第6話 あわゆきのよる
本格的に暑くなりはじめると、縁子の容態は更に悪くなった。
暑さに当たっているという自覚はなく、ただただ辛く苦しい。発作は毎日のように起きるようになり、その度に心の臓に切っ先の触れる心地がする。
光は毎日のように氷室から氷を取り寄せて削り、甘葛をかけて縁子に食べさせてくれる。さすがにその貴重な甘味は、弱った縁子の喉も通った。
大切にされていないわけではないと思う。
光の権力をしても、夏の氷は貴重なものだ。
光自身も忙しいはずの政務を縫い、できうる限り二条院の縁子の側に居てくれようとしている。最近では政務の方が光を追いかけて、二条院で行われていることがあるほどだ。当然、人の出入りは増えているが、縁子の病床を騒がすという程ではない。
二条院の地券を持つのは縁子だが、それでも寝殿は光のもので、縁子は攫われてきた少女の日から同じ対の屋を使っている。光を追いかけてきた政務は当然、寝殿で行われていた。
寝殿に住まうのはその邸の主夫妻だ。正妻だけが寝殿に住まう。
もっとも妻と呼べるほどの関係である女性が同じ邸内に何人も起居する例は珍しいので、本拠の邸に迎えた妻を正妻として扱うのが普通だった。
だからこそ二条院に住み、六条院の春の邸に据えられた縁子を、世間も光の正妻として扱っていたのだ。まさか六条院の寝殿に新たに内親王が迎えられる事になるとは、だれも思ってもみなかった。
失望することには、そして諦めることには慣れているつもりだった。
それでもその話を光から打ち明けられた時の縁子の衝撃は強かった。
先帝の、女三の宮。
光には姪に当たる内親王の将来と後見をを、先帝が光に託されたのだという。
それは単に後見人になるということではなくて、内親王を妻として貰い受けるという話だった。
当然、正妻となる。
縁子にはついに許されなかった寝殿に降嫁してくるのだ。
これはもちろん、単に光の新しい妻が増えるという話ではない。
縁子が正妻の座を追われるという話ですらない。
縁子はそもそも正妻ではなかったと、公に確認されたと言う話なのだ。
これほどの屈辱があるだろうか。
長い間、光の正妻格として扱われ、縁子自身もそのつもりでいたものを、今になって丸ごと否定されようとは。
当然、大騒ぎになった。
女房たちはさすがに光への非難を口にしたが、縁子はほとんど恨みごとを口にしなかった。そんなことを言えるだけの余裕すらなかった。
なまじ同じ邸内であるだけに、女三宮を迎えるための騒動は、逐一縁子に伝わってくる。それどころか時にはさりげない指図さえ、出さないわけには行かなかった。だって、縁子は長い間、六条院の女主人の役目を担ってきたのだ。働く者たちにしてみれば、他の誰に指図を仰げるだろう。
そうして心乱れつつ、気ぜわしくしているうちに、その日は来た。
しずしずと邸内に引き込まれる
光みずから皇女を抱き上げて寝殿に迎え入れる。
従う女車も長々と連ね、寝殿に入った女主人を追って、きらびやかな女房達が続いた。供奉の公卿、上達部達を迎えた宴も賑々しい。
「何人の女房をお連れなのかしら。」
「入内並みのお支度ですよ。随分と人もなげなこと。」
縁子付の女房達が、苛立たしげな囁きを交わす。
彼女達としても心静かではいられないのだろう。女主人付きであったはずがそうでなくなったという事なのだ。これから女三の宮が正妻として幅を利かせることになれば、面白いはずがない。
「つまらない事を言い立てるのはよしましょう。院の慶事ですもの。朗らかにお迎えしなくては。」
縁子は強いて微笑み、女房達の囁きを止めた。
内親王入輿の宴は三日続く。
その間、光は毎夜新婦の元に渡る。
縁子は光の身支度を整えて送り出さなければならない。
ポカンと空いた時間は、そのまま縁子の心に空いた隙間だった。時間ならば女房たちとお喋りでもして強いて埋めることもできようけれど、心はどうすることもできず、ただ虚しさだけが吹き抜けてゆく。
その索漠とした心持ちでぼんやりと思う。あの日、枕辺に餅を差し出されたあの日、こんな日が来るなんて想像したこともなかった。
庭では梅が盛り。
艶やかに咲く紅梅。
匂やかに咲く白梅。
春の庭はまさに春を迎えようとしている。
ただまだ風は冷たくて、その冷たさが今の縁子には逆に心地良い。待ちかねた筈の春にふさわしくはない心中に似つかわしいようにも思えるからだ。
入輿のその日からの冷え込みは三日目の夜、ついに雪を降らせた。
ひやりと冷たい削り氷は縁子の舌先で儚く溶ける。まるで春先の淡雪のようだ。あとに残る仄かな甘さが、冷たさを含んで喉へと下りてゆく。
こくり
飲み込んで見上げると、銀の匙を手にした光が見えた。
再び削り氷を匙にすくい、そっと縁子の口に運ぶ。
縁子は口を開け、その淡雪に似た甘味を受ける。
光の表情が僅かに緩む。
大切に、されている。
たぶん誰よりも、どの女君よりも大切にされている。
それでも、縁子の胸に生まれた隙間を、その隙間を吹き抜ける虚しさを、埋めることはできなかった。
あの日、淡く梅の香を含んで舞う雪を肩先に浴びて、簀子に座り込んでいた光を室内に招き入れたのは縁子だった。冷え切った光の体を大袿で包み、氷のような指先を両手で包んで暖めた。
光を冷やした夜気のような、ひえびえとしたした心持ちでも、涙だけは熱いのがふしぎだった。
なんて、ずるい人だろう。
こんな虚ろな涙さえ縁子に流させておきながら、それでも縁子を手放すまいとする。いっそいらないものとして打ち捨ててくれたなら、縁子は心置きなく髪を下ろして、北山へと帰るのに。
ああ、そうか。
縁子は不意に気づいた。
出家した祖母が北山に結んでいた小さな庵。
幼い縁子と犬君、乳母や女房たち。
縁子は出家したいのではなかった。
自由になって北山へ帰りたいと願っていたのだった。
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