第3話 我輩の散歩。

 今よりずっと昔の猫は、いったいどうやって暮らしていたのだろう。

 当時から家猫対野良猫の、仁義なき戦いが繰り広げられていたのかもしれないし、圧倒的に家猫は少なかっただろうから、案外仲良く助け合っていたのかもしれない。

 ご主人の朗読を聞いていて知ったが、あのへんてこな書物が書かれていた当時は、「書生」なる化け物が、時折猫を喰っていたという。なんとおそろしい。

 だが天下泰平の現日本で、そんな化け物が出るわけもない。

 変わりに現代の猫の生活を脅かす物が、みっつある。

 ひとつは語るべくもない。

 固いコンクリートを猛スピードで動き回る、爪もきかぬ怪物である。

 言わずもがな、車であった。


 すぐ左側を、何台もの車が飛び回っている。我輩が暮らす葛城家のある住宅街から離れると、ひとつの大通りに差し掛かるのだ。

(…………)

 我輩はどうしようかと歩道で思案した。

 周囲にはまばらに人通りがある。年齢はまばらだが、大抵が大人である。ご主人くらいの歳の人間は、皆学校に行っているのであろう。時折母親と一緒に歩く幼子とすれ違うことがあるくらいだ。その度、胴体に触ろうとする手から避けるべく、我輩は体をくねらせる必要があった。

 横断歩道の前で立ち止まる。信号は赤である。青だろうが赤だろうが、それが突然黄色の光を出そうが、猫である我輩には何の関係がないのだが、我輩には無事ご主人の元へと帰る義務がある。安全に渡れるというのなら、それに越したことはないであろう。

 律儀に青信号を待つ我輩に対して、周囲の人間が奇異の視線を向けているのを感じた。こう、尻尾の毛先が揺れるような違和感を感じるのだ。

 本能なのか、気のせいなのか。それはわからないが、我輩は澄まし顔でただ前を向いていた。変にキョロキョロする必要はないのだ。

 信号が変わる。我輩はスタスタと駆け足で横断歩道を駆け抜けた。巨大な足が、我輩の真横を次々踏んでいくのにはもう慣れた。むしろ我輩を避けるように人間は歩いていた。

 不思議と気分がよい。これは一体どういうことなのか。


 横断歩道を超えた先にあるのは、目的地であった商店街である。

 商店街というのはおもしろい。まったく違う店々が立ち並び、人間がひっきりなしに動き回る。時折、どこにいたのかと驚くほど大勢の人間が、ひとつの店に押し寄せることもある。

人と人が動き回り、会話を交わし、時に喧嘩し、時に笑う。

 くるくる回る車輪のごとく、めまぐるしい人間模様は、我ら猫にとって、実に興味深く、愉快なものであった。

 平日の昼間ということもあり、人通りはそれほど多くない。店はほとんど開いたばかりといった感じだ。

 我輩は堂々と通りの中央を歩いた。人通りが少ないといっても、我輩の好きな商店街の雰囲気ともいうべき感覚は消えていなかった。車の走るうるさい騒音もなく、かといって静寂にも包まれていない。ただ人の営みの音があった。

(おい)

 ちょうど肉屋の目の前を通り過ぎた時であった。

(おい、センセー)

 我輩は自分の名前が呼ばれているのを感じてはいたが、歩みを止めることはしなかった。

(おいってば!)

 なにぶん、猫の一日は短い。朝は低血圧で体が動かないこともしばしばな我輩にとって、一日が本格的に始まるのは昼からと言ってよい。そしてご主人が帰ってくる夕方までには玄関に座し、お疲れのご主人を出迎えるという職務のある我輩に、無駄な時間など一時たりともないのだ。

(いい加減こっちを向け!)

 急に我輩の体に影がかかった。我輩は素早く身を翻し、その場を離れる。直後、しゅたっと一匹の猫が我輩がさっきまでいた場所に降り立った。

 やや薄汚れた白に、特徴的な茶色と黒の模様は本猫曰く美しく気高い野良猫の自由を示しているらしい。真偽は知らない。そもそも、我輩には家からまったく動かない三毛猫の知り合いもいる。

(なんだ、ジロー。いたのか)

 この商店街に住む野良猫であるジローの登場に、我輩は一切悪びれずにそう言った。

(さっきから呼んでたじゃねぇか。ぜってー聞こえてただろ)

(野良猫と違って暇ではないのだよ。先に言っておくが、魚屋へ行くのには付き合わんぞ)

(けっ、暇でない猫なんているのかよ。相変わらず家猫はノリが悪いったらねぇ)

 ジローは吐き捨てるようにそう言った。その相変わらずな姿に我輩は笑った。

(それで、今日はいったいどういう用事だ?)

