第8話 ねこのいたばしょ

 「犬君?」

 呼びかけてから、それが小春であるのに気づいた。

 うとうとと眠ってしまっていたらしい。

 発作と、眠りと、僅かな目覚め。

 縁子の日常は今やそんなものに成り果ててしまった。

 御簾の向こうの庭は明るい。

 その明るさを背に受けて、小春が縁子を扇いでいる。

 「お方さま、お加減はいかがですか。」

 小春はきっと犬君の縁者だ。

 縁子の中でそれは、すでに確信に変わっている。

 「少し、喉が乾いたわ。水を貰える?」

 「はい、ただいま。」

 小春は扇を投げ出して、パタパタと駆けてゆく。あの分ではまた女房の誰かに叱られるかもしれない。

 明るい御簾の向こうでは、撫子の花が盛りのはずだ。あとは池に少しだけ植えた蓮の花も。宮たちが縁子の粥に入れるのだと、蓮の実がなるのを待ち構えている。

 ゆっくりと、身体を起こす。

 女三の宮の入輿からすでに十年が過ぎた。

 この病との付き合いももう長い。

 病は少しずつ縁子を削った。

 縁子が病とばかり向き合う内に、いくつもの変化があった。

 大姫は幾人もの皇子、皇女を上げて立后した。そのうちの二人が縁子の手元で育っている。小春にまつわりつきながら蕗を摘み、梅を集めて縁子に食べさせようと頑張る二人の宮は、病床のこの上ない慰めだった。

 あれ程に縁子を打ちのめした女三の宮は、男の子を産んだあとあっけなく出家してしまった。本人のたっての希望で、父院手ずから髪を下ろされたのだけれど、その出家の折にも六条御息所の怨霊が現れた。

 結局六条御息所は光の正室と呼ばれたことのある女を、全て手にかけたことになる。

 実を言えば、女三の宮の懐妊は縁子を苦しめた。

 誰よりも多くの夜を共にし、まさに寄り添うように生きながら、縁子はついに光の子を身籠ることがなかった。

 光の最初の正室も、男の子を産んでいる。

 やはり自分は正室にふさわしくはなかったのだ。子を授かる事ができなかったのは自分の運の拙さで、そんな自分が正式に妻とされなかったのは仕方のないことなのだと、自分を傷つけずにはいられなかった。

 それをやめたのは、光の様子がおかしいことに気がついたからだ。

 女三の宮の懐妊を光は喜んでいなかった。それどころか、光の目には暗く強い怒りがあった。


 「あなたが気にするようなことではないよ。あなたはとにかく身体を治しなさい。」

 最初はただ気遣ってくれているのかと思った。 

 でも、違った。

 光は女三の宮の懐妊が話題になる事を、本当に嫌がっていた。

 「孫が何人もいるような歳になって、まさかとは思ったのだが。」

 自分の子供よりも年下の妻を迎えながらそれも今更な話のような気もするけれど、照れ隠しではなく本当に困惑しているように見える。

 それが困惑でさえなく、圧し殺した怒りであることに気づくのにそれほど時間はかからなかった。

 女三の宮の懐妊以降、光はいっそう二条院の縁子の元にばかり入り浸る。

 これではあまりに宮への心遣いに欠けるのではないかと、縁子も気を揉んだりもしたのだけれど、そのうちそれもやめてしまった。周囲の思惑はともかく、宮本人は懐胎した身体であの無言の怒りをうけるのは、きっと辛いだろうと思ったからだ。

 縁子はせめて光の差配のように見せて、衣装や食膳をさりげなく気遣うことに努めた。

 決して口には出せない憶測ではあるけれど。

 女三の宮の胎内の子は、おそらく光の子ではない。

 少なくとも光はそう考えているのだろうし、宮はその事に反論できていないにちがいない。

 その事に気がついて、縁子はまずほっとした。それからほっとしてしまった自分を恥じた。

 縁子が女三の宮に感じたのは、仄かな同情だ。

 十五の少女が四十の賀を終えた男に配されて、都合よくその男に恋心を抱くだろうか。

精々が父親のように思うだけではないか。

 まだその時はそれでいいとしても、今や光は五十も超えている。

 なるほど今でも美しい男だし、見鬼を惹き付ける強い天孫の力も健在だが、それでもすでに老人と呼ばれる年齢だ。女三の宮にとっては、光本人が自惚れていた程の、魅力などはなかったのだろう。

