第39話 冬の中の再終列車-4
「車で行こう」
と、みどりさんが言うので、私はICカードにチャージしようとして出した財布をしまった。みどりさんが車を所有しているのだろうか、と思ったが、そうではなく、レンタカーを借りていくのだという。私は利用しないので知らなかったが、私たちが住むこの街にはレンタカーのお店があるようだった。
電車に乗らず、二人で改札を出る。それがいけないことのように思えて、私は密かに高揚していた。まあ、そうでなくてもみどりさんと二人で出かけること自体、私にとっては特別なことだが。
冷たい空気に清涼感を覚えつつ、徐々に昇ってくる太陽に目を細めた。
「まぶし?」
みどりさんが微笑んで言う。その笑顔がいつも見るものよりも楽しそうで、みどりさんも楽しんでくれているのだなあ、うれしくなる。みどりさんから誘ってきたので当然のことではあるのだが、みどりさんの楽しそうな顔を見ると、どうしても幸せな気持ちになってしまう。
「んーん、大丈夫です」
それはまるで運命だが、それと同時に、あの正体不明の記憶が本当のことのように思えて、少しの不安が影を落とす。
この関係は絶対に、不幸せで終わらせない。そう、密かに思った。
****
みどりさんの運転する車は、滑るように道路を走る。その滑らかさの割には、駆動部分の音は絶えずがたがたなっていて、車も努力しているのだな、と思う。暴風が吹き荒れているかのごとく、進行方向とは逆に景色が吹き飛ばされていく。電車よりは遅いが、自転車よりは速い。そしてバスとは明らかに違う。その速度の質が新鮮で、先ほどとは違う、冒険心のような興奮がこみ上げてくる。
「ねえねえねえねえみどりさん、これってどこに向かってるの?」私は興奮を隠さずに、はしゃいだ態度で訊いた。
「えーっと……海かな……」
「冬に!?」冬の水の寒さを想像して、早くも手足が冷たくなってくる。
「夏に行けなかったからさあー」あっけらかんとしてみどりさんは言った。
「ああ……いや入るの、海?」
「入んないよお、こんな寒い時期に」
「ですよね……ちょっと安心しました」
「あずさは私を何だと思ってるの……?」みどりさんは心底困惑した表情を作った。
その間もみどりさんの視線は前を向いている。いや、運転中だから当り前ではあるが、格好いいと思うと同時に、少し寂しくなる。みどりさん、こっち見て、とばかりに視線を送ってみる。
じー、っとみどりさんの横顔を注視する。
「意外に道混んでるな」みどりさんはぽつりとつぶやく。
「……」なにも答えずにみどりさんを見続ける。
それから二、三言、みどりさんはつぶやいて、車内はモーター音とタイヤの摩擦音に包まれる。運転に集中するみどりさんもいいなあ、と思ったが、それ以上に、ちょっとくらいこっちに気づいてよ、ともどかしく思う。
高速で流されていく景色を背景に、みどりさんだけ浮き出たように、私の目に映る。ずっと見ていると、そういう映像のように思えて、こちらを向かないのも自然なことなのではないかと錯覚しそうになる。
「……みどりさん」聞こえるか聞こえないかくらいの声で名前を呼ぶ。
「……」それでもみどりさんはこちらを振り向いてくれないので、私はたまらず、みどりさんの服の裾を少し引っ張る。気づいたみどりさんはこちらを一瞥し、「どうした?」とこともなげに訊く。
「何でもないですけど……」急にこちらを向いて、とか言われても困ってしまうだろうか、と直前で思い直して、しりすぼみになりながらもそういう。
「そ?」それだけ言うと、また黙ってしまう。
「むう……」仕方がないので、私は質問をあつらえて、言葉を投げる。「みどりさん、どのくらいに着くかわかりますか?」
「え、んー……あと一時間くらい?」
「長いよお」
「そうね……さっきまで楽しそうだったのにどうしちゃったのよ」みどりさんは微笑んで言った。
「いや……何でもないです」
「どうしたの? 今日は何にも言ってくれないじゃない?」
