第9話 こすずめのゆくえ
誰かが走っている。
誰かと走っている。
ふわりと広がる肩までの髪。
あれは犬君だ。
縁子は犬君と走っている。
待って。
犬君は軽やかに翔ける。
犬君は少女らしく、切り袴に衵を羽織っただけの軽装で、ひらりひらりと身軽に翔けてゆく。
縁子は長袴に幾重にも重ねた袿を纏い、長い長い髪を引きずって、必死に犬君のあとを追う。
待って。お願い、待って。
とても追いつくことなどできない。犬君の背中が遠くなる。
ねえ、犬君。
その背中に問いかける。
あの子雀はどこへいったの?
むらさきのゆかりのきみ
ゆかりこ、という名前。
縁子は今までずっと、自分はその誰かのゆかりであるために、光に探し出されたのだと思っていた。
それはどうやら違ったらしい。
光は偶々縁子を見初め、それから縁子がその誰かのゆかりの娘である事を知ったということであったらしい。
その「誰か」が誰であったのかと言うことも、今ではわかっている。
光の父である故桐壺帝の中宮。前帝の母君である故女院だ。
光が幼い頃、よく懐いていたというその人は、縁子の父方の叔母にあたる。縁子は一度もまみえた事はないが、外見はよく似ていると他ならぬ光が言っていたことがある。
そもそも女院が入内したのは、光の母である御息所に似ていたからだという話があるので、もしかしたらその御息所にも縁子は似ているのかもしれない。
誰かのゆかりの人間を探し出すことは、光にならできるだろうとずっと思っていた。
人を使い、ツテを辿れば、たぶんそれほど難しくはない。
けれども、ただの偶然と直感だけで、幼い縁子を見出したのだとすると、どこかうそ寒いような怖さを感じる。
どれほどの執着があれば、そんな事ができるのだろう。
それはもう憧れなどという言葉で片付けられるようなものではない。
じっと、子雀を狙う猫。
あの猫は黒かった。
光はまるで白い猫だ。
優美でしなやかで神々しいまでに美しい。
けれど
ひそやかに獲物を狙う本性は、黒い猫と変わらない。
いや、むしろより周到に、細心の注意を持って、獲物が自分の手に落ちるより他の道はないように振る舞っているではないか。
それともあの子雀も、結局は黒い猫に捕まったのだろうか。
「おかあさま、お加減はいかがですか。」
中宮の位を賜った大姫は、宿下がりしてきてなかなか宮中に戻ろうとしない。
光によく似た顔立ちだが、眼は生母の冬の御方によく似た思慮深げな光を宿して、若いながら国母としての風格を備えている。なさぬ仲とは言えども自慢の娘だ。
入内後は生母にお世話をお願いしたこともあって、冬の御殿を主な里邸にしている大姫だったが、今回里下りではまっすぐ二条院へと戻って来て、なかなか宮中に戻ろうとしなかった。
「里下りのお許しなんて、めったに頂けないんですもの。この機会にゆっくり羽根を伸ばしたいんですの。」
そんな風に言って大姫は笑う。
その「めったに頂けない里下りのお許し」が、光からの帝への嘆願によって下りたことは縁子にもわかっていた。
病の篤い縁子を、力づけようとしているのだ。
光のような天孫の力とは違うが、大姫には人を魅了する朗らかさがあった。
「帝が寂しがっておられるのではなくて? 御文も来ているのでしょう?」
縁子としても大姫が居てくれるのは嬉しいが、帝から后を取り上げているようで、恐れ多い気もする。
「もちろん御文は来てますわ。こんなにしみじみ帝の御文を読んだのは初めて。いつも出された御文よりも、帝の方が早くおいでになったりするのですもの。」
幸せそうだ、と安堵する。
大姫と帝は恐れ多くも相思相愛の間柄のようで、親としては微笑ましくもうれしい。
こんな風になりたかった、と思う。
自分と光の関係も、こんな風でありたかった。
光が縁子に許されたただ一人の人でなく、縁子が光の育てあげた理想の女などでなければ良かったのに。
ただの縁子として、ただの光を愛したかった。
ただの光に、ただの縁子を愛して欲しかった。
それではいけなかったのだろうか。
戒だけは受けたものの出家の許しを光から受けられない縁子は、せめてもと写経に励むようになった。人にも書かせて千部の法華経を整え、法要を行ったのはこの春の事だ。
六条院の春の庭程の派手さはないけれど、縁子の好みに合わせて整えられた二条院の庭は、どこか少女めいた可憐さを感じさせる。
春のはじめにまず紅白の梅が雪に耐えて花を咲かせ、ふわりと広がる桜に移る。御法はちょうど桜の花盛りの頃で、散りかけの梅はまだ見苦しくもなく、庭の奥の藤は艷やかな若葉と蕾が瑞々しい。
