2.近付いてくる不安の足音

「ねぇ、ゆかりは高校卒業したらどうするの?」

 高校二年ももうすぐ終わりという頃。

 この日学校で開かれた進路オリエンテーションを終え、教室まで戻る廊下を歩いているわたしに、晴菜が尋ねてきた。

「うーん……」

 これからのことなんて、正直考えたこともなかった。どっちかっていうと、今が楽しければそれでいい派だしなぁ、わたし。

 答えに窮し、わたしは苦し紛れに話を逸らす。

「晴菜は、保育士になるんだっけ」

「そうだよ」

 うっとりと、どこか夢見るような口調で、晴菜は答えた。

「だから、市街の短大を受けようと思って」

「あそこ、保育科に力入れてるもんね」

「うん。ちょっと遠いけど、オープンキャンパスも行ってきた。すっごくいいところだったよ。雰囲気も良かったし、先輩も優しかったし。絶対あそこにしようって、一年の時から決めてたんだ」

 どこか嬉しそうに、晴菜は答える。

 晴菜とは高校から仲良くなったから、それ以前のことはよく知らないけど、聞いた話によると彼女は中学時代の保育体験以来、一心に保育士になることだけを夢見てきたのだという。

 だから保育関係のことになると、いつも大人しいはずの晴菜は急に饒舌になる。その根底にあるのは、単純に保育士に対する憧れだというだけではないような気がするのだけれど……その件に関してはあまり触れたことがないし、本人も詳しく教えてくれたことがない。ただいつも、その時の晴菜はすごく優しい顔をしていた。

 そんな風に『将来はこうなりたい』と言い切り、目標に向かってまっすぐ進んでいける晴菜のことは羨ましく……同時にちょっとだけ、本当にちょっとだけ、妬ましくもあったりする。

「……でさ、ゆかりはどうするの?」

 今日もひとしきり饒舌な語りを終えた晴菜が、わたしの無理矢理逸らした話を戻しにかかってくる。これ以上のごまかしはききそうにないので、どうしたものかと思っていると、先に晴菜が何かを思いついたように、ぱぁっと明るい笑みを浮かべた。

「やっぱり、街中の大学に行くの?」

 いっつも、通ってるもんね。

 晴菜の言葉に、そうなのかなぁ? とわたしは首を傾げる。

 あそこにいつも行っているのは、単純に榊がいるからだ。だからあの大学が具体的にどのような学科を設けているかとか、榊が何を専門に研究をしているのかとか、そういうことはあんまりよく知らない。

 だから、街中の大学について調べてみたこともなければ、それほどの興味を抱いたこともなかった。

 まぁ、榊に聞けばある程度は答えてくれるのかもしれないけど。

「……うーん。でもまぁ、きっとそうなるんじゃないかな」

 これからのことを考えつつ、一応そう答えておく。

 とりあえず、言えることは……わたしがどこか遠い場所の大学に行くべく、この街を出て一人暮らしを始めるだなんて、ありえない。ということ。

 榊を置いて、どこかに行くなんてできない。あんな状態の榊を一人にしたら、間違いなく本当に、駄目人間になってしまうだろうから。

 わたしが、傍にいなくちゃ。

 わたしにやりたいことがあるとするなら、やらなければならないことがあるとするなら――……誰かに尋ねられれば、わたしはきっとためらいもなく、こう即答するだろう。

『これまで通り榊の傍で、身の回りの世話をしてあげること』

 と。


    ◆◆◆


 いつものように榊の研究室を訪ねると、最近掃除したばかりの小奇麗な部屋で(すでに若干散らかってはいたが)、榊は何やら論文のようなものをテーブルに広げて考え込んでいた。左手に持ったペンをくるくると弄び、時折ふと思いついたように、手元にある小さなメモに何かを書きつけていく。

 一応ノックし、声を掛けて入ったのだけれど、そんなわたしに気付いた様子もない。その姿に、わたしはあぁ、と納得した。

 きっと、研究発表が近いのだ。それこそ明日とか明後日とか、経験上おそらくそのあたりが本番だろう。

 こういう時は、不必要に言葉を掛けるべきではない。いくら榊の集中力は途切れにくいといったって、むやみやたらに邪魔をしたら、誰が相手であろうと榊は本気で怒る。小さい頃、何も知らないわたしはそれでものすごく怒鳴られたことがあるのだ。

 わたしは静かに研究室を出ると、すぐそこにある給湯室へ足を運んだ。小さなテーブルに一つ置かれた、大きめのポットにお湯をたっぷりと入れ、カチリとスイッチを押す。

 給湯室の棚には、大学に勤める教員の人たちそれぞれのマイカップや、豊富な種類のお茶などが所狭しと並べられている。わたしはそこから、榊専用のティーカップと、棚の下段辺りに置かれていた小ぶりの袋からティーバッグを一つ取り出した。中身がそろそろ少なくなってきたから、また買い足しておかなければいけないと思う。

 榊が飲むのは、決まってハーブティーだ。珈琲はお腹を壊してしまうし、紅茶は渋みがあって苦手なのだという。

 わたしが今取り出したこれは、ローズマリー。精神疲労を和らげ、集中力と記憶力を高める効果があるとされていて、論文を仕上げる時など、ここぞという時に榊はこれを必ずと言っていいほど所望する。

 ちなみに研究発表直前など、とにかく緊張してたまらない時、榊は不安を取り除くと言われているジャスミンティーを飲む。その時わたしは大抵授業中だったりして傍にいられないので、榊が自分で淹れられるように前日から準備をしておかなければならない。

