第5話 なごりのふき

 少しづつ暑くなりだすと、縁子の食欲は目に見えて落ちた。茹でこぼして刻んだ蕗を散らした粥などはそれでも僅かに食が進み、膳部ではそろそろ季節の終わりかけている蕗を塩漬けにして保存した。

 「おばあさま、まろがとったんだよ。」

 籠にいっぱいの蕗を運んできたのは、縁子が養育している三の宮だ。

 「みんなでとったんでしょ。ずるしちゃだめよ。」

 姉の女一の宮が唇を尖らせる。

 「小春に教わったの。六条院にはずいぶん沢山生えているの。」

 二人の宮の後には小春もいた。小春は二人にとっては良い遊び相手で、よく一緒に遊んでいる。野草に詳しい小春は宮たちにとってはちょうどいい先生なのだろう。

 「ねえ、おばあさま。これを食べたら元気になる?」

 不安そうにまつわりつく三の宮の髪を撫でる。

 「そうですね。元気にならなくてはね。」

 縁子が育てた大姫の子どもたちは、みな縁子に懐いているが、この三の宮と女一の宮の二人は特に、縁子の猶子になっていることもあり、縁子にまつわりついていることが多かった。

 「もうすぐしたら梅の実も摘んで、おばあさまに梅干を作って差し上げるわ。」

 女一の宮はそう言うと、小春と一緒に蕗を膳部へと運んでいった。

 その梅干しを食べるまで、自分は生きていられるのだろうか。

 生きていたいと願う一方で、難しいのではないかという思いもする。

 孫の宮たちもまた天孫の直系であるので、あやかしを滅多に寄せ付けない。それでもあの影は隅の暗がりにうずくまって、縁子から離れようとはしなかった。少しづつ発作の頻度は上がっていて、そのたびに縁子は切り裂かれ、生命を取りこぼしてゆく。

 「おばあさま、元気になってね。」

 いちばん甘えん坊の三の宮が不安そうに縋り付くのを、縁子はそっと膝に抱き上げた。

 ずっしりと重い幼子の温み。

 細い黒髪がふわふわと収まり悪く散っている。

 愛しい、愛しむべきもの。

 その収まりの悪い髪を撫でながら、同じように髪を撫でた記憶に思いは飛んだ。


 光によく似た整った顔立ち。

 ふわふわと収まりの悪い、幼子特有の細い髪。

 子供は真新しい袙(あこめ)を着せられていた。

 よく眠っていて、縁子が抱きとっても目を覚まさない。

 ずっしりとした重みと温み。そしてどこか懐かしい、独特の匂い。

 震えるような愛しさが、身体の底から湧き上がってくる。

子供は、光が明石で通った女との間の娘だった。

 憎しみは感じなかった。

 ただ、痛みがあった。

 この愛しく美しいものを、自分の胎内にこそ授かりたかったという痛みが。

 その痛みも全てひっくるめて、この子を愛そうという思い、愛さずにはいられまいという確信があった。

  柔らかい温みが、縁子の中に眠る記憶を揺らす。

 子雀だ。

 あのすくい上げた掌の温かさ。

 あの時縁子は、子雀を愛しく思い守りたいと思った。

 守られ、愛されるだけが自分の在り方ではない。

 思い出したその気持ちは、諦めと孤独に立ちすくんでいた縁子の景色を明るくした。


 しばらく縁子にまつわりついていた三の宮は、そのうち庭で遊び始めた。

 女一の宮と小春と一緒に白梅の木を見ている。まだ幾分小さい梅の実が、鮮やかな若緑を見せていた。

 庭が、明るい。

 うららかと言うには強くなりつつある日差しが、庭そのものを煌めかせているようだ。楽しげな子どもたちの笑い声が、泡のように小さく弾ける。

 愛しい、愛しい子どもたち。

 心を込めて育て上げた大姫。

 今や中宮となった大姫の産んだ宮さまたち。

 縁子の心を温め続けてくれたのは彼らだ。

 明石から戻った後も光の裏切りは途切れることはなかった。

 縁子の立場を揺らがさなければいい、というものではない。一度手に入れたものを手放そうとしない光の執着癖、興味をひかれるものを見つけるとすぐに手に入れようとする浮気癖は結局落ち着くことはなかった。

 光という人間を満たすのに、一人や二人の女では足りようもないのだろう。

 光しか許されず、光だけを愛するように仕向けられ、まんまと光を愛してしまった縁子には、それは苦い現実だった。

 もはや光の愛情は縁子を温めてはくれない。それは細い綱のように、縁子をがんじがらめに縛りあげる。

 恋しくて

 愛しくて

 恨めしくて

 苦しくて

 自由になりたいと望んではみても、強引に手を振り払う勇気はない。

 縁子自身、もうはっきりとはわからないのだ。自分が本当に望むものがどんな形をしているのかも。

 「お方さま、粥ができてまいりましたわ。宮さま方お手摘みの蕗も入ってございますよ。」

 女房たちが膳を三つ運んでくる。

 縁子と、二人の宮たちのための粥が、柔らかい湯気を立てている。

 「宮さま方、粥ができましたよ。お方さまとご一緒にお召なさいませ。」

 呼び声に子どもたちが戻ってくる。宮たちと一緒であれば縁子の食がいくらかでも進むことを、女房たちもわかっているのだ。

 「いい香り。」

 「おばあさま、まろの蕗食べて。おいしいよ。」

 縁子が食べなければ二人も、庭先から心配そうに見ている小春もがっかりしてしまうだろう。

 縁子は微笑むとそっとさじを取った。

 

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