そしてまた、恋をしよう
凛
1.いつも通りの日常
「ゆかり、今日もあそこに行くの?」
「もちろんっ」
一緒に並んで歩いていた友達の問いに、わたしこと
「じゃあ、またね。
友達――
「また明日ね、ゆかり」
おっとりとした足取りで帰宅していく晴菜の後姿を見送るのも惜しく、肩からずり落ちる鞄を抱え直したわたしは、すぐさま小走りで目的の場所まで急いだ。もちろん、まっすぐ家には帰らない。
学校帰り、わたしには必ずと言っていいほど寄る場所があった。
学校を出て右折し、五分ほど歩いたところにある、街中の中堅大学。わたしが生まれるずっと前からあるというそれは、年月を重ね立派な貫禄を醸し出している。
勝手知ったる、ともはや言い切ってしまっても差し支えのないほど頻繁に、わたしはこの大学へ足を運んでいた。
「お、ゆかり君じゃないか。今日も御苦労さんだね」
「あ、
すれ違った顔見知りの教授さんこと柊先生が、わたしに気付いて声を掛けてくれる。わたしの存在は、内部の人たちにとってもうすでに公認となっている。自分で言うのも何だけど。
「
「はい、ありがとうございます」
こんな会話も、もういつものことだ。
「では、また」
わたしの頭を幾度か軽く撫でると、ぴかぴかの革靴を小気味よく鳴らしながら、柊先生は真新しい白衣を揺らし去っていく。
つい最近まではあのように小奇麗な服装をしていなかった彼だが、聞いた話によると、どうやら新しくできた恋人の勧めで大幅なイメチェンを敢行したらしい。
いい傾向だ。聞いている実年齢より十歳は若く見えるし、非常に良く似合っている。彼女さん、グッジョブ。
……と、そんな柊先生の後ろ姿を少しばかり見送った後、わたしはいつもの場所へと急いだ。
「さーかきー、おーい。
いつもの場所――とある研究室へたどり着くと、コンコン、と数度ドアをノックし、声を掛ける。柊先生に会ってからそんなに経っていないから、多分まだ戻っていないだろうけど。一応これは、エチケットのようなものだ。
案の定、中から声は返ってこない。
ドアノブを回し、わたしは遠慮なく中へ入った。
准教授用に宛がわれた研究室は、柊先生たちのような教授の研究室ほど広くはないらしく、わりと簡素な造りになっている。そこはいつものように、何を研究しているのか皆目見当もつかないほど荒れていた。
まったく、ついこの間片付けたばかりなのに。
一つ溜息を吐くと、わたしは早速気合を入れるべく腕まくりをした。
――と、ちょうどその時。
「あぁ、君が来るまでに少し片しておこうと思ったのに。どうやら間に合わなかったようだな」
頭上から降ってきた声に、わたしは不機嫌な顔を隠しもせず振り向いた。
「榊。そう思うんなら、少しは散らかさないように努力したらどうなの?」
じろりと睨み上げれば、この研究室の主こと駒込榊は、頭を掻きながら「面目ない」と何とも情けない苦笑を浮かべた。
呆れ果てたわたしは、もう一度深い溜息を吐く。
……しかしまぁ、そんなことをしてばかりもいられない。時間の無駄だ。
「ほら、榊も手伝って」
「え、ちょっと待ってよゆかりちゃん。俺、明日までにレポートの採点終わらせないといけないんだけど」
「わたしがあとで手伝ってあげるわよ。榊だって、仕事中にわたしが一人で部屋中うろちょろしてたら気が散るでしょ」
「まぁ、そうだけど」
「だから、先にちゃっちゃと片付ける!」
「分かったよ……」
渋々白衣を脱ぎ、準備を始める榊を追い立てる。榊から受け取った白衣は、ソファ下の床に転がっていたハンガーに被せて、邪魔にならないところに掛けておいた。
引き出しから最近買い足したばかりのゴミ袋を出し、散乱するものを手当たり次第に拾っては、必要か不必要かを榊に確認する。
「これは?」
「あ、それは今度の研究発表で使うやつだから、そっち避けといて」
「わかった。これは?」
「それは……何だっけな。多分、いらないやつ」
「ん」
言われた通りに、散らかったゴミやら資料やらを分別していく。榊は榊で、自分がいるものといらないものの区別はある程度一応ついているらしく(当然だ)、慣れた手つきで片づけを進めていた。
「もう、しょうがないんだから……榊ったら、散らかし癖、昔から治ってないよね! 何をどうしたら、一日二日でこんなことになるわけ?」
