第38話 冬の中の再終列車-3
私は、いつもより三十分早く家を出た。何のことはない、気持ちが逸ってしまっただけだ。
朝起きてもまだ、家族は誰も起きていなかった。なんだか新鮮だ、と楽しくなりながら、私は朝の準備を着々と済ませる。料理は目玉焼きくらいしか作れないので、途中でゼリーミールを買っていけばいい、と食べずに、支度が出来次第、家を出た。
「……さむっ」
冬の朝はただでさえ寒い。それに加えて、今は早朝から朝への橋渡し的な時間帯だ。当然、私は、凍てつくような気温が支配する世界に、身を投じることになる。吐く息は白く、辺りは少し薄暗かった。
好きな人に好きだと言われて、勘違いして、落ち着かない気持ちになるのは仕方のないことだろう。だから、私が今この場にいるのは、私のせいではなくみどりさんのせいだ。
『好きだよ、あずさ』
手を繋ぎながら、そう言ったみどりさんの顔が頭に浮かんで、私は今にも、破裂しそうな気持だった。
「うう……」
ざくざくと音が鳴りそうな、怒ったような歩き方をする。別に怒っているわけではないが、昨日の、みどりさんの好きという言葉を思い出すと、胸がざわつく感じがして、たまらなくなるのだ。今はそのたまらない感情を体にぶつけるしかないので、こんな風に膝に負担をかけていた。
私は極力何も考えないようにしてずんずん進んで駅を目指す。
****
「……みどりさん?」
私は、駅のホームで、みどりさんのことを待つつもりでいた。しかし予想に反し、みどりさんはすでに駅に到着しており、ホームに設置してある椅子に座っていた。
みどりさんは、背もたれに身を預けたまま、身動き一つ取らない。
「みどりさーん?」
呼びかけても返事がなかった。
「みどりさーん」
もっと近寄って、少し声を大きくする。それでも返事がなかった。
「……」
そこで、みどりさんは眠っている、と気づいた。こんなところで、と思ったが、私も帰りの駅とかで座ると、たまに眠りこけてしまうので、そう不自然なことでもない。
「みどりさーん」
言いながら、私はみどりさんの肩をもって、体を揺らす。それだけでドキドキしてしまう私は、自分からしても末期だと思う。
「みどりさーん」
「……ん」みどりさんはそうやって声を漏らした後、ゆっくり目を開ける。
「あ、おきた?」
「うん……うん、おきた」
みどりさんはうつむき加減な姿勢のまま、何度か頷く。全然起きてないなあ、と思いつつ、その姿が小さい少女のようで、庇護欲がこみ上げる。
「よしよし」と、思わず頭を撫でた。
「うう……あずさ……?」みどりさんは寝ぼけ眼で私を見て、首を傾げた。「なんで私の家に……?」
「残念ながらここは駅です、みどりさん」
「え」みどりさんは一気に覚醒したように目を見開き、辺りを見渡す。「あれ、あれ」
「大丈夫ですか……?」
「あ……あー……なるほどね……ついにか……」みどりさんは何かを察して、落胆したような声を出す。「やってしまった……」
「どうしたんですか?」
「……昨日、家帰りそびれた」
「は……?」
「家帰る前に、疲れすぎて、ここで寝ちゃったみたいで……」
「冬の寒空の下? 駅で寝たんですか?」
「そうみたい……」
「え、だ、た、体調とか大丈夫ですか? か、風邪とか引いてませんか? ねね熱は?」
「取り乱さない」みどりさんはぴしゃりと言ってから、「はい深呼吸」と、私の肩を触る。
「すうううううはああああああ」
「はい、よくできました。よしよし」と、みどりさんは私の頭をなでる。
「えへへえ」私はそう笑ってから、「いや、そうじゃなくて。そうではなくて、みどりさんが大丈夫ですかというお話なんですけど」
「んー……こう言ったらあずさがまた心配するかもしれないんだけどさ……」みどりさんはそう前置きしてから、「こういうこと、前にもあって、ってかほぼ毎日あって……まあ流石に家に帰らないってことは初めてだけど……」
「おこです」
「怒らないでほしいです」
「なんでそんなになるまでお仕事なんか……」
「ま、そういう職場だからしょうがないね」みどりさんは淡白に言った。
「で、でも」
「いいんだよ、もう」みどりさんは言ってから、私の頬を撫でる。「……そいえばあずさ、今日は来るの早くない?」
「え、あ、ばれた」
別に隠してはいないが、私はなんだかやましい気持ちになる。
「んー? どうして? ばれちゃまずいの?」
「え、いや、そんなことないです」
「絵にかいたような嘘だなあ……」みどりさんはあきれたように私を見る。
「いや……だって……」
みどりさんが好きだなんて言うから。なんて、そんな風に続けるには少し度胸が足りなかった。度胸というか、みどりさんのことをよく知らないから、もし違っても冗談で済ませてくれたりするかが、わからないのだ。
「みどりさん、今日は会社休んだほうがいいよ。家でゆっくり休んでよ」
「んー……まあもう、それでもいいんだけど……」
みどりさんは首をかしげて悩む。何を悩む余地があるのか分からない。昨日の夜の気温は3度だった。いくらもこもこの上着を着ていたとはいえ、そんな気温の中では、疲れなど取れるはずもない。
「……ねえ、あずさ」みどりさんは頭を元の位置に戻す。「これから学校?」
「ええ、まあ……始業まであと二時間くらいありますけど……」
「なあるほど。ちなみに今日はテストとかは?」
「ないですね……来週ですけど」
「ええああ、来週かあ……じゃあ申し訳ないな……」
「なんですか……?」
「えっと……」みどりさんは逡巡してから、言いにくそうに言う。「いや……あずさと一緒にどっか行きたいなあ、と思って」
「今からですか? 行きましょう」
「即答とはお姉さんたまげたなあ……」
「別に大丈夫です。テストの一週間前なんて何にもやることなくて自習になってる教科がほとんどですから、休んだところで影響はありません。休んで勉強している子とかもいますしね。それに、もしもテストの一週間前に休んだ程度で駄目になるような出来なら、今日学校に行ってやったとしても無意味ですよ、どうせ駄目です。さらに言うなら……」
「あ、もう大丈夫です」
みどりさんは私に手のひらを見せて制止する。まだまだ理由はたくさんあったが、みどりさんがやめろというのなら、私は黙るほかない。
みどりさんは、んー、と考えるそぶりを見せてから、いや、と被り振る。
「めんどいや、いこっか、あずさ」
言いながら、みどりさんは立ち上がって、私の手を取った。
一晩中外にいたみどりさんの手はとても冷たく、私の手があっと言う間に冷たくなった。
「みどりさん、手が……」言って、私はその右手を両手で包んだ。
「暖かいけど、あずさのが冷たくなっちゃうよ」
「いいんです」私は、みどりさんの手をカイロの入っている左のポケットの中に入れる。「これでようし」
「ふふ、ありがと」
みどりさんの笑顔は、私を惹き付ける。しかし、今日のそれはやはり疲れを湛えており、私は、みどりさんを握る手に少しだけ力を籠めた。
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