最終話 我輩の夜。

 ご主人の登場である。

「にゃー!」

 我輩は心からの救援を求めて、悲鳴じみた鳴き声をあげた。幼児たちは突然の女神の登場に面食らったのか、それともご主人のあまりの神々しさに幼心に畏怖でも感じ取ったのか、動きを止めた。

「近所の幼稚園の子かな? ごめんね。その猫、私の家で飼ってるの」

「そうなの?」「おねえちゃんのねこ?」「おなまえは?」「ご、ごめんなさい」「おす? めす?」

 幼児たちが矢継ぎ早に問いかける。どうやら彼らの興味は我輩からご主人へと多少移ったらしい。

「名前はセンセーだよ。オス猫」

 ご主人は幼児から我輩を受け取ると、我輩を紹介する。途端、五人の幼児は声を揃えていった。

「「「「「へんななまえ!」」」」」

「そ、そんなに変かな?」

 あまりに息がぴったりだったので、ご主人はショックを受けたようだ。まぁ、我輩は幼児の乱暴な手を離れ、愛しのご主人の腕に抱かれる喜びを存分に味わっていたので関係ない。

 しかし、やはり変な名前なのか。

「せっかくだし、また今度可愛がってあげてね。センセーも喜ぶから」

 あのような可愛がり方は正直勘弁なのだが、その気持ちはどうやら伝わらないようだ。

 その後、ご主人は幼児たちに我輩の正しい撫で方を伝授し、ようやく帰路へと戻った。我輩は幸運にも、また光栄にもご主人に抱かれたままである。

「お散歩だったの? センセー」

 我輩は「にゃー」と返事をする。

「下校途中で会うなんて、素敵な偶然だね」

 まったくである。この世にこうも幸運なことがあるのか。幼児の魔の手から一転、女神の腕の中である。

「お散歩もいいけど、あんまり遠くに行っちゃダメだよ?」

 言葉が通じないというのは、なんと不憫なのだろう。猫と人間、こうして触れ合うことはできても、語り合うには我ら猫も力不足である。この溢れんばかりの敬愛を、どうにか伝える術はないものだろうか。

 せめてもの行動として、頭をご主人の腕に擦り付け、この敬愛を伝えてみる。ご主人はくすぐったそうに笑ってくれた。

 ご主人は今日も学校で勉学に励んだ帰りであろう。きっと我輩よりもずっとお疲れに違いない。しかし、そんなことは微塵も感じさせないご主人の包容力と気遣いに我輩は感銘を覚えた。

 できることならこれ以上ご主人に負担をかけることなく、己の脚で歩いて帰るべきところではあるが、抱かれたままの帰り路はひどく楽なものである。抗いがたきとはまさにこのことだ。

 今日振り返れば、今朝は幸運にもスルメをもらい、昼はジローのせいでいらぬ運動をし、最後に悪魔に襲われるという、なんとも落ち着かない一日であったが、こうしてご主人に抱かれて帰るという滅多にない経験をできたことで、トントンというべきだろう。

 はたして、明日はどんな一日になるのだろう。

 我ら猫の一生は、人に比べて短いらしい。

 我輩はまだせいぜい四年少々しか生きていないが、ご主人でさえ十年以上、父上や母上はその何倍もの時間を生きているという。我ら猫は長生きしても二十も生きられないことを思えば、それ以上の生など想像できるはずもない。

 だが、正直に言ってしまえばそんなことはどうでもいいのだ。

 我輩には今があり、ご主人にも今があり、ジローや父上や母上にだって今がある。

 そして我輩たちは、とりあえずの明日の心配をすればよい。明日の予定を想像できさえすれば、何十年先のことなど、どうでもよいのだ。

 明日は商店街とは逆の方向へと散歩に行こうか。

 ご主人の学校が休みならば、家でご主人と一日中戯れるのも良い。

 たまには野良猫どもと精一杯喧嘩するのも、一興であろう。

 我輩には今があり、きっと明日もあるだろう。

 それさえわかれば、今はご主人の腕に抱かれる幸せを堪能するだけでよい。それでよいのだ。

「それにしてもセンセー、ずいぶん汚れてるね」

 ん? なぜだろう。突如、不思議な悪寒が全身を駆け巡った。尻尾が脅威を感じて伸び上がる。

「帰ったらお風呂だね。逃げちゃダメだよ」

 この時ばかりは、ご主人が恐ろしくてたまらなかった。



 夜である。一日を終え、今日も我輩はご主人の部屋でご主人の話を聞いている。

 我輩の全身の毛は美しく輝き、肉球から尻尾の毛先まで綺麗に洗われている。生まれ変わったような気分である。これが、風呂という水攻めを耐え切った末の成長ということであろう。

 人間にしろ、猫にしろ、苦難を越えれば成長するものである。

「今日はね、隣のクラスのえっちゃんがね――――」

 ご主人は楽しそうに、今日学校であったことを我輩に話してくれる。ご主人は毎日のように、その日のことを我輩に話して聞かせるのを日課としているのだ。

 光栄、ここに極まれりである。

 我輩はいつものようにご主人の膝の上で丸くなり、その可愛らしい声と、ご主人の「今日」を聞く。

 それを聞いて、我輩は我輩の「今日」を語れないことを不甲斐なく思いながら、ただ聞き耳をたてる。我輩に話すことが、ご主人にとって幾分かの癒しになることを願って。

 ああ、明日がまた楽しみである。

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センセーは今日も眠る。 鯱原明日華 @Asuka-Syachihara

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