〈コトノハ〉の紡ぎ人

ぺーさん

第1話 序章

 濃い霧が、忙しなく動く光を包みこんで離さなかった。

 白い濃い霧の中に、光が三つ。それ以外は何も見えなかった。どれも忙しなく動いていたが、三つの光の目的地は同じなのであろう。まっすぐ列を成して進んでいく。

 真ん中の光は、他の光よりも、ひと際大きく、力強かった。

 それぞれの光を見ると、霧に乱反射して作る光の円の内側に、もう一つ力強い光の円がああることに気付く。光の円は、小さな粒子のような物が集まってできたのだろう。後から、後から、粒子は仲間に遅れまいと、光に近づき、光と一緒になって、円の一部になった。また、もう一方の端では、小さな粒子たちが、ふらっと蛍のように光の円から離れ、すっと、どこかに消えていった。まるで、力を使い果たしたように。

 3つの光は、それぞれ、男女を一人ずつ包んでいた。三人とも旅人が良く身につける、黒く長い丈の外套で全身を包んでいる。雨は降っていなかったが、濃い霧は、それぞれの外套に雫をつけていた。

 先頭の光は、若い男で、背が高かった。思慮深そうな眼が、頭から被った外套から見えていたが、その表情にはうっすらと、若さに比例しない苦慮が見て取れた。

 一番後方の光には、初老で、背丈の小さな男が包まれている。その小さな体は、先頭の男よりも二倍も早く動かされないと、列に着いていけないように見えた。しかし、がっちりとした体つきは、先頭の男よりも、遥かに横に広く頑丈な体を持っていたので、悠々と初老の男は前の二つの光についていった。

 真ん中の光に包まれているのは、若い女だった。その胸には、赤子が抱かれている。赤子は、忙しなく腕の中で揺らされていたが、気持ちよさそうに眠っている。若い女の表情には疲労が見えた。ただ、その結われた唇と眼光からは、強い覚悟が見て取れた。一歩一歩は弱弱しかったが、湿地を進んでいるため、ぬかるんだ地面に足がとられても、確実に、歩みを進めている。

 光に包まれた三人の男女は、奇妙なことに、抜き身の、木で作られた剣を腰に差していた。木で作られた剣は、磨かれて、加工された美しい姿をしているのにも関わらず、生木のように、生き生きとした生命力に溢れているように見え、傷一つなかった。そして、普通の剣と比べると、異常に細く、軽そうに見えた。

 若い男は、振り返って若い女と赤子を見ると、若い女は微笑みを返した。若い男は苦笑する。若い男は、赤子を代わりに預かろうとしたのだろう。しかし、母親の頑強な意思に拒まれた。若い男の苦笑は、母親は強い、と言いたげにも見えた。

「もう少しだよ、頑張って。」若い男は、赤子の母親に言った。赤子の母親は答えて頷いた。疲労の色が濃い。

 三つの光は、列をを作ってしばらく進む。泥が跳ねる音だけが、霧の中で響いている。

「ここだ。」先頭の若い男が言った。

 若い男が手を前に差し出すと、若い男を包んでいた光の円が腕に合わせて変形し、そこから、細かい粒子のような光の粒が、三人の眼前にそびえ立つ、巨大な「壁」を照らし出した。黒く、傷一つなく、磨かれた大理石のような「壁」は、「壁」としか形容することが出来なかった。しかし、確実に、自然に作られた存在ではないことが、誰の目でも明らかだった。その見た目は、風雨にさらされているはずだが、見る者に、磨き上げられたばかりの装飾品を想像させた。何かを遮るために作られた「壁」は、その役割を如実に表現するように、天を突き、地の果てまで続いている。霧に包まれていても、誰しもが、その「壁」の役割を知ることが出来た。