 もちろん内親王という尊い御身で軽々しいことをなさったものだとは思うけど、老いた夫からそれほどの寵愛を受けているわけでもない若い妻が、ふと目の前に現れた恋に惹かれたのだとしても、それは仕方が無いのではないか。

 どこかあどけなく頼りない、女三の宮の横顔を思う。

 縁子が光と結ばれたのも十五歳の時だった。

 光はその頃の縁子と比べて、宮の頼りなさや嗜みのなさを誹ったりもしていたけれど、同じの筈はないと縁子は思う。

 あの頃、縁子はすでに光以外に誰もいない場所に追い込まれていた。

 後ろ盾になる実家も、守ってくれる乳母や女房たちもなく、光を愛する以外には出来る事は何もなかった。

 そして光も、十五の少女に釣り合う程に若かった。

 しっかりと保護してくれる父院のもとで育てられ、入内並みに数多の女房に守られて新たな保護者である歳嵩の夫のもとに移ってきた宮と、縁子はあまりに違う。比べるのは最初から無理な話だ。

 微妙な空気の中で月は満ちて、女三の宮は男子を産み落とした。


 小春が息せききって運んできた水は、とても冷たくて美味しかった。

 もしかしたら井戸にまで、汲みに行ってくれたのかもしれない。

 「ありがとう。美味しかったわ。」

 小春が少しくすぐったそうに笑う。

 犬君も笑顔の種類の多い娘だった。

 記憶の中で顔立ちは幾分薄れてしまっているのに、くすぐったそうに、あけっぴろげに、はにかむように、天衣無縫に、笑う表情だけが鮮明に思い出せる。

 「ねえ、小春。」

 小春の髪をそっと撫でる。

 「ずっと二条院にいてね。私がいなくなってもずっと。」

 いなくなった犬君のその後のことを、縁子は知らない。知らないなりに平穏な人生ではなかったのではないかと思う。

 少なくとも今、小春が天涯孤独の身の上で二条院に上がる程度には、犬君も孤独な身の上であったのではないかと思えるからだ。

 「そんな事おっしゃらないで下さい。小春はどこにも行きません。お方様もどこかへ行かないで下さい。」

 縁子は微笑むと、さらに小春の髪を撫でた。

 縁子がそうであるように、小春もまた、他には行く場所がない。縁子の言葉は小春の居場所を守ることが出来るはずだ。もしかしたら、いつかは小春を縛り付けるものに変わるかもしれないが。

 「今日は落ち着いているようだね。」

 光が現れると、小春は慌てて隅に控えた。

 いつだったか、菜種の花の色で怒られてから、小春は少し光を怖がっているらしい。

 「小春、院がいらしたからここは大丈夫よ。」

 縁子がそう言うと、小春は一礼して庭へ出て行った。

 「あの女童を随分とかわいがっているようだね。」

 光が小春の後ろ姿を目で追いながら言う。同じように小春の姿を追いながら縁子が答える。

 「小春が宮たちとおりますと、子供の頃のことを思い出しますの。北山では犬君と外でばかり遊んでいましたわ。」

 蓬を摘んだり、百合根を掘ったり、黒猫に狙われた子雀を必死に救出してみたり。

 光の目がふと、和んだ。

 「子雀を飼って、逃してみたり?」

 ちょうどその事を考えていただけに、縁子は驚いた。光に子雀の話をした覚えはない。

 「昔の女房にでもお聞きになりましたの?」

 訝しむ縁子を光がそっと抱きしめる。

 「子雀逃して、べそをかいておられたでしょう。あの時、私はあなたを見つけたのですよ。私の大切な縁子。」

 縁子はすとんと血の気のひく音を、聞いたような気がした。

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