第4話 我輩の窮地。

 魚屋の親父から逃げ回り、ようやくその魔の手から逃げおおせたのは、すっかりと太陽が中天を超えた昼過ぎであった。途中、ジローと二手に分かれ、親父がどちらを追ってきても恨みっこなし――我輩からしてみれば、巻き込まれもいい所である――と言い交わし逃走を再開したが、そもそも魚を盗んだのはジローなのだから、親父が我輩を追いかける理由はない。こういったことに思慮が向かないのが、野良猫の浅はかさである。

 ともあれ、ようやく安息を得た我輩は、自分がご主人の住む住宅街からかなり離れた場所を歩いているのに気づいた。魚屋の親父に追いかけられているうちに、こんな遠くまで来てしまったようだ。

 空を見上げ、おおよその時間を把握する。今日はジローのせいで疲れたし、そろそろ帰ろうかと考えた。

 歩き慣れない場所ではあるが、我輩が迷子になどなるはずもない。我が家への道はすぐにわかった。

 いつもなら商店街を通るのが最も近道である。だがしかし、今日はその道は使えまい。我輩にはまったく罪などないが、気が立っている魚屋の親父の傍を通るなど、自ら殺されにいくようなものである。

 仕方ない。新たな道を模索することも、また散歩の一興である。

 そう結論づけ、我輩はまったく知らぬ道を模索し、我が家へと帰ることを決めた。すぐ近くの塀をひょいと登り、家と家の間を歩く。

 さて、いったいどんな驚きが待っているだろうか。その時の我輩は、いつも通りの悠々自適で愉快な帰り道を信じて疑っていなかった。

 しかし、その日は大量の車の中を歩き、運悪く魚屋の親父に追いかけ回されるという厄日だった。一日二回も三大天敵に襲われるとは、つくづく運のない日だと思う。

 そして後からご主人がこんなことを言っていた。人間の社会ではこんな不吉な言葉があるという。

「二度あることは、三度ある」と。


 経験者曰く、「奴らには近づくな」と。

 被害者曰く、「見つけたら逃げろ」と。

 物好き曰く、「運が良ければ優しい」と。

 現代で生活すれば、毎日見かけるであろう「車」。

 手を出したら最後、穏便には済まないであろう「魚屋の親父」。

 これらに並ぶその三大天敵の最後の一つは、まさしく天変地異のごとく、前触れなく我々猫を襲う。

 車と親父が、避けようと思えば避けられるのに対し、奴らを避けるのは困難極まる。それこそ事前に察知して離れるしかなく、奴らに捕捉されたら最後、我々に逃れる術はない。

 あの猫界でも俊敏さを誇る三丁目の悪戯集団が、あっさりとやられたという情報を聞いたばかりだ。その恐ろしさも自然と伝わろうというもの。

 もっとも、我輩は今まで運良く奴らの魔の手にかかることはなかった。しかし、それが我輩の散歩コースが偶然奴らを避けていたからだとは気づかなかった。

 今日、奴らに出会うまでは。


 我が家まであと少しという時であった。

「ねこちゃんだーっ!!」

 突如、我輩は自分の体が掴みあげられ、宙に浮くのを感じた。感じた時にはすでに遅い。

 奴ら「幼児」の襲来である。

 偶然にもその言葉は、我輩を初めて抱いたご主人の第一声と同じものであったが、そんなことを考える余裕は我輩にはない。

「ねこー!?」「ほんとほんと?」「にゃーにゃー!」「さわらせてー!」

 すぐさま第二第三の幼児の魔の手が我輩の体を蹂躙しようと伸ばされ、我輩は必死に抵抗する。

 自慢の爪を閃かせようと前足を動かしたが、何分今日一日でずいぶん疲れてしまったせいもあり、うまく爪を立てることができない。

「ねこちゃん、かあいいーね!」

 我輩を胸に抱いた幼児は、我輩が初めてご主人に会った時よりもだいぶ幼い。聞いたところによると、彼らは大抵が四、五歳程度の年齢であり、幼稚園やら保育園というところに通っているという。そして集団で散歩に出かけては、我ら猫を襲っていく恐ろしい生き物である。

 四歳といえば、我輩と対して変わらぬ年齢である。猫の四歳がこうも世に慣れ、日々をたくましく生きているというのに対し、彼ら人間の四歳とはこうも過激であるのか。

 今までは噂でしか聞いたことがなかったが、こうして体感してみると確かに恐ろしい。

 ご主人が我輩を撫でる時、優しく愛情込めて撫でてくれるのだが、幼児にはそれがない。己が欲望に身を任せ、ごしごしと我輩の毛を撫で回す。撫でるというよりもそれは、まさしく削るというべき手つきであった。

「ねー、わたしにもかしてー!」「そのつぎわたしー!」「やだわたしがみつけたのー!」「ぼ、ぼくもさわりたい!」「じゅんばん! じゅんばんまもらなきゃだめなんだよ!」

 悲鳴をあげる我輩など意に返さず、彼らは我輩を取り合って足を引っ張るわ、胴体をきつくきつく抱きしめるわ、尻尾をぎゅっと握るわ、我輩はこんなところで死ぬのかと本気で思ってしまった。

 しかし、日頃の行いがよいからであろう。我輩に女神がほほ笑んだ。

「あれ、センセー?」

 我輩にはその声が、紛うことなき女神の声に聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る