「う……だって……」
「だって?」
「だって……はずかしんだもん……」
「はずかしい?」みどりさんは前を向いたまま首を傾げた。いきなり首の筋肉がなくなったかのような仕草で私は密かにおかしくなったが、痛いところを突かれている状況なので、それを素直に楽しめない。
「は、はずかしいっていか……子供っぽいっていうか……」
「……どういうこと?」みどりさんは眉をひそめて訝しんだ。
「だ、だから……」私は電車で一緒になるというだけのお姉さんに何をこんなに甘えたようなことを考えているのだろう、とふと冷静になる。「だから……全然こっち見てくれないなあ、って思っただけですけど……」
「……そりゃまあ運転中だからね?」
「わかってますよお……」
「……? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないですけど」
「ですねえ」みどりさんは言ってから、「ちょっと休む? もう少しでサービスエリアが見えてくるけど」
「じゃあ……はい……」
「おっけー」
みどりさんは楽しそうな笑顔をもって答えた。その顔を見て、本当に楽しいんだな、と寂しさが少しだけ和らいだ。
****
サービスエリアで、昼食もかねて一休みした。私はラーメンを食べ、みどりさんはたこ焼きを食べる。どちらもジャンクだが、みどりさんの方がやや上品である。なぜって、たこ焼きは音がたたないが、ラーメンはずるずると音を立てながらでないと食べれないではないか。一応、意中の相手の前であるのに、こんなものを食べるのは乙女としてはいかがなものかと少し思うが、でも、冬のラーメンはこの世で二番目においしいものであると思う。
一番は、一緒にいたい人と食べる食事。
まあだから、どんなものを食べてもこの世で一番おいしいのだけれど、でも、この世で一番おいしいものになる状況下で、この世で二番目においしいものを食べれば、ワンツーフィニッシュで優勝なのだ。だからラーメンを食べた。たとえ音が鳴ったとしても。
食事を終えて、私たちは再び車に乗り、海を目指してタイヤを転がす。まあ、私はみどりさんの横で茶々を入れていただけだが。
三十分も乗っていると、徐々に海が見えてくる。冬の海は、低い太陽の光できらきらと輝き、星空を俯瞰しているような感覚になる。
「きれいだなあ……」思わずつぶやく。
「ああ、ほんとだ。奇麗ね」みどりさんは言ってから、おもむろに車のサンバイザーを降ろす。
「……それじゃあ下からの反射は防げないのでは」海の反射が眩しいのかと思い、そう言う。
「いや……海の反射は大丈夫なんだけど……太陽の眩しさに気付いた」
「ああ……」疲れているなあ、と心配になる。それから、フォローしたい、と思い、「歌詞にできそうな言葉」と言ってみた。
「でしょう」みどりさんは得意げにした。
それがなんとも愛しく感じ、ふふ、と笑ってしまう。
「なあにい?」照れ臭そうにみどりさんは聞いた。
「何でもないでーす」私は、悪戯っぽく笑って見せて、ゆらゆら体を揺らしていた。
もー、と言いつつみどりさんは楽しそうにしていて、一生こんな時間の中を過ごせたらな、と妄想してしまう。
そんなことはできないなんて、わかっている。年の差がありすぎるし、どうせ、私が卒業したりして、同じ電車にならなかったら疎遠になってしまうような関係なのだ。
連絡先も知らないし。
「……」訊けばいいのではないか、と気づいた。二人で平日に、海なんか目指すほどに仲良くなったのだから、いいじゃないか、訊いても。
期待と不安を感じながら、あの、と私は切り出そうとしたが、先にみどりさんが話し出した。
「楽しいなあ、なんか」みどりさんは、今までに見たことがないほど顔を緩めながら、言った。「あずさが一緒にいると、私はどうしたって、楽しくなっちゃうな」
