の紳士が興味深そうに見つめていたことなど、わたしはもちろん知る由もなかった。
「――どうぞ」
研究室のテーブルを囲うソファへ向かい合わせに座った二人に、それぞれミントティーとミルク入りの濃い珈琲を差し出す。何やら話をしていたらしい二人はそこで手を止め、それぞれのカップに口をつけた。
「やぁ、ありがとう。……うん、実に私好みの味だ」
紳士――どこかの外国の、何とかいう難しそうな名前の大学から来られた教授で、
刑部教授はそんなわたしと、向かいのソファでゆったりとミントティーを飲んでいる榊を見比べ、何やら意味ありげに「ふぅん」と声を上げた。
「きみは……ゆかりくん、というのだっけ?」
「あ、はい。一之瀬ゆかりといいます」
問われるがままに、わたしは名乗った。
「一之瀬ゆかり……か」
刑部教授は再びわたしと榊を見比べると、節くれだった、それでいて一本一本が長く繊細な指を口元に軽く当て、何やら可笑しそうな表情をする。
「なかなか優秀な助手を手に入れたではないか、駒込くん?」
「彼女は別に、そういうのではないです」
『助手』という言葉がどうにも気に障ったのか、榊はほんの少し不機嫌そうな声と表情で答える。よくよく考えたら当然のことなのだけれども、わたしには榊のその言い方が何だかそっけないように感じてしまって、ちくりと胸が痛んだ。
「そ、そうですよ」
それでも、どうにか平静を装って、わたしは榊の言葉に便乗する。
「わたし、榊とは単なるお隣さんっていうか……その、昔からよく知ってて。だらしないのも知ってるから、仕方なくお世話してあげてるだけで、助手として雇われてるとか決してそういうわけでは」
「うんうん、分かったよゆかりくん」
必死に弁解するわたしに対し、余裕ありげな笑みを浮かべながら刑部教授はうなずく。榊はというと、困ったように――けどやはり少し不機嫌そうに、力のない笑みを浮かべていた。
わたしの行き場のない焦りや、榊の複雑であろう心境を、全く知らないかのごとく鮮やかに無視しながら、しみじみと刑部教授は言う。
「昔から知っているんなら、駒込くんのことをもちろん何でもわかってるわけじゃないか。だからもし、きみみたいな子が助手として――」
そして……次に続けられた彼の言葉に、わたしは耳を疑った。
「――ドイツまで、一緒に着いてきてくれるなら」
……ドイツ?
「刑部先生、だから俺はまだ……」
「分かっているさ。まだ決めたわけじゃないんだろう?」
榊の反論など予想通りだったのだろうか。刑部教授は彼の言葉をしれっと遮り、訳知り顔で言葉を続ける。
「けど、私たちは先の研究発表で拝見した、きみの論文を高く評価させてもらった。是非とも、その方向で研究を続けてもらいたいと……本場で、もっと深く知識を蓄えてもらいたいと、本気で思っている。そのためならば、どんな支援だって惜しまないつもりだ」
「……」
「……まぁ、まだ猶予はある。一応でいい。考えておいてくれないか」
話はこれで終わりだとでも言うように、刑部教授は残った珈琲を飲み干した。立ち上がり、ソファの背に掛けてあった上着を取ると、緩慢な仕草で出口へ向かう。
「では、これで失礼するよ」
わたしと榊は慌てて立ち上がり、その後を追った。
「私はまだ、しばらく日本に滞在する予定だから……また、伺うよ」
さすがはお偉いさんというだけあって、行動の一つ一つに気品が感じられる刑部教授。並んで見送りの体制を取る榊とわたしに向かって優雅に一礼すると、コツコツと革靴の音を立てながら研究室を出て行った。
――二人きりになった室内は、しばし奇妙な沈黙に包まれた。
やがて榊は、ゆっくりと先ほどまで座っていたソファの方へ戻っていく。わたしも当然のように後を追った。
うつむきがちな榊の表情は、光の加減により翳ってしまってよく見えない。榊が黙っているから、わたしも何も言えなくて……ただ、ソファに腰を落ち着けた榊の傍らに立っていることしかできなかった。
やがて、榊がおもむろに口を開く。
「……ゆかり」
どきり、と心臓が跳ねた。
榊がわたしを呼び捨てにすることは滅多にない。
そうする時は決まって、感情が自分でも制御できないくらいに荒ぶっている――つまり怒っている時か、気持ちがぐちゃぐちゃになってどうしようもなくなって混乱している時のどちらか。
どのみち、今の榊は危うい。
「……なに」
できるだけ刺激しないよう、ひっそりと答える。
顔を上げた榊の瞳は、気弱に揺れていた。混乱している。どうしたらいいか分からなくて、迷ってる。そんな目だ。
事情はよく分からないし、榊が何を迷っているのかも知らない。
けど……。
「ゆかり。お茶、淹れて」
震える声が、懇願するように言葉を紡ぐ。その内容を頭の中で反芻しつつ、わたしはうなずいた。
「何にする? ラベンダー?」
「……」
わたしの精一杯明るい問いに、力なく首を横に振る榊。あぁ、これは結構重症だな……。
余計なことを言わないようにしようと、口をつぐんで榊の次の言葉を根気強く待つ。やがてさっきより弱々しい、耳を澄ませないと聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で、榊は一言、ポツリと言った。
「……ジャスミンティーが、欲しいよ。ゆかり」
不安なのだ、と全身で物語る榊に、わたしはふわりと笑いかける。
「わかった」
一言了承の言葉を告げ、わたしは踵を返し、研究室を出た。
――いよいよ、わたしたちの耳にそれは聞こえ始めてきた。
悲しい響きを伴った、『別離』という名の、足音。
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