 我輩が家猫の矜持をこの毛皮にまとっているように、ジローもその三毛猫模様に野良猫の自由を誓っている。ソリが多少合わないのは仕方のないことだった。ここまでの会話は挨拶のようなものである。

 家猫と野良猫はかねてより不仲だが、朝から晩まで角突き合わせて――猫なので角などないが――喧嘩をしているというわけではない。加えて、このジローは話がわかる猫だ。野良猫の誇りがあまりに頑固なので、かえって家猫にそこまで噛みつかない。

 おかげで我輩とジローは、こうして外で会えば話す程度の腐れ縁となっている。

(三丁目の連中が奴らにやられたってよ)

(何? 三丁目といえば、あの悪戯猫共か?)

 三丁目の猫共は、悪戯好きな連中としてここらの界隈では有名であった。日夜ゴミ箱をむやみにひっくりかえし、集団で魚屋を強襲しては、猫の三大天敵のひとつである「魚屋の親父」に追いかけられる日々を送っている連中だ。

 ほぼ全員が我輩やジローより若造で、まさしくやんちゃざかり。野良猫界の暴走族みたいな連中である。

 家猫野良猫関係なく、猫という生き物はどいつもこいつもやんちゃ心が多かれ少なかれあるので、我輩も連中を責めるつもりなど毛頭ないが、その連中がやられたという情報は、我輩の心胆を震え上がらせるには十分であった。

(奴らを見てると、家猫連中が心底信じらんねぇぜ。よくあんな奴らと一緒にいられるな)

(ふんっ。あのような分別のない連中と、我輩の愛くるしいご主人を一緒にされては困る。家猫のほとんどは、あのような扱いは受けぬ)

 ご主人の名誉のため、我輩は断固としてジローの言葉を否定する。しかし、さすがは野良猫というべきか、ジローは我輩の話など聞かずに、突然立ち止まった。

(……腹、減ったな)

 ジローが顔を上げるのを見て、つられた我輩も視線を上げた。

 そこは魚屋であった。うまそうな魚が、生気のない顔をわずかに台からはみだしてこちらを見ていた。

(……おい)

 我輩はジローを止めるべく行動を開始したが、遅かった。

(野良猫の自由に障害などないっ!)

 信条を声高に叫んだジローは素早く一匹の魚の頭をがしっと咥えると、全体重でそれを台からかっさらう。それを確認した我輩は全身の毛が一瞬で脅威を察知して逆立つの感じた。

(この大莫迦者めっ!)

 ジローは呆然と立ち尽くす我輩の真横を、魚を咥えたまま疾走する。我輩も慌てて身を翻した。

「このクソドロボウ猫っ! 今日という今日は許さねぇぞっ! ぶっ殺してやるっ!!」

 直後、商店街中に響き渡る大音声が我輩たちを追いかけて響き渡った。

 魚屋の親父の登場である。

 自らの宝をかっさらわれた親父は、下手猫を退治すべく、商売道具である分厚い包丁を取り出して我輩たちを追ってくる。魚屋の親父は手を出したら最後、こちらを見失うまであのおぞましい凶器を片手に追ってくるのだ。

 本来なら逃げる理由など何もない清廉潔白な我輩であるが、そんな温情が通じる相手ではない。最悪冤罪で真っ二つである。そんなことになっては、愛するご主人に会わせる顔がない。

 我輩は隣を駆けるジローに、その爪を突きたてようと怒声をあげた。

(ジロー、貴様っ! なぜ我輩まで逃げねばならん! 魚屋に付き合うつもりはないと言ったろうが!)

(ここまできたら一心同体だろ? 今日もごちそうにありつけてラッキーだぜ!)

 追われ慣れているジローは、魚を落とさぬよう器用に笑う。その忌々しい顔に、我輩は並々ならぬ憎しみを覚えた。

(これだから野良猫はぁ〜!!)

 二度とジローとなんぞ話してたまるか。我輩はそう誓ったのだった。

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