 若い男は、傷や亀裂一つない壁に触れると、黒い壁は、波を打った。よく見ると、壁自体が波打ったわけではないことが分かる。若い男を包み込んでいた光を作り上げた粒子のようなものが、黒い壁にも、無数に存在していて、小さな光を脈動している。それが、若い男に触れられたことによって、波打ったのだ。一つの傷もなかった壁は、粒子の波がひくと、綺麗な亀裂が入り、二つに割れ、扉のように開いた。扉の向こうには、霧は全く存在せず、穏やかな夜の草原が広がっているのが見える。若い男は何気なく、自分の足元を見る。足元はぬかるんでいて、長い旅路によって、靴は泥だらけだった……。

「よく頑張ったね。」

 そういって、若い男は若い女を抱き寄せた。

 二人を包む光が重なる。

 初老の男は、二人と少し離れたところであたりを睨みつけている。

「さあ、ここからは老師が案内してくれる。前にもいったと思うけど、老師はもともと、〈壁向こう〉の人間なんだ。だから、老師がここからの世話を全てしてくれる。それに、アリーシャは老師に、とても懐いてくれているからね。」若い男がいった。

 女は初老の男の方を見て、微笑む。初老の男は、頭を掻いていた。きっと聞こえていたのだろう。初老の男は、恥ずかしくなると、頭を掻くのが癖だった。

 あなた、と若い女が言うと、アリーシャと呼ばれた赤子を差し出した。

 若い男は露に濡れた外套を払うと、若い女から赤子を受け取って胸に抱いた。

「見てごらん。」若い男は言う。

「こんなにも粒子〈パーティクル〉がこの子に集まっている。意思も持たない、意味持ってない、〈コトノハ〉でもなく、印〈マーク〉でもない、印にもなれない、なれの果ての、ただ彷徨うだけの粒子が、この子を包み込んでいる。こんなにも、理に愛されているんだ……。」

 そう言うと、若い男は、赤子の頬を撫でた。

 若い男の無骨な手を嫌がったのか、赤子が鳴き声をあげた。

 その瞬間に、若い男と若い女を包む、重なった光は消え去り、少し離れたとこにいた初老の男を包む光も消えた。扉のように開いた「壁」からも、脈動していた粒子が消え去り、ただの石の壁のように変わった。先ほどまでの粒子の「ざわめき」消え、三人を暗闇が包んだ。

 若い男はため息をつく。

「私の手と同じか……。」

「愛していても、愛されていても、伝える術が無くて、傷つけてしまう。」若い男は、赤子の頭を優しくなでると、少し悲しそうに、泣き止まない赤子を若い母親に渡した。

「違うわ。そうじゃない。」若い母親は、赤子をあやしながら言った。

「あなたの手は愛情に溢れているわ。少々無骨なのも、私たちを守るため。それを、まだこの子は知らないのよ。でもね、この子と同じ。この子があなたの愛情を知ることが出来たら、あなたの手は、愛情そのものになるわ。そして、〈コトノハ〉達もそう。互いに、理解することが出来れば、互いの愛情を知る術を見つければ、とても、とてもとても力強くこの子を愛してくれるし、力を貸してくれる。絶対、そうなるわ。」

「君のような、偉大な〈コトノハ〉使いが言うんだ。絶対そうなるに違いない。」若い男は微笑む。

「だから、だからこそ、〈コトノハ〉に溢れる、この世界にいることは、アリーシャを危険にさらすことになる」覚悟を確かめるように、若い男は言う。

 若い母親は頷いた。

「いつか、この子が成長して、〈コトノハ〉が持つ愛情を知り、この子がそれを受け入れることが出来るようになったら、そのときに、あなたの元に戻ります。それまで、どうか、どうかお元気でいてね、ハリス。」

