第7話 かげのなまえ
思えばどれだけの事柄を光から学んだろう。
和琴、習字、和歌。
時にふさわしい衣装の選び方。文の出し方。贈り物の選び方。
香の合わせ方、焚き方。
邸や荘園の差配。
女として、女主人としての嗜みの全て。
そして
光を愛すること、愛されること。
憎むこと、恨むこと、悲しむこと、耐えること。
心細さ、孤独、深淵を覗き込むような果てしのない寂しさ。
縁子のほとんど全ての感情は、光に根ざしている。
喜びも
怒りも
哀しみも
楽しみも
光無くしては形にならない。
そんな自分の在り方に気付いたとき、縁子は慄然とせずにはいられなかった。
自分はどうしてこんな人間になってしまったのだろう。
あの、北山から二条院へと攫われて来た日から、ゆっくりと着実に、この道以外はない場所へ追い込まれていったように思う。
犬君が去り。
乳母が去り。
そして北山からついて来た僅かな女房も全て去り。
結局、縁子には光だけ。
それがたぶん、光が目指して縁子を追い込んだ場所だった。
光だけを見つめるように。
光だけを愛するように。
光に愛されるためにだけ、存在する妻であるように。
理想の女性。
またとない妻。
そんな言葉を投げられる度に縁子は泣きたくなる。
だって、それは光が作り上げた縁子だ。
本当の縁子は、子雀を失ってべそをかいていたあの日のまま、どこか隅っこで膝を抱えている。
帰りたい
帰りたい
帰りたい
北山へ
縁子が縁子自身のものだった場所へ。
女三の宮の入輿は、結局縁子の日常をそれほど大きくは変えなかった。
まだ若い宮は年齢よりも幼く、六条院を切り回すのは変わらず縁子の役目であったし、宮の父院からは縁子にあてた懇ろな手紙を受け取りもした。
出家を決意した院の、愛嬢への心遣いであることはわかっても、それは縁子にとっては困惑する出来事だった。
そむきにしこの世に残る心こそ
入る山みちのほだしなりけれ
背の君の新しい妻の事を、その父からこんな風に託されるとは、なんという不思議なめぐり合わせだろう。
それも無理もないと思うことに、光の女三の宮への寵愛は決して深くはなかった。
縁子自身が宮と同席し、言葉を交わした事もある。
小柄でいかにもおっとりとした姫宮は、いつでもふわりと甘い笑みを浮かべたような表情をしていた。
受け答えも見るからに幼く、大人しすぎるありようを見れば、光にとって物足りない妻なのであろうということはわかる。
縁子だけでなく冬の御方、夏の御方をも抑え、中宮や女御の里邸でもある六条院を束ねるには余りに力不足だった。
そむく世のうしろめたくばさりがたき
ほだしを強しひてかけなはなれそ
縁子は迷った末に、宮の父院に返歌を送った。
不思議なほどに穏やかに日々は過ぎた。
女三の宮の父院のための五十の賀の準備でさえ、仕切ったのは光であり、力を添えたのは縁子だった。
光は入輿以来、女三の宮に教えていた琴を父院に披露させるのだと、指導に一層力をいれていたが、結局は女楽と言うかたちでの披露という話になり、縁子の他に冬の御方と大姫が加わって合奏をすることになった。
試楽の日、縁子は自分だけでなく従える女童の端々にまで心を配った。
同席する冬の御方は六条院の庭を預かる女君たちの中では最も身分が低いが、教養も人柄も、最も気の張る相手だ。大姫の生母でもある彼女とは、今では親しく文の遣り取りなどする間柄だが、やはりこのような時見劣りはしたくない。
幸い試楽は上手くいき、光も満足したようだった。
縁子が激しい発作に初めて襲われたのは、その翌日のことだった。
影が見ている。
その感覚は女三の宮の入輿以来、珍しいものではなかった。その視線を受けていると、時にいくらか胸苦しくなる事もある。
それでも努めて気にしないようにしてきたが、今夜は何かが違った。
脇息にゆったりと身をもたせた縁子の周りでは、女房たちがお喋りに花を咲かせている。それは光のいない夜、一人で早々と床に入るのを嫌った縁子が決めた習慣だった。
灯りはいくつも灯され、外では篝火もたかれて十分に明るい。
なのに、何故か暗かった。
その暗さが胸苦しさ故だと気づく頃には、もう息をすることが出来なかった。
光は今夜、女三の宮のところだ。自分の不調を知らせたくない。
「院にはお知らせしないで。」
様子のおかしい縁子に、慌てて寄ってきた女房にそう告げた途端、痛みが来た。
話すことで吸い込んだ息が、鋭く胸を割く刃に変わる。自分が二つに割かれたのかと思うような鮮烈な痛みは、容易く縁子の意識を奪った。
猫が見ている。
黒い猫だ。
木の根元をしきりに伺っている。
縁子は目を凝らす。
何かがいる。
小さな、ふわふわした生き物。
雀の子だ。
猫が子雀を狙っている。