足下には蓬や蕗、雪の下などが生えているのが山里めいた若緑で、散った梅の花弁の色を引き立てていた。
暖かく穏やかな風は、春の香りを含んで甘い。
とよもす読経にも春の瑞々しさ、明るさが知らず知らず照り映えるようで、いつにない華やぎに満ちた御法となった。
縁子の手にかけた念珠は朝露を連ねたように清らかな水晶。桜襲の細長に、紫の匂。側に仕える女童にもみんな桜襲の衵を着せている。女童の中には小春も混ざっていて、神妙な顔で座っていた。
おそらくはもうこれが最期の春。
明るい、匂やかな春の景色を、静かに心に刻み込む。
法要には夏と冬の御方も揃って参列してくれた。
そして、隅には影の女も蹲っている。
光を愛した女たち。
光に愛された女たち。
手を合わせて瞑目する。
自分の内にある、暗い感情。
自分自身への不信感。
光無くして成り立たない縁子と言う存在の光への思いは、果たして本物なのだろうか。
影の女のような一途な執着もなく。
夏の御方ほどに古くからの馴染みでもなく。
冬の御方のように子を成すほどの縁もなく。
ただ、光に導かれ、光の目論むままに進んで来た縁子には、自分の何を頼みにすればいいのかわからない。
不安で、不安で、不安で。
ずっと、ずっと不安だった。
光の正室として扱われ、自分でも知らず知らずに頼みにしていたその立場も、女三の宮の入輿の折に崩れてしまった。
せめて、自分の中にある光への気持ちを、信じることが出来ればどんなにいいだろう。
一番大切な、たった一人の人への思いさえも、縁子自身のものではないのだ。
夏の一番暑い時期を、縁子はほとんど寝て過ごした。女房や女童が入れ替わり付き添って、縁子をあおぎ、世話をやく。中でも小春はよく側に控えて、一生懸命働いていた。
暑さが峠を越え、わずかに涼風のそよぐようになると、縁子も時々起き上がれるようになってきた。
光は愁眉をひらいて喜んだ。
「このまま病も峠を越えて、落ち着いてくれるかも知れない。とにかくあなたはしっかりと身体を治すことだけを考えることです。
」
光の言葉に、縁子は微笑む。
そんなはずのないことくらい、縁子にはわかっていた。
起き上がることはできると言っても、身体にはもう、ろくに力が入らない。魂が半ば身体から離れかけているのではないかとさえ思える心細さだ。
でも、そんな事を光はきっと認めない。光には縁子を手放すつもりなどないのだから。
「お母さま、ご機嫌いかがですか。」
大姫はいまだに二条院にいて、毎日縁子の側に入り浸っている。
「中宮がいらっしゃると顔色が良いようだね。」
光と大姫と三人でこんなにも長い時間を過ごすのは、随分と久しぶりだった。
ふと、影と目があった。
息がつまる。
息を求めて吸い込んで、息は鋭い刃に変わる。
ああ。
慣れた痛みがはしるのに、声にならない悲鳴を上げる。
刃はついに、縁子の心の臓を貫き通す。
不意に、縁子は悟った。
たとえ光が強引に仕向けて植え付けたものだとしても、縁子の心は縁子のものだ。他の何を信じられなくても、それだけは信じられなくてはならないものだった。
力を失った縁子の身体を、光が抱きとめる。
ーひめさま
するり、とその腕をすり抜けて、伸ばされた手を捕まえる。
ー犬君、やっと見つけた。
この笑顔だ。犬君の笑顔。
「縁子!」
光の目は、身体を抜け出した縁子を捉えていない。すでに抜け殻になった身体を抱きしめて、必死に呼びかけている。
「お母さま?」
大姫の方には縁子が見えているようで、目があった。
別れの挨拶の代わりに微笑みを返す。
部屋の隅には光を、一途に見つめる影の女。
彼女ももう、縁子を見ない。
そして、泣きそうな顔で硬直している小春。
辺りを見回し、最後にもう一度光を見る。
さようなら、たった一人のあなた。
縁子の全てだった人。
縁子の全てを奪った人。
縁子の全てを与えた人。
もしも、許されるものならば。
次は縁子が光を見つけたいと思う。
光を見つけて今度こそ、自分の意思で愛してみたい。
それでも光は縁子を愛してくれるだろうか。
手をを取り合って走り出した二人の少女は、庭に出ると二羽の雀に変じた。
雀は小さな翼を羽ばたかせ、身軽に空へと舞い立つ。
小さくなるその影を、ただ大姫だけが見ていた。
子雀の行方 真夜中 緒 @mayonaka-hajime
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