第3話 怪人さんのお隣さん

 深夜まで稽古に明け暮れてようやく帰宅した“怪人さん”こと沼田孝行は、アパートの廊下でぐったりと座り込んでいる一人の女性を発見した。黒のジャケットにスキニージーンズ、短く切りそろえられた黒髪が、彼女の引き絞られた弓のような鋭い美しさを引き立てている。廊下の古びた電灯に照らされて、全身を覆う黒の中にわずかに白い肌がのぞく。女性の頬は熱でもあるのか、紅潮している。おそらく、彼女がだらしなく大口を開けて寝入っているのでなければ、誰もが彼女の身を案じ、声をかけただろう。

 彼は内心、またか、と呆れていた。しかし、そろそろ秋も中旬に差しかかる。ジャケット一枚で屋外で一夜を明かすには、最適とは言えない季節だろう。どうにかして、彼女を起こすほかない。

 沼田は彼女のそばに寄ると、左腕のハサミの甲で頬に触れた。強いアルコールの香りが風に乗って漂ってきて、思わず顔をしかめる。

「にゃ~、ちべた~い」

 気持ち良さそうに女性がつぶやくが、呂律が回っていない。それで目を覚ますのかと思いきや、今度は沼田のハサミをがっちりと抱え込んで再び寝入ってしまった。

「いや、他人の部屋の前で寝ないでくださいよ……」

 しかし沼田の弱々しい抗議は聞き入れられなかった。加えて、抱え込んだ左腕も離そうとはしない。彼は仕方なく、根気よく声をかけながら空いた右手で女性の肩を揺すった。

「ん~? あ、沼田か~、おかえり~」

 ようやく目を覚ました女性が、寝ぼけ眼で言う。沼田は深いため息をついた。

「いや、そうじゃなくて……。一人で部屋に戻れますか?」

 何のこと、とでも問いたそうに、女性が首をかしげる。まだハサミは抱え込まれたままだ。

「鍵は? 持ってますか?」

 彼女は依然としてとろんとした表情のまま、あごをしゃくって“古河”と書かれた表札の下にある植木鉢を示した。ああ、よくこれで空き巣にあわないな、と彼は再び呆れる。しかし、以前にもこうして彼女を部屋に押し込んだ時に見た惨状を思い出して、あれでは空き巣も物を盗む気にはならないか、と思い直した。

 沼田は左腕に巻きついたままだった女性の腕をそっと引きはがすと、おそらく模造品なのだろう、やたらと軽い植木鉢を持ち上げて鍵を拾い、玄関のドアを開けた。

「ほら、古河さん」

 沼田がうながすが、彼女はさも動きたくなさそうに低くうなっただけだった。

「仕方ないな……」

 再び深いため息をつくと、沼田は右腕で彼女の背中を、左腕で足を抱きかかえ、玄関まで運んで、フローリングの上に座らせた。手探りでキッチンの電気をつけると、女性はまぶしそうに目を細めた。沼田は背負っていたリュックサックからタオルを取り出して足を拭いてから家に上がった――これは常に裸足の彼が家に上がる時に気にしているマナーだ。彼は流し台に使い終わった食器やらペットボトルやらが乱雑に置かれているのを横目で見ながら、部屋の電気をつけた。

 この部屋の構造は、隣室である沼田の部屋と同じだ。1Kの簡素な部屋。だがしかし、沼田の部屋よりも圧倒的に物が多い。脱ぎっぱなしの衣類、コンビニエンスストアのビニール袋、弁当の空容器、読みかけの雑誌……それらが部屋一杯に溢れかえっており、足の踏み場もない。地獄絵図だ、と沼田は思った。

 さすがに、普段寝起きする布団は、かろうじて埋もれておらず、沈み行く船のような危うさでゴミ山から顔を出していた。寝巻きにしているらしいスウェットの上下も布団の上に放り出されている。沼田は何とも言えない複雑な表情で、自分の部屋と同じ間取りのゴミ溜めを見やった。

 いったいどうやってこの部屋で生活しているんだろうか、と彼は想像をめぐらせてみるが、見当もつかないので無駄な思考を停止した。勝手口で靴と格闘していた古河が、ようやく這うようにして部屋に戻って来る。

「古河さん」

「んー? 何らね沼田君」

「明日、この部屋片付けに来てもいいですか」

 虚ろな目で発せられた沼田の問いに、古河は大きく首をかしげ、ややあってこくりとうなずいた。





 翌朝、沼田が隣室のドアをノックすると、意外にも古河は素早く返事をして彼を迎え入れた。彼女はシンプルなデザインのジャージに身を包んでおり、昨夜の醜態が嘘に思えるほどしゃっきりしている。

「まさか本当に来るとは思わなかった」

 意外そうな顔で言う古河に、沼田は苦笑して見せた。彼自身、貴重な休日を割いて隣人の部屋の片付けをするなど、おせっかいが過ぎるかと思っていたところだったからだ。

「悪いが私の助けと報酬は期待しないでくれ。要るものと要らないものの分別ならできるが……そのくらいだな」

 もとより助けなど期待していなかった沼田にとって、古河にわずかでも協力する気があることは意外だった。

「一応、片付ける気はあるんですね……」

「普段は面倒だからやらないだけだ」

 溜めておく方がずっと面倒なのに、と思いつつも、沼田はそれは口に出さずに、背負っていたリュックサックを床に下ろした。その中には、ありったけの掃除用具が詰め込まれている。この部屋でそれらを探すのに割く時間が惜しいと、彼が用意してきたものだ。