「いやぁ。研究とか仕事とかやってるとさ、周りが気にならなくなってね。気付いたら手つけられないことになっちゃってるんだよ。ゆかりちゃんに怒られるなとは思うんだけど、どうにも……」
「しっかりしてよね、もう三十二でしょ?」
一応大学の准教授という御立派な肩書を持つ榊は、ただの女子高生であるわたしより十五歳ほど年上のはずだ。しかしこれでは、どっちが年上か分かったものではない。
「面目ない」
手を合わせ、わたしに平謝りする榊。その姿には、年上の威厳も何も存在しない。本当に情けないというか、何というか……。
「ったく」
まぁ、こんな駄目な大人を放っておけないわたしも相当駄目な方だと、一応は自覚しているのだが。
「ほら、口ばっか動かしてないで、手を動かす!」
「はいっ」
気合を入れ直し、だいぶ床が見えるようになってきた研究室を、榊に発破を掛けつつ再び片付けていく。
今日も今日とて、拍子抜けするくらいいつも通りだ。
◆◆◆
「はぁぁ……疲れた!」
「ホントごめんね、何から何まで手伝わせちゃって」
あれから研究室の片づけを無事に終え、約束通り榊のレポートの採点を手伝い――高校生がそんなものに気安く手を加えてもいいのか、なんていう突っ込みは受け付けない――終わった頃には、外はもう見事なまでに真っ暗だった。
「家には、連絡入れてある?」
「大丈夫。多少遅くなっても、榊の名前出せば大抵のことは許してくれるもん。榊だって、知ってるでしょ?」
「まぁね」
家までの道を並んで歩きながら、他愛もない会話をする。わたしたちの目的地は、ほぼ同じところだ。
何せわたしたちの家は、目と鼻の先と言っても過言ではないほど近い場所にある。つまりわたしたちは、いわゆるお隣さん同士。わたしが物心ついた時から、榊はずっとわたしの傍にいた。
あんまりわたしたちが一緒にいるもんだから、榊が当時付き合っていた恋人に『あたしとこのガキ、どっちが大事なの!? 答えなさいよ、榊!!』なんて不本意なことを口走られた挙句、てんやわんやの修羅場――主にその恋人がヒステリックな叫びと共に一方的に暴れるだけだが――に巻き込まれるなんてことも、一度や二度ではなかった。
それでも、わたしたちは互いの一番近くにいた。それがまるで、当然であるかのように。だからわたしは、そのことに疑問を感じたことなど、一度だってなかったのだ。
「ねぇ。晩ご飯、うちで食べていく?」
「いいの?」
「うん。どうせ今からじゃ、榊の家で作ってる時間もないし」
榊は実家暮らし。でも駒込のおじさんとおばさんは揃って海外にいるので、実質一人暮らしのようなものだ。だから普段はわたしが晩ご飯を作りに行っているのだけど、残念ながら今日はもう遅い。
「迷惑じゃない?」
「榊なら、うちの親も歓迎してくれるよ」
「ホント? 悪いね」
「電話するから、ちょっと待ってて」
携帯電話を取り出し、家へ掛ける。数コールで出た母親に、案の定あっさりと了承を得たところで、わたしは切った携帯電話を鞄にしまいながら榊に言った。
「待ってるから、早く帰ってきなさいって」
「ふふ、ありがと」
へにゃりと笑い、素直にお礼を言ってくれる榊は、変に義理堅いところがある。そういう真面目な一面も、嫌いではないのだけれど。
「今度、早く帰れた日にでも何か奢るよ」
「だったら、帰り道に新しくクレープ屋ができたから、そこに連れてって」
「了解」
この手のかかる人の世話をするのは結構大変だし、毎日振り回されて苦労してるのは事実だけど、こうやって見返りをもらえるのは素直に嬉しい。そうでなくても、優しいこの人はわたしにしょっちゅういろんなものをくれるから、そういう時には『やっぱり年上なんだなぁ』なんて思うこともある。
でも何より、当たり前のように一緒にいられることが嬉しい。なんだかんだでわたしは、この人に甘えているんだ。
もちろん本人には、こんなこと絶対言ってやらないんだけどね。
「まったく、榊はわたしがいないと何もできないんだから!」
「面目ない」
こうやって軽口を叩いて笑いあうのも、いつも通り。
榊とのこういった『いつも通り』の心地よい関係は、もはやわたしにとって生活の一部であり、これからも当然のようにずっと続くと思っていた。
――けど、それは間違いだったってことを、わたしは後に知ることになる。
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