第3話 みかよのもち
影が立つ。
濃い影だ。
その影に応えるように、縁子の胸がきりりと痛み始める。
痛みは縁子の体を縛り、息の道を細くする。
苦しい
苦しい
苦しい
縁子は痛みに耐えて息を吸おうとする。
息は氷の剣のように鋭く縁子の胸を裂きながら、縁子の体を満たしてゆく。
この痛みはきっと、遠からず縁子の心の臓を止めるだろう。
かといって、息を吸わなければもじどおり息の根が止まってしまう。
どちらにせよおそらく縁子は死ぬ事になるのだ。
痛みと苦しみに涙目になりながら、縁子は影を見上げる。
痛みに体を折った縁子を影が見下ろす。
いや、影が見ているものは、焦がれるほどに見つめているものは、きっと縁子ではない。
縁子は随分昔からこの影を知っている。
たぶん二条院に移ってすぐのころから。
覚えているのはこの影だけが光のいるときにも見かけることのある影だったからだ。
光のいる場所はいつも明るい。
喜ばしい、明るいものだけが光に慕いよることができるからだ。
おぞましく邪な、暗いものどもは、光に近寄る事ができない。光のうちにある天孫の力が彼らを焼いてしまう。
ただこの影だけが、隅の暗がりにうずくまるように、光のそばにいつも控えている。
それでも昔は、見かけるのは稀な事だった。いつでも光のそばに控えているようになったのは、光が明石から戻ってしばらくたってからだ。
焼かれていないわけではないと思う。
焼かれながら、おそらくは恐ろしい苦痛に耐えながら、影はそこにうずくまっている。
光は不思議に影には気づいていないようで、まるで意識する様子を見せない。
輝かしい光と、そこに群がる明るいものたち。その中で影は恐ろしく異質なのに、しっくりと収まってしまっている。それこそ「光」に伴う「影」のようで、むしろ存在することで何かが安定したように感じるほどだ。
その影が縁子を苛むようになったのは、光が寝殿に内親王を迎えてしばらくしてからだ。
ふと、影が縁子の側に立つようになり、胸が苦しくなるようになった。息を吸うのも辛く、吸った息は鋭い痛みをもたらす。
そんな発作を繰り返すうちに、縁子はどんどん弱っていった。まるで切り裂かれた切り口から、生命がこぼれ落ちてしまったように。
「お方さまっ」
摘んだばかりらしい花を手に、小春が駆け寄ってくる。
「お方さまっ、大丈夫ですかっ。」
小春の声に他の女房たちも集まってきて、大騒ぎになった。縁子は床に横たえられ、加持の僧がすぐに手配される。
そうなると影は静かに隅に退いて、縁子の胸苦しさも緩んでくるのだった。影は決して急がない。じわりじわりと少しずつ、縁子の生命を奪ってゆく。
読経は潮騒のようにうねり、痛みと苦しみから解放された気の緩みで縁子は眠りに落ちていった。
背の君と、妹背の仲と、意味もわからず呼び、呼ばれていたことに縁子はその朝初めて気づいた。背の君を通わせると言うことを、同じ臥床に休む意味を、縁子はまるでわかっていなかった。わからないままに光の腕を枕に眠り、抱きしめられることを覚えた。
いつの間にか少しづつ、確かに縁子は慣らされていたのだ。光に触れられるということに。
それでも全ての紐を解かれ、わけのわからぬままに組み敷かれた衝撃は、あまりに大きなものだった。光の腕の中で最早眠ることもできず、夜明けに光が去ってゆくまで縮こまって震えている事しかできなかった。何やら細々と囁かれたことも、ほとんど耳に入らなかったが、去り際の「今宵また」の一言だけが耳に残った。
今宵また、光がやってくるのだ。
そして同じように縁子の紐を解き、縁子の身体を組み敷くのだろう。きっともう二度と優しく抱きしめるだけで眠らせてはもらえない。
それに。
今宵、今までと同じように腕枕で抱きしめられたとして、縁子は眠ることができるだろうか。何が起きうるのかということを、知ってしまったというのに。
縁子はうろたえた。
うろたえてもどうすることも出来はしない。女房にも、こんなことをどう言えばいいのかわからない。
しかも間の悪いことに縁子に生まれたときから仕えてくれていた乳母は最近病がちになり、今は宿に下がっている。今日、そばに控えているのは、光が縁子につけてくれた新しい乳母だった。気の利くしっかり者の乳母だが、こんな微妙な問題について話せるほどにはまだ馴染んでいない。
うろたえているうちに夜が来て、光が現れた。
いつもより訪れは遅く、すでに床に入っていた縁子の元にズカズカと入り込んでくる。
怖かった。
ただもう怖かった。
直衣を脱ぐ衣擦れの音。
必死に頭から被って押さえた大袿も、縁子の身体ごと抱き上げられてしまえばもうどうしようもない。
その夜も、次の夜も。
光におびえ蹂躙されて眠ることもできない夜を過ごし、三日目の明け方に縁子の枕辺に餅が差し出された。
光の腕の中でまた眠る事ができるようになったのは、いつ頃の事だったろう。
それは決して納得し、安心しての眠りではなかったはずだ。疲れきり根負けしたような形で、再び光の腕の中でまどろむようになったのだった。
三日夜の形も整い、その後ではあったものの縁子の父を腰結に招いての裳着も行い、光は縁子の出自をきちんと整えてくれた。
それがどれ程に稀有なことであるか、分からない縁子ではない。正式な北の方でこそなくとも、縁子は光の本拠に住まう権の北の方として、十分に重んじられてきた。それはこの時に光がきちんと形を整えてくれたからこそだ。
病がちになっていたもともとの乳母は、その事を本当に喜んで、そして縁子のそばを辞した。
それでも、縁子の心には今も消えない傷がある。
縁子はその時まで、男女のことを本当にわかっていなかった。今にして思うと、光がそのように仕向けていたのだろう。もともと少なかった北山から縁子に仕えてくれていた者たちが、だんだんに縁子の側から消えたのも、おそらくは光の差し金だ。
縁子が光以外には頼ることのできないように。
縁子が光だけを愛するように。
そして本当に純真な少女のままで光の手に落ちるように。
光は注意深く全てを整えていたのだ。
かわいそうだと、縁子は思う。
大袿を被って震えていたあの日の縁子は本当にかわいそうだった。
たった一人だけしかいないように仕向けられ、しかもその一人におびえて、誰にも何も言えずに震えていた縁子。
せめて心の準備があればずいぶんと違ったろうに、誰も何も縁子に教えてはくれなかった。
怯えながら、恐れながら、恨みすら感じながら。
結局、縁子は光を愛した。
愛するより他にできることは何もなかった。
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