「じゃあ、まずはゴミを分別するところから始めましょうか」

 いずれにせよ、ものを減らさないことには話にならない。沼田がリュックサックからゴミ袋を取り出すと、古河はそれを受け取り、片端から要らないものを詰め始めた。



「沼田、そろそろお昼にしないか?」

 あらかたゴミが片付き、衣服が物干しに干され、雑誌がビニール紐でくくられたころ、古河が退屈そうな顔で提案したので、沼田はそばにあった目覚まし時計を確認した。12時26分。確かにそろそろ昼食を取ってもいい時間だ。

「なんだったら、弁当ぐらい買ってくるぞ。何かリクエストはあるか?」

 当たり前のように古河が言った。おそらく、彼女には“自炊する”という概念はないのだろう。まったく使い込まれた形跡のないガスコンロを見れば、それは容易に想像できた。

「……おにぎりでよければ、作ってありますけど」

「沼田は何から何まで準備がいいな!」

 控えめな沼田の提案に、なぜか目を輝かせて古河がうなずく。そうして、今すぐここで食べよう、とでも言うように手をすり合わせた。沼田はまだ掃除機も雑巾がけもしていない部屋を見渡し、その無邪気な視線から目をそらす。

「いや、ここで食べるのはさすがに……。よければ、僕の部屋で一緒に食べましょう」

 沼田の部屋の中央に置かれたちゃぶ台の上では、俵型と三角形のおにぎりが4つずつ、それぞれサランラップをされて部屋の主の帰りを待ち受けていた。

「おっじゃましま~す」

 嫌に陽気な声を上げて、先に古河が部屋に入った。沼田に手洗いをうながされ、思い出したようにそれを済ませると、ちゃぶ台の前に正座した。沼田は一足遅れて手洗いをした後、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、ちゃぶ台に置いた。

「俵型の方が鮭で、三角の方がたらこです」

 そう言いながら、冷凍庫から冷凍からあげを取り出すと、皿に盛り付けて電子レンジに入れる。解凍された唐揚げに、2本、つまようじを刺して、ちゃぶ台に置いた。

「おー、唐揚げまで。ありがたいねえ」

 沼田が座るまで、古河は律儀に正座して待っていた。

「あ、どうぞ、召し上がってください」

 彼が準備を終えてちゃぶ台の前に座り、そう声をかけると、古河は顔の前で手を合わせて、言った。

「それじゃ、いただきます」

 そうして、まずは俵型のおにぎりをつかんで、ほおばる。その口が、幸せそうな曲線を描いた。

「沼田は掃除も料理もできて、どこに嫁がせても恥ずかしくないな!」

「いや、ぼくはもらう方ですね……」

 なぜか自慢げな古河に、沼田が弱々しいつっこみを入れる。だがしかし、女性らしい淑やかさや繊細さを微塵も感じさせない――もっと言えば豪放で男勝りな古河からすれば、確かに沼田の方がはるかに家庭的で女性的だろう。外見を除けば。

 沼田は黙々とおにぎりと唐揚げを食べ続ける女性を見やった。人間ではない沼田にとって、ヒトを見分けるのは人間が馬を見分けるのと同じくらい難しい。肌の色、髪の色、目の色、体格……そういった大まかな違いはわかるが、顔立ちの違いや良し悪しとなってくるとお手上げだ。それでも、古河が均整のとれた顔かたちをしているのは、何となくはわかる。いわゆる、黙っていれば美人なのに、というタイプだ。

「しかし、よくその手でおにぎりが握れるな」

「あ、ええ、ちょっとコツがいりますけど」

 不意に話しかけられて、沼田は自分の左腕のハサミに視線を落とした。おにぎりを握る時には、左手は形を整えるために軽く添えるだけにするのが、彼流のコツだ。

「……ところで、沼田は特撮が好きなのか?」

 食べていたおにぎりを麦茶で飲み下してから、テレビラックに綺麗に並んだ特撮映画のブルーレイディスクを見やりながら、古河が言った。沼田は、「あ、はい」とうなずく。

「その格好でか」

 甲殻類の化け物じみた異形の怪人を頭からつま先までなめるように見ながら、古河が言った。それは、当たり前といえば当たり前の感想なのだが、沼田にとっては常々気にしていることであった。いつでも怪人は倒される側である。そんな怪人が、普通の人間に紛れてボロアパートに住み、土木業とアクターの2足のわらじでかつかつの生活を送り、あまつさえ特撮映画をはしゃいで観ているなんて。

「……やっぱり、変ですか?」

「いや、いいんじゃないか。怪人が六畳一間のアパートに住んで特撮見てるとか、おもしろいしな、絵的に」

 言って、古河が笑う。沼田もつられて苦笑した。客観的に見ても、古河はだいぶ変わった女性だろう。だがその不思議さが、かえって沼田にとってはありがたかった。色々な物事を――普通の人間なら、到底信じられないような出来事でも――すんなり受け入れてくれるのだから。

「しかもその怪人さんは、休みの日に他人の部屋の掃除に来るお人好しだし」

 少し呆れたような口調で古河が続ける。どこかばつが悪そうに、彼女は目をそむけていた。

「その、今日は、ありがとうな」

 ぼそぼそと歯切れの悪い感謝の言葉が、彼女の口から漏れる。普段見たことのない彼女の表情に驚いていた沼田は、やがてゆるゆると微笑むと、「いいんですよ」と答えた。




 このようにして、怪人さんの隣室の大掃除はつつがなく終了した。しかし、こうして手伝ってしまったがために、以後たびたび大掃除に付き合わされるはめになるとは、この時の彼は予想だにしていなかったのだった――。

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六畳一間の怪人さん ペグペグ @pegupegu

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