 また、大仕事を終えてホッとした時、榊はラベンダーティーを片手にソファで微睡む。安心感と疲労感、充足感などから、その時の榊はまるでとろけそうなほどにリラックスしたような表情を浮かべるのだ。安堵からくる気の抜けた表情は、ちょっと可愛くて密かに気に入っていたりする。

 ピー、とポットから音がして、お湯が沸いたことをわたしに知らせる。

 わたしはまずお湯をカップに少し入れ、くるくるとまんべんなく回しながらカップをあっためた。こうすることでより美味しく飲めるとかなんとか、そんなことをどこかで聞いたことがあるからだ。

 それからそのお湯を捨て、ティーバッグを中に入れる。時間を置いて少し冷めたお湯を、その上からゆっくりと注いだ。ソーサー代わりに小皿で蓋をして、二、三分ほど蒸らしていると、少しずつすっきりとした爽やかな香りが漂ってくる。

 ジャスミンティーの準備は、またあとでいいだろう。

「そろそろかな」

 小皿をどかし、数度ティーバッグを揺らしてから、三角コーナーに捨てた。お盆にカップを乗せ、そろそろと運ぶ。

 エチケットとしてもう一度研究室のドアをノックし、中へ入ると、先ほどと全く同じ姿勢で榊は固まっていた。どうやら、よほど集中しているようだ。

 広げられた資料の邪魔にならないよう、榊から見て右側の端側にそっとカップを置いた。コトリ、という音にも、榊は気付いていないようだ。隣にいるわたしや端に置かれたハーブティーには目もくれず、とにかく論文にのみ意識を集中させている。

 そっと、その横顔を覗き込む。

 普段とは違う、きりりとした『准教授』としての顔。大人としての、榊の真剣な表情。漆黒の瞳はギラリと光っていて、その強い眼差しは一心に論文らしきものを見つめている。時折動く唇から、どうやらひと通り見直しを終え、本番に向けた練習を始めているらしいことが分かった。

 名を呼びたくなる衝動を抑え、すぐに離れる。

 こういう時は、早く帰った方がいい。

 あぁやって置いておけば、いずれ口をつけるだろう。

 入口のところに置いていた荷物を拾い上げ、わたしはおいとまするべく研究室のドアノブに手を掛けた。

「……ゆかりちゃん」

 突然聞こえた声に、驚いて心臓が飛び出そうになった。

 何か、榊の邪魔になるようなことをしただろうか。幼少期のトラウマもちょっとあるので、びくびくしながら振り返る。

 ペンを持った左手で髪をくしゃりと掻きながら、榊がこっちを見ていた。右手には先ほどわたしが淹れたローズマリーのカップがある。

 あぁ、気付いていたのか。

「あ、邪魔してごめんね榊。わたし、もうすぐ帰るから……」

「駄目」

 あはは、と乾いた笑い声と共に弁明していると、やけにきっぱりとした声がわたしを止めた。その言葉は何を意図するのか、そもそも何を言われたのか、よく分からないまま固まるわたしに、榊は言い含めるように告げる。

「いて」

「……え」

「ここに、いて」

 まるで子供が駄々をこねるような言い方だ。唖然としたわたしが何も答えられずにいると、さらに榊は言い募る。

「明日、研究発表なんだ」

「うん」

「これで、今後の身の振り方が決まるかもしれない。大事な発表」

「……うん」

 だったらなおさら、わたしはいない方がいいんじゃないか?

 『今後の身の振り方』という言葉にちくりと胸を刺されながらも、わたしは彼が言いたいことの意味がいまいち分からず、ただ呆然と立ち尽くす。

「だから」

「……だから?」

 おうむ返しのように聞き返すと、榊は妙に淡々とした調子で、もう一度こう言った。

「ここに、いて」

 自らが座るソファの向かい――小さな一人掛けのソファに向けて、榊は顎をくい、としゃくる。カップに入ったローズマリーに口をつけ、コトリ、と再びテーブルの端に置いた。

 榊はそれ以上何も言わず、再び論文に目を向ける。

 ……とりあえず、従った方がいい……のかな?

 そろそろと近づき、言われた通り向かいの一人掛けソファにちょこんと腰を下ろす。いつもと違って、なんだか落ち着かない。

 宿題をするだけのスペースもないし、どうしようかな……。

 ぼんやりと頬杖を突きつつ、すっかり手持ち無沙汰になったわたしは、仕方なく向かいの榊を眺めることにした。

 意外と長い睫毛が、ぴくぴくと動いている。……可愛い。

 時折カップに口をつけるときに、顔を上げた榊とふと目が合って、その度にいちいちドキッとしてしまった。さっきまで論文を真剣なまなざしで見ていた漆黒の瞳が、わたしを見てふわりと和む。

 不安、だったのかな。もしかして。

 大事な研究発表を翌日に控えて、もしかしたら榊は、一人で大きな不安を抱えていたのかもしれない。

 わたしがいることで、少しでもその不安が和らぐのなら……それはもう、心から嬉しいと思う。彼がわたしに頼ってくれることが、わたしが彼を安心させてあげられることが、たまらなく嬉しい。

 ――あとで、ジャスミンティーも淹れてあげようかな。

 榊の緊張が、不安が、少しでも解れるように。そのためなら、わたしは何だってしてあげるから。

 幸せのような、喜びのような、妙な感情を胸に抱えながら、わたしは集中する榊を飽きもせず眺め続けたのだった。

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