第4話 まつよりなみは

 菜種の花の鮮やかな黃が、目にしみるようだ。蓬の爽やかな香も好もしい。

 小春が様々に摘んでくる野草は、縁子の心を慰めてくれる。植えられた花々でない野草は地味ではあるが、縁子にとっては懐かしい。

 北山にいた頃は犬君と二人でよく草摘みをした。

 時には二人が摘んできた野草が食膳にのることもあった。

 色の鮮やかさについ花ばかり摘んでしまい、もっと青い蕾を摘んできて欲しいと叱られたのも懐かしい思い出だ。

 庭には丹精をこめた草木が配置され、それは美しい眺めを作っている。その眺めは素直に美しいと思うけれど、今、縁子の心を揺らすのは、幼い日には手ずから摘みもした素朴な野草の類なのだった。

 春先の蕗の薹。

 蓬 田菜 菜種 母子草

 山百合は花の時期に場所を覚えておけば、そのうちに白い百合根を掘ることができる。茹でるとほっこりと甘い百合根は、縁子と犬君の好物だった。

 「何を持ち込んでいるのだ。黄色い花など不吉な。」

 振り返ると光が立っていた。

 縁子はふわりと笑う。

 光が好きな、今やすっかり身についてしまった柔らかにあどけない笑みを浮かべる。

 「院、お怒りあそばさないでくださいませ。私がとってこさせたのですわ。」

 光の怒りに怯えて縮こまる小春をそっと庇い、立ち去らせる。

 「北山にいた頃はよく摘んでいたのです。花のついたのばかり摘んでよく叱られましたわ。蕾じゃないと美味しくないって。百合根を掘ったこともあるんですのよ。」

 「あなたが百合根を?」

 怒りを解いた光が笑う。

 「結構コツがあるんですの。知りたければ教えて差し上げますわ。」

 光が怒り出した理由はわかっている。菜種の花の黄色は黄泉に通じる色だ。縁子の病状のはかばかしくない今、不吉な連想を誘う全てが憎いのだろう。

 「須磨に行く時にあなたを伴うのだったな。そうすれば百合根を食べさせて貰えたろうに。」

 「もちろんですわ。お食膳を賑やかすくらいは出来ましたのに。」

 須磨、そして明石という言葉は今も縁子に痛みをもたらす。それはあの息の根を止める病のように鋭く切り裂くものではないが、したたか打ちすえたあとが何日も経ってもまだ鈍く痛むのに似た、深く淀む痛みだった。

 あの時、縁子が思い知らされた事。

 縁子には、光しかないという事。 

 そして、

 光には縁子の他に、たくさんの心にとめるべきものがあるということだ。

 光から離れて京に残されても、縁子の生活は結局光に支配されていた。

 光の残した邸に住み、光のあてがった使用人に囲まれているのだから当然だ。あの頃にはもう北山から縁子の側にいてくれた者は、誰一人残ってはいなかった。

 どれだけ大切にかしずかれてはいても、光のいない淋しさ心細さはたとえようもない。しかも、光が自ら京を落ちる理由になった、殿上の札を削られた直接の理由は女性問題なのだということは、縁子の耳にさえ届いていた。

 帝の寵姫と通じたのだという。

 帝の寵姫に手出しなどすればただですむはずのないことは縁子にだってわかる。それは縁子にとっても手痛い裏切りだった。


 ひどい、ひどい、ひどい。

 何度も何度も何度も、声を殺して縁子は泣いた。

 心細くて、淋しくて、悲しくて。

 言いたいことはあまりにもありすぎて、声なく責める言葉さえ、ただ「ひどい」の一言になってしまう。

 なぜ、帝の寵姫に情など通じたの。

 なぜ、私を置いていってしまうの。

 なぜ、私にあなたを愛させたの。

 たぶん縁子は少し思い上がっていたのだ。自分は、自分こそは、光にとっての「特別」なのだと。

 それが思い上がりでしかなかった事を思い知らされて、どうしようもなく打ちのめされた。

 光に通いどころがいくつもあることは知っていた。数多い女君が光を待っていることはわかっていた。その事はもう諦めていたのだ。彼女たちは縁子よりも早くから光と関係を持っている。あとから割り込んだのは縁子なのだ。

 しかし、帝の寵姫との密通は話が違う。

 いかにもとは関係のあった女性でも、帝の寵愛を受けている最中の女性と通じるのは決して許されないことだ。

 それでも、光は彼女と通じた。

 その事が、縁子を苦しめている。

 そうまでして密通するのは光がその寵姫によほど執着しているからなのだろうと思うからだ。

 私はあの方の特別ではなかった。

 そのことに、縁子はどうしようもなく傷ついた。

 傷ついてしまった。


 光が縁子を抱き寄せる。

 抱き寄せて髪を撫でる。

 縁子の髪を削ぐことを、光は誰にも許さない。だから離れていた二年のうちに、縁子の髪は毛先が傷んで、光が京に戻った頃には随分ともつれやすくなっていた。

 「どうしました。私の顔に何か付いている?」

 つい、顔を真っ直ぐ見つめてしまって、そう聞かれた。

 「いいえ、院がここにいて下さって良かったと思って。」

 抱き寄せる光の腕に力が入った。

 光が指を絡めたこの髪を何度もおろしたいと願っては、光に押しとどめられてきた。

 光は縁子を離さない。

 決して手放してはくれない。

 でも、それとても特別なことではないのだ。

 東二条院には光の古い馴染みの女性たちが何人も暮らしている。彼女たちの何人かは出家しているが、それでも光は手放すことをせずに囲い続けていた。縁子は彼女たちの誰よりもはっきりと光のものなので、出家する事も許されない。

 私は本当にこの人を愛しているのだろうか。

 時にそんな索漠とした思いに囚われる。

 愛するより他に道がないから愛した。

 それは果たして愛するという言葉に値するのだろうかと。


 縁子の中に「諦め」が根を張った頃、その便りは来た。

 光が明石で「夢を見た」という便り。

 その便りに傷つかなかったといえば嘘にはなるけれど、それは衝撃というほどのものではなく、ただ暗い諦めを深くしただけだった。

  うらなくもおもひけるかなちぎりしを

      まつよりなみはこえじものぞと

 波は松を越えないのだろう。

 ただ光の約束は、それほどに確かではないというだけだ。

 縁子は、光にとって特別というわけではない。

 その事実を諦めと共に受け入れてしまった縁子にとっては、それはただ事実の追認であるに過ぎなかった。

 

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