縁子は反射的に駆け出す。
落ちていた棒を拾い、子雀を背にかばう。
「あっちいって。あっちにいってってば。」
猫に向かって棒を振り回す。
猫は迷惑そうに縁子を見て、後ろを向いて去って行く。
よかった。
縁子は子雀の側に座り込み、子雀をそっと両手ですくい上げた。
子雀はとても暖かかった。
縁子の病は長引いた。
結局人の多い六条院でなく、二条院で療養するという話になった。
光も縁子に付き添って、ほとんど二条院に移ったようなことになったので、むしろ六条院が静かになった。
影も、ついて来た。
影は猫が子雀を狙うように、じっと縁子を見つめる。影に見られると、発作が起きた。
光は不思議なほどに影を気にはしなかった。
いや、考えてみれば光は、どんなあやかしも気にしない。
もしかしたら光は、見鬼としての力はほとんど持っていないのではないか。
いつの頃からか縁子は、そう思うようになった。
全く見えないわけでもないようだが、あまりにも無頓着過ぎる。
全てのあやかしに、精霊に、見鬼に、無条件に愛され、しかも暗いものを弾いてしまう光にとって、見鬼の力などもはや不要なのかもしれない。
縁子にはその無頓着さと光の周囲の人間に対する無頓着さの間に、一脈通じるものがあるようにも思える。
あまりにも愛されるということは愛するという能力をそいでしまうものなのだろうか。
影は光がいても離れない。
むしろ光にこそ焦れて離れない。
それでも、縁子の発作が起きるのは、いつも光のいない時だった。
その日も光の留守中に発作が起きた。
まず胸苦しさ。喘ぎながら息を吸うと、刃の痛みが下りてくる。
痛みが恐ろしいばかりにぎりぎりまで息をつめ、耐えかねて大きく息を吸えば痛みは凄まじい勢いで、縁子を貫いた。
誰?
視界が変わる。
縁子を見つめているのは女だった。
美しく、気高い女。
ぬばたまの夜の髪は衣の裾より広く広がり、紅を塗らない唇は花弁を押したように紅い。切れ長の目は長い睫毛に彩られ、その奥の瞳は艶やかな光を宿す。
女は縁子を見ていた。
明らかな憐れみをもって。
ああ、彼女が影だ。
光に焦れ、縁子を苛む怨霊。
それにしても、なんと美しい怨霊なのだろう。
女が縁子に手を伸ばす。
呼ばれているのだとわかった。
その手を取り、この重い身体を捨ててしまえば縁子は自由だ。
いっそ、その手を取ってしまえば。
けれど。
「縁子!」
初めて聞いた、感情にひび割れた声。
けれど他のどんな声よりも、縁子に刻み込まれた声。
私は行けない。
怨霊の女の目に傷ついた光が宿る。
傷ついたのは縁子の拒絶にだったのか、それとも光のひび割れた声ゆえか。
光りが縁子を包む。
縁子は不自由な重いしがらみの中へと引き戻される。
怨霊の名は、やがて縁子の耳にも聞こえてきた。
故六条御息所。
かつての光の通いどころであり、秋の庭の中宮の生母。
現在六条院の一部となっている秋の庭は、まさに六条御息所の旧居のあった場所だ。
六条御息所には生前も噂があった。
光の最初の生室を取り殺した物の怪は、御息所だというのだ。
あの美しい女が御息所ならば、そうなのであろうと縁子は思う。
溺れる程に情の深い、その情の深さを表に出すことのできないほどに気位の高い、そしてあまりに深く傷ついた、そんな女に思えたので。
あの、女楽の次の日に、ふと光が今まで関わった女の話をした事があった。
「いつも一緒にいるには少し重苦しい方だったな。私も若かったからいつも背伸びばかりしてね。浮名など流すには貴すぎる方だったから、そのこともずっと苦にしておられたようだった。お互いにくつろげるような関係ではなかったね。それが段々辛くなって、足を遠のかせてしまった。」
六条御息所のことはそんな風に言っていたと思う。
「罪滅ぼしにもと中宮の親代わりとしてお世話をしてきたのだよ。そろそろ見直していただけていると思うのだけどね。」
光は軽々しくそんなことを言っていたけれど、あの女の傷が簡単に癒えるとは、縁子には思えなかった。
生霊を飛ばし、怨霊と成り果てるほどの執着とは、一体どれほどのものなのだろう。光の力に焼かれても、彼女だけはいつも側にいる。
同時に、そんないきさつのあった相手の旧居を、いかにその娘の里邸とするにしても自邸の内に平然と取り込める光の感覚に、首を傾げずにはいられなかった。
一度はほとんど息の根の止まりかけた縁子を光が呼び戻して、息を吹き返した後、憑坐の口を借りて怨霊は名乗り、光への恨み言を残したらしい。
光も思うところのあったようで、縁子は出家までは許されぬながら、戒をうけることができた。
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