「ああ、わかっているよ。アリーシャをよろしく頼む。きっと、美人になるんだろう。君の素敵な栗色の髪をもった女の子に。」

「あなたの水色の目は、もう受け取っているわ。」

「そして、多くの〈コトノハ〉に愛される〈コトノハ〉使いになる」

「きっと、いえ、絶対そうして見せるわ。」

 別れの言葉を互いに絞り出すように言った。どんな言葉を言えば、後悔しないのか。後悔しない言葉を必死に探している。若い女も、若い男も涙を流さなかった。その代わりに、アリーシャと呼ばれた赤子は、ますます、鳴き声強めた。

 若い男はもう一度、若い女と、その胸に抱かれた赤子を抱いた。

「老師。」

 そう呼ばれると初老の男は二人の、三人のもとに駆け寄った。その顔が涙にぬれていることに気付くと、若い男は苦笑した。若い女は、荷物入れから、ハンカチを差し出す。

「老師。妻と、娘。アリーシャをお任せいたします。多大な苦労を与えてしまい、私が言える資格はありませんが、どうか、お健やかに、先生。」

 老師と呼ばれた初老の男は片手を胸に手を当て、背筋を伸ばした。

「承知致しました、ハリス様。老骨に過ぎぬ、私めですが、ラライール家に、何よりも、ハリス様に絶えることのない忠誠を誓った身でございます。ご息女と、高名な〈コトノハ〉使いであらせられるご婦人に、老生のような守り手が、必要かは存じ上げませんが、この身に代えて、お守り致します。」そういって、頭を下げた。

「さあ、もう日が昇り始める時間だ。日が昇り始めれば、否が応でも、人目に着くよ。こっちの世界じゃ、あまり関係ないけどね。」ハリスと呼ばれた若い男は、空を指さして苦笑する、「壁」は霧の世界とそうではない世界とを隔てている。

「じゃあ、行くわ。ハリィ。」

 母親の胸で抱かれた赤子は、いつの間にか泣き止んでいた。

「分かっていると思うけれど、私はこちらに残る。こちらから、門を閉めてしまえば、そちらからは開くことは出来ないからね。そちらの世界は、〈コトノハ〉が、とても薄い。だから、アリーシャには良いのだが……。」

「用意はいいかい、二人とも。いや、三人だったね。」

 母親は、ええ、と頷き、初老の男は軽く頭を下げた。

「さあ、いって。」

 ハリスの言葉に促されて、〈コトノハ〉使いと呼ばれた若い母親と赤子は門をくぐり、それに続いて、初老の男も続いた。促した本人のハリスが、誰よりも名残惜しそうにしている。妻と娘に、無意識に伸ばした腕を片方の腕で抱きしめた。

「それじゃあね、ハリス。お元気で。」

「ああ……。」言葉にならず呻きになってしまい、ハリスは恥ずかしさで首を大きく振ったが、妻は気にせず微笑んでいた。

 ハリスは門を開いたときと同じように、軽く「壁」に触れた。

 壁やハリスの回りには、いつの間にか、粒子が戻ってきていた。ハリスを包む光が、少しずつ強くなってきている。壁の向こうで、微笑む妻がかすんで見えた。微笑む妻にも、付き従う老師と呼ばれた初老の男にも、消え入りそうな光しか戻っていない。しかし、その胸に抱かれた赤子には、門から飛び出した、光の粒子が優しく付き添い、包んでいる。その光は、”こちらの世界”にいるハリスの光よりも強かった。

 妻がアリーシャの小さな手を持ち挙げて、こちらに振っている。

 ゆらり、ゆらり、と、小さな手を包んだかぼそい光が、振られた手から少しだけ遅れて一緒に揺れる。

 ああ、こんなにも愛されている。ハリスは思った。

「壁」に触れた手に集中した。

 眼をつぶり、印〈マーク〉辿り、〈コトノハ〉に触れた。

 眼をあけると、音もたてず、「壁」に開かれた門が閉じた。

 ハリスと呼ばれた男が、閉じた「壁」をさする。

 傷一つもない、艶やかな「壁」が、彼と、妻と娘を隔てた。

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〈コトノハ〉の紡ぎ人 ぺーさん @perparsan

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