みどりさんは真っすぐ前を見ていたが、その心は、確かに私を捉えていた。その言葉で、確かに私は捕えられた。私は何も言えなかったが、みどりさんは続ける。
「ありがとね、あずさ。海に付き合ってくれて」言って、左手をハンドルから離し、私の頭に二度触れた。
たまらなくなる。ずっと続く、みどりさんへの好意が、すべて切なさへと変わる。
そんなの、いつだって付き合う。あなたが呼んでくれたら、私はどこへだっていく。だから、もっといろんなところへ行こう。いろんな時間を過ごそう。あの時できなかった、いろんなことをしよう。
いろんな気持ちを、あなたの傍で感じたい。
だからそんな風に、改まった言い方をしないで。
「……みどりさん、私は」そこまで言って、思いとどまる。ここで、みどりさんにすべての感情をさらけ出したとして、それでどうにかなるものか。私たちはただの同乗者だ、恋人同士じゃない。私が今感じたことを伝えても、気持ち悪い、と思われるだけだ。
そんなの、逆効果だもの。
「……私も、楽しいですよ、みどりさん。誘ってくれてありがとうございます」
そんな当たり障りのないことを言った。普通の人が普通に言うような、そんなことを言った。焦らなくていい。そう言い聞かせた。
「いえいえ」
みどりさんは言って、ふふ、とまた笑った。
私は自分の気持ちを処理するのに必死で、結局、連絡先を聞くことはできなかった。
****
夏場は海水浴客でにぎわっているであろう浜辺も、冬の時期はがらんどうだ。海の家はおろか、砂浜には足跡一つついておらず、人の気配が全くない。青空の下、灰色の海が目の前に広がり、近くで見ると美しさなど感じない。海という場所が自然の一部であることを認識した。
レンタカーは、海水浴客のために作られたであろう駐車場に停めてある。みどりさんはしきりに、潮風で劣化しないかな、と気にしていた。それがどれだけの問題なのか、私にはわからなかった。まあ、寒空の下、そんなに長い時間いるわけではないだろうし、大丈夫だろうと思う。
「これは、すごい海だね」みどりさんは言ってから、んーと伸びをする。
「思ったより海ですね」私は言って、みどりさんと同じように伸びをする。
「ふふ、なんか姉妹みたいね、私たち」みどりさんは言ってから、「おねえちゃんって、呼んでもいいのよ」と言ってくる。
「……」私は少し切なくなる。戯言で傷つく自分にあきれるが、姉妹ってよりは恋人になりたいなあ、と性懲りもなく思う。
それから、こんな気持ちにさせられたのだから、少し仕返しをしようと思う。かわいい、って思わせよう。
そう思い、おずおずとみどりさんに近寄り、みどりさんのコートの裾を少し引っ張って、言う。「みどりおねえちゃん……すき……」
「はは、かわいいな妹。よしよし」とんでもない勢いで受け流してくるみどりさんを見て、これは勝てないな、とあきらめた。
それから、みどりさんは海を見ながら、砂浜をかみしめるように歩いた。雪原を闊歩するかのように、ざくざくぎゅっぎゅ、と音を鳴らしながら歩く。それがなんだか小さな波音のように感じた。
ざざー、と波の音を右に聞きながら、
「お姉ちゃん、手を繋ぎたいです」そんな風に言ってみた。さっき、駅のホームで手を繋いだのは、あれはみどりさんの手を温めるための行いなので、ここで望んでいる手を繋ぐ、という行為には該当しない。なんてよくわからない理屈をこねながら、みどりさんを見上げる。
「お姉ちゃんに任せなさい」みどりさんは得意げに言って、私の手を取った。その手は、先ほど触れたものとは別人であるかのように温度を得ていて、しかし、顔を見ながら、みどりさんの手であることを実感する。「あずさの手はちっちゃいねえ」
「む。そんなに変わらないでしょう」
「そっかな?」みどりさんはとぼけたように言った。
私の手は、みどりさんのよりはわずかに小さかった。だからこそ、みどりさんと手を繋いだときに、みどりさんの温度をより感じられると気づく。
「だったらいっか……」
「んー? なあに?」
「何でもないです!」
みどりさんが悪戯っぽく訊くので、私はむきになって言う。今日のみどりさんはなんだか、私をからかったり、甘やかしたりと、気楽な感じで接してくれる。
そうそれは。
昔に戻ったかのように。
恋人同士だったあの頃のように。
「……」
会話が途切れ、手を繋いで歩くだけの時間が過ぎていく。波音と、私とみどりさんの呼吸、足音だけが音のすべてになる。
恋人同士だったころなんて、私の夢でしかない。私の妄想でしかない。それでもその思い出は鮮明で、私の心に深く深く刻まれて、実感を伴っている。私の心を動かして、あの頃に戻れたらなんて、そんなことを思わせる。
またあなたと、一緒に居られたら、なんて。
今度こそあなたと、幸せになれたら、なんて。
私の耳には、強い心臓の音も響いていた。うるさいなあ、と思うが、これこそが私の意思なのだろう。
数メートル歩いた後、私の脚は、私の意思に関係なく、勝手に止まった。そして、私の口は、私の感情が理性を完全に打ちのめすのを見届けて、動き出す。
「みどりさん、好き」
「知ってるよ」
「そうじゃなくてね」私は、つないだ方の腕でみどりさんを引き寄せ、抱き付いた。「そうじゃなくて」
「……そうじゃない好きっていうのも、知ってる」みどりさんは優しく言ってから、私の頭に触れた。「あずさ……どきどきしてる?」
「ずっとしてますよ……あなたにあった日から、ずっと」
「それはそれは、長い間ご苦労さま」
「本当ですよ。みどりさんはどう思っていたか知りませんけど、私はね、みどりさんにあってから、ずっとずっと、みどりさんに好かれる人になるにはどうしたらいいか考えていました。ずっとずっと、みどりさんと幸せになるにはどうしたらいいかって、そんなことばかり」
「ちゃんと勉強しなさいよ」
「あなた以外、どうだっていいもん!」
「子供みたいね」ふふ、とみどりさんは笑った。
「子供だもん……今はあなたより、子供だもん……」
「……」みどりさんは言葉を探しているのか、黙った。今は、という言葉に引っ掛かりを覚えたのかもしれない。
私の、自分の夢物語を踏まえた発言を、みどりさんはどう思うのだろう。不気味に思うかもしれない。しかし不気味に思われることが、それが現実となることが、怖いなどとは思わなかった。
みどりさんも、きっと同じ夢を見ている。そんな、確信に近い予感があったからだ。
「……私は」みどりさんはゆっくりと口を開く。何か、言いあぐねているような印象があった。「私は……今は……今はあなたと、同じ景色は見れない」
そんな風に言ってから、続ける。「私は……あなたを、本当は遠ざけなきゃいけなかった。きっと、あなたは私に心を砕いてくれるから。でも、でも今は、今回は、あなたを遠ざける必要があった……ずっと一緒にはいられない、って初めからわかっていたから」
みどりさんは言った。やはり何か、私と同じ場面を見ているのかもしれない。
例えば、私があなたに、大嫌い、と突き放した場面とか。
例えば、ベッドに横たわっているあなたの隣で、私が神様に祈っている場面とか。
そんな、夢の内容が、頭をめぐっているのかもしれない。
「私は」みどりさんは口を開いた。「私はね、今週中には、もう転職して、あずさの町から出ていくんだよね。結構遠いとこ。県を三個くらいまたいだところにある職場で、実家から通おうかな、って。だから……ごめんね、あずさ」
そんな風に言ったみどりさんに、私は結局、連絡先を聞くことなどできなかった。
目をそらして、気まずそうに言うみどりさんは、もう、夢の中の私の恋人のものではなかったからだった。
みどりさんがもう、私の傍から消えたかのような、そんな感覚に襲われて、再終列車は終点に到着したようだった。
今日もあなたが好きなので。 成澤 柊